2001年2月18日 顕現節第7主日 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの」

第1日課   エレミヤ書7:1-7

主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行ないを正せ。そうすれば。わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行ないを正し、お互いの内に正義を行ない、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」

第2日課 コリント人への第1の手紙15:12-20

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

福音書 ルカによる福音書6:37-49

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人と決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか、二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください。』と、どうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことが出来る。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野バラからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

「わたしを『主よ、主よ』 と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行なう人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

説教 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの。」

ルカによる福音書の6章37節から49節のお言葉でございます。

今日の福音書の日課では、イエスさまがしっかりとした家を建てて、その土台が堅いものでしたら、たとえ洪水が起こってもその家は崩れないというお話でございます。

そこで、エルサレム近辺、パレスチナというところを考えてみますと、洪水が起きるところはどこかちょっと思いつきません。あるかもしれませんが、私の知識ではないのです。ヨルダン川は深いところを流れているので、あふれ出るようなところでございません。それでは、イスラエル人がイエス様のお言葉を聞いて、もしも洪水が起こったらあなたの家は大丈夫ですかという話はどういうことでしたでしょうか。彼らはきっともっと昔の話しを思い出したことでしょう。大洪水が起こった時、この地球全体に水があふれて、ほとんどの人がそれで亡くなったということを思い出したでしょう。ということは、この話しはただの水が出るということではなく、これは地獄の話ではないでしょうか。最後の審判にわたしたちはどうなっているでしょうかと考えさせるお言葉でないでしょうかと思っております。ノアの時代は世の中がとっても乱れていたのです。そして、神さまが人間を造ったことを後悔なさったのが見えます。そして、全部を無くそうと考えなさったのですが、でも一家族だけは、彼に忠実であったことで、その家族だけを、八人だけを、ノアとノアの妻と三人の息子とそのよめさんたち合計八人が残ったのです。日本の文字の中に、[船]という字がありますが、舟へんに八口と、八つの口を書くのです。大きな船、汽船などにその船の字を使うのです。やはり、神さまのお救いを記す言葉であるのです。そういうことをイエスさまがこの話しをなさった時、皆が思いついたことでないでしょうか。

わたしたちの世の中には人を批判することが結構あるのです。批判をしないという人は少ないでしょうね。「裁くな」あるいは「人を罪人だと決めること。定めること。」この罪人と決めることは法廷で使う言葉です。犯罪人と決めてしまうそれほどきつい言葉です。でも、新聞を見るとほとんど毎日、誰かが訴えられて、悪い者となっていることが目立ちます。そして、この世の中で本当によいこと、勿論批判している人は自分が正しいから、他の人を批判しているのです。そして、自分が悪かったら、人を批判できないのです。それで、そういう世の中ですから、実際にわたしたちが世の中を良く見ると人は皆罪人であることがよく分かります。それで家を建ててもきっと大洪水で流されてしまうでしょうと考えなければなりません。どうしたら良いでしょうか。何が、岩盤の固い基礎として、家を建てる所でありましょうか。良く探してみると、イエスさまが教えておられるのです。彼自身が模範となって私たちを愛してくださった。その愛そのものがその基礎でないでしょうか。それで、わたしたちはそこからまず考えなければなりません。いろいろ世の中を見るほど、よくないことや、わたしたちの考えが間違っていることが結構あるのです。人間は人の批判をしながら自分がそんなに良くなくてもそれを隠して、他の人間を悪く言ったりするのが癖のようになっているようです。それと同時にとんでもない夢を持っています。ここに素晴らしい木があって、そこにおいしい甘い果物が実るものだと思い込むということがありますが、イエスさまのおっしゃることは根本的に良い木であったら、良い実を結ぶでしょう。しかし、悪い木でしたら、その類の実を結ぶということです。根本ということをわたしたちは考えさせられます。

神さまが人間を造られたときは良い者でした。そして、一人の人間が罪を犯したから、全部がその結果を負わなければならないのです。これはアダムとエバの話になりますが、そこで、わたしたちの本当の考え方をどう変えられるのでしょうか。これも神さまがご心配なさって、御独り子をこの世にお送りなさったのです。主はわたしたちと同じような世の中にしばらくいらして、いろいろなことを見て、ただし彼は罪を犯さなかったのです。罪を犯していないのに裁かれて十字架につけられたのです。それによって、主イエスさまがわたしたちの身代わりをしてくださったのです。それを、わたしたちは繰り返し繰り返し聞かされているのです。そればかりではなくイエスさまは甦りなさった。復活なさったのです。元のものと違うものになられた。その意味をわたしたちは良く考えなければなりません。この世の多くの人たちは復活ということを考えていないでしょう。勿論、ある宗教では、よみがえりとは言わないが生まれ変わると言っています。その生まれ変りはこの世の中へまた生まれてくることで、形は少し違っているが、それが良いか悪いかはわたしたちは判断できませんが、でも、面白いことには、あんまり良い生活をしていなかったら、次の時には動物や犬に生まれ変ってくると、最悪の場合は女に生まれ変わるという宗教もあるのです。ですからある人は生まれ変る復活は考えたくなくて、それは嘘でしょうと言い、またそれはどうやってそう完全に変わることが出来るのでしょうかと、理屈をもって考えているのです。そしてそれを否定しています。

でも、パウロが今日わたしたちに聞かせてくださっているのは、「復活がなかったら、主イエスも復活しない。また、わたしたちも復活をしません。その復活無しでしたら、わたしたちの信仰もむなしいものだ。」と言っております。いくら良いことを一生懸命にやろうとして、自分を改善して良い習慣を身につけようとしても、勿論それは足りないことです。完全まではいかないと結論が分かりながら望んでいるのです。自分の力で自分を救うというのが大体の人間の考え方です。わたしたちも本当に復活はあるのでしょうか。ちょっと夢ではないでしょうか。神さまは本当ですと言われます。そのために、主イエスさまをこの世に送られて、十字架に磔けられたイエスさまが、またその後復活されて皆の前に現れなさって、生きたお姿をお見せになったのです。そのイエスさまが昇天なさるのを目の前で、人の目の前で神さまがお見せになったこと。だからわたしたちは復活が可能だと、神さまがなさるのなら可能だと、わたしたちの力では出来ないのです。だから、わたしたちはイエスさまにすがりついて、イエスさまの救いを心に留めてそれを信じようといたしております。

これは、使徒言行録二章のイエスさまが復活なさって、昇天なさるところの記事ですが、「わたしはいつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」とあります。今日の交読文の詩編にも同じような言葉があります。[動揺しない。しっかりとしている。基礎が確かだ。]と。わたしたちがそう思い込んでいるから確かだと言うのではなく神さまがわたしたちにそれを教えてくださっておられるから確かであると言えるのです。これを今日、わたしたちは考えたいことです。

エレミヤのときも大変な時でした。ユダヤの国が、以前はイスラエルと言って、半分以上はバビロニヤへ捕虜としてすでに連れて行かれ、次にエルサレムを中心とした残りの者も攻められていて、同じようにバビロニヤへ連れて行かれるでしょうということが目の前にあったのです。それをエルサレムの人たちは、大丈夫だと、エルサレムにこの神殿がある限りきっと神さまがそれを守ってくださると言う迷信を信じていたのです。エレミヤは、まずわたしたちはもっと真面目な生き方をしていなければならない。できるだけ正しいことをやろうとしていなければならない。勿論完全な者ではないから、完全には出来ないが、第一には神様を信じることで、建物ではなく組織でもなく、彼らユダや人は選民だと言って神さまが選ばれた輩であることを誇りにして、一つの迷信にしていたのです。エレミヤはそれに対して、とんでもないことだと言っています。エレミヤは長生きをした人です。バビロニヤが攻めてきて、全部征服をすると預言していたので、バビロニヤの人たちもそれを知っていたのでエレミヤを捕虜にはしなかったのですが、だいぶ歳になってよぼよぼしていたのでしょう。彼を心配する人たちによって、無理やりに彼を連れてエジプトへ逃げてしまったのです。だから、エルサレムの災害を彼は実際には見なかったのでしょう。当時の人たちは随分苦しいことを経験しました。エレミヤの言葉の通りに、と言っても神さまが言わせた言葉です。エレミヤはそんなに厳しい話をする人ではなかったのです。ちょっと体も弱い人でしたから、あんまり大きな声も出さなかった人ですが、神さまに選ばれて、預言をしたのです。また、その国の人に一番声が届くように神殿の入り口で預言者として「神さまの言葉を聞こう。神さまのおっしゃることを受け入れて、ただ、一部だけを頂いてそれにすがりつくことではなく、神さまのおっしゃることは全部正しいと受け入れること」と話したのです。その中には救いの言葉もあったのです。神さまが約束の救い主をこの世に送ってくださるということ。その約束の救い主は、わたしたちはもう知っております。主イエスさまです。だから一番しっかりとした堅い地盤はそこにあるのです。主イエスさまを信じていたら、わたしたちの家は崩れないと。この世の中がなくなってしまっても、地球、宇宙が変わってしまって、無くなってもわたしたちは生きて、生きるところがちゃんとあるということをわたしたちは信じられるのです。これが今日の聖書の日課でないでしょうか。

わたしたちが今与えられている住み家は神様から頂いたもので、その地盤は神さまのお言葉、神さまの約束のお言葉でございます。わたしたちはどんなことがあっても、イエスさまを救い主と信じておりましょう。