2004年6月6日 三位一体主日 説教「幸いの道」

詩篇第1篇

 
説教  「幸いの道」  大和 淳 師
 私たちの想像できないことは全て変ってしまうということです。例えば今日はとても良いお天気です。太陽が照っていることは、私たちの好みはこのような風景でしょう。太陽も無く、月も無くなる、私たちの知っている宇宙もなくなると、まず寂しい思いになります。そこで主イエス様がまったく太陽のようにわたしたちを明るくして下さると共に私たちも明るく輝くものになって、もう太陽は要らないほど明るくなっているでしょうと考えられます。そのような中で私たちは、主イエス様がどう私たちを審判してくださるか心配ですが、こっちへ行くか、あっちかと、天国か地獄かとそれを決めてくださるのですから、それはちょっと心配ですが、でも、神様の約束の言葉は決して変らないと、全てのものが無くなっても神様が私たちに聞かせてくださったことは、絶対に変らないということを私たちは聞かされて、安心できるのです。

 イエス様はいちじくの木の話をなさっておられますが、その葉っぱが大きくなってきたら、実がなってくると、私たちはそう期待できるのです。一年で暖かい一番気候の良い夏が来るとそのようになると、先のことを思うことが出来るのです。それをイエス様が私たちに聞かせておられるのです。全てが無くなっても絶対に神様の教えられたことは、

すなわちわたしたちが主イエスさまを信じていれば必ず天国へお連れくださると言うことは変らない。私たちは罪を赦されて、イエス様が贖ってくださったから罪の無い人と、これは私たちが自分を見て考えますと考えられないほどの素晴らしいことです。罪が無い、欠点が無い、完全なものになっている。今のところ、私たちはどんなに一生懸命にしても、何かちょっと欠かしたり、忘れたところがあったりで、充分でないことばかりを経験して、「これは人間的である」と言う言葉を使うのです。自然にちょっと足りないところが必ずある。聖書の言葉でしたら罪人であると言うことでしょう。私たちがこのようなものあっても神様は愛してくださって、わたしたちのために主イエスさまをこの世に送ってくださって、なお、最後のときには私たちを迎えに来てくださるのです。「おいで」「こっちへいらっしゃい」と。あっちではなく。あっちとは恐ろしい所ですがね。わたしたちは限りなく、一時ではなく、いつまでも、永遠に立派な者に、病気もしない、痛いところも無い、お腹も空かない、充分に生きる事が出来る状態になるのです。勿論、その逆もあるのです。イエスさまを信じない者、また自分勝手に天国へ行くためにその道を決めて、何をしたら行けるかを決めた人たちはきっと失望するでしょう。失望だけではなく、恐ろしいことにあいます。その恐ろしさが永久に続くものだということです。神様はあまり聖書の中で、私たちを脅して天国へ行かせようとしておられません。でもはっきりと罪のために捨てられた人たちは大変だと仰るのです。そんなに数はないのですが、その苦しみをわずかの言葉で描いておられます。おもに、私たちが救われたら、どんなに楽しいかを私たちに聞かせておられます。本当に私たちは今どんなに努力してもほとんど失敗に終わる事が多いでしょう。あるいは一生懸命にやってもこれが出来る限りの良いものだと思っても、誰かそれを見て批判することが出来るのです。完全ではないのです。でもその完全でない私たちのために主イエスさまを神様が送りなさった。その御独り子、一番親しくしておられた方を救い主として送られたのです。主イエスさまは本当に大変であったでしょう。私たちも出来るだけ良い人間として努力していたら、それほど努力をしていない人を見たらちょっと嫌な感じがするのです。完全な方が汚い私たちをご覧になったらどう思われるでしょうか。心配しますが、でも、神様はこのような私たちであっても愛してくださっておられます。

 ただイエスさまを信じるだけですね。イエス様のなさったことをわたしたちが有難く思っていたらそれだけでよろしいのです。完全なところへまで神様が連れて行ってくださる。これが私たちの信仰ですね。神様がそう約束なさったのですから、その通りになるのです。
  「これらのことがみな起こる今日、日課を離れて、詩編交読の詩編第1編から、み言葉を聴きましょう。
  「いかに幸いなことか・・・・」、マタイ5章の主イエスの山上の祝福「心の貧しい人々は、幸いである」と同じ祝福でこの詩編は始まります。「幸い」です。恐らく誰もが思う「幸い」、その幸いの道、聖書の語る「幸い」とは、歩まない、とどまらない、座らないと、具体的ふるまい、生き方の問題です。わたしたちが、如何なる者、どんな人間であるかより、どんな人であれ、神の御前でどう生きていくか、生きようとするかにかかっているのです。わたしたちは誰も人生の幸いを願います。人生は、しばしば旅にたとえられますが、詩篇は、わたしたちを旅人のように見ていると言っていいでしょう。旅には、いつも危険があります。苦しみもあり困難が続くこともあります。思わぬ災難が、身に降りかかってくる。だからこの人生の旅の無事を願わずにはいらないわたしたちです。しかし、聖書の語る「幸い」は、そのような危険、災難、苦難がない旅が幸いであるというよりも、何よりわたしが危険、災難、苦難のときもどう生きるかを指し示すのです。ですから、わたしたちは、単に「何事もなく無事でありますように」とただ単に祈るのではない、むしろ、もしそれが避けられないのなら「たとえ、どのようなことが起ころうとも、わたしが、あなたの御前でこう生きられるように・・・・」、そのように祈るものだと言っていいでしょう。

  さて、その出発点、最初にまず「神に逆らう者の計らいに従って歩ま」ない、まずは「神に逆らう者の計らい」から始まります。この「計らい」は、要するに「唆かし」、「誘惑」です。聖書は、そのようにわたしたちがたえず「誘惑」を受ける者であることを知っています。罪の道は「誘惑」から始まるのだと。誰も最初からあえて間違ったことを平気でする者はいない訳です。よく「ほんのできこごろで」というように、誘惑される。本心ではないけど、つい何かの誘惑に負けて、そしてだんだん深みにはまっていく、そして、結局どうにもならないようになっていく。ある人は、この1節は、次第に高まっていく罪人の3つの段階を表していると言います。「誘惑」からやがてその道を次第に「歩き」始め、そこに「とどまり」、ついには、どっぷりと腰を落ち着けて「座る」、浸ってしまう、そういう段階です。聖書は、そういうわたしたちの弱さを、本当によく知っている訳です。その第一歩は、「計らい」、「誘惑」から始まる。主の祈りを想い起こしましょう。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6章13節)。この詩篇は、その主の祈りの祈り、キリストの祈りなのです。

  わたしたちが幸いな道を歩む、それは何よりそういうわたし自身の弱さ、本当に誘惑に弱いものであるということ、そのことから出発するのです。自分はそうではない、わたしは道を一人歩んでいける、そういう人はない訳です。むしろ、そんな弱さをもった自分を受け入れない、それが、この最終段階の「傲慢な者と共に座る」ことなのです。自ら誘惑を克服し得るような強い意志、力をもっているから、幸いなのではない。むしろ、弱い、本当に弱いものなんだ、それを受け入れる、そこに幸いの道があるということです。

  だから、わたしたちは幸いを願うけれど、その背後にはいつも不安があるのだと言っていいでしょう。本当に大丈夫だろうか、もしかしたら、と言う恐れがある。そしてまさにこの「神に逆らう者の計らい」とは、その不安、恐れに働きかけてくる。そして「計らい」、「誘惑」ですから、決して、わたしたちには、それが「神に逆らう道」であるとは、決して見えない。巧妙に働きかけくる訳です。(創世記3章の、あのエバに働きかけた蛇の巧妙な言い回しのように)むしろ、そっちの方が、どう見ても真実だ、確実安全に思えてくる、いやそれしかないと、確かに思えてくる、そういうものです。しかし、決して真実ではない以上、本当には安心を与えない、確かなものではない、それ故、だんだんと、まさにこの詩篇が語るように、深みにはまっていく、次から次へと、どうにもならないかのように、抜き差しならず罪人の道を歩んでいく、そして、遂には、「傲慢な者の座に座る」、つまり、「傲慢」な者の仲間になるというのです。

  そうするとどうなるのか。「傲慢な者の座に座る」、いわば、虚勢を張る以外にはない。人間、居直る、居座る訳です。しかし、それは決して本当の強さ、確かさではないのだと詩篇は語ります。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」と4節に言われるように、いくら、虚勢を張っても所詮虚しい道であると言うのです。もみ殻のようにはかない、これは強い言葉です。しかし、現実のわたしたちの目には、「神に逆らう者」の道、その方がいつも強く、立派でもあり、確かなものであるように見えるものだということを忘れないようにしましょう。

  どんな人でも裸のわたし、ありのままの自分というのは、本当にみすぼらしいのです。不安の中にあり、たえず恐れ、おじまどうあまりにも弱々しく思える(だから「神に逆らう者の計らい」の方がよく見える、頼もしく見えるのですが)。しかし、この詩篇の力強さは、まさに、その裸の自分を、ありのままにみつめることから来るのです。あの誘惑の前に、その道に対して自分自身をみれば何もない、そのような裸のわたし、しかし、詩篇は、そのような自分の弱さ、そこにこそ、主の道が開けていることを語ります。

  何故なら、6節「神に従う人の道を主は知っていてくださる」、主が知っておられるからです。主に知られているのです。主がわたしたちを知られるとは、単に知っているということではなく、この知るは、あなたを守り、支え、導き、あなたと共にいるという、そのように知ることなのです。つまり、神は、わたしたちをインマヌエル、神我らと共にいます方、イエス・キリストを通して知られるのです。何より、ご自身、飼い葉桶の中の裸のあかんぼうになり給い、本当にみすぼらしく、あまりにも弱々しくなられたきリスト。そのようにして、わたしたちの低みまで下り、わたしたちのために苦しみを受け、十字架におかかりになったキリスト、このお方がわたしたちを支え、わたしたちを導いて下さる。このキリストが共におられる、このキリストと共に歩む、それを示してくれるのが聖霊の力ですが、父、子、聖霊の神のもとで、その者は「なんと幸いなことか」と詩篇は呼かけているのです。

  聖書は、決して人はひとりでは生きるものではないと一貫してみています。わたしたちは、常に何かに従って生きるものだ、と。何かと共に生きずにはいらない存在なのです。そういう人間理解を、現代の人間は失いかけています。と言うのも、やはり、自分は、自分で生きている、自分が主人公のようにして生きてしまっている訳です。だから、納得がいかない、理不尽な訳です。自分の思い通りということが自由であると思い込んでいる訳です。しかし、よく考えれば、人は、常に何かに支配されている、ということはそれでも分かる訳です。自分の人生の選択、たとえ、自分で自分の人生を選んだと思っても、たとえば、やはりお金がなければとか、良い学校でなければとか、力がなければ、と、そういう考えそのものには、自分の本来のものではない、価値観とか世界観、そういうものに従っている訳です。はっきり言えば、他人の眼の中で生きている訳です。そこには自分が自分を、本当にどう見るか、ということがない。最近そんなCMが流れていますが、結局は他人に左右されている。だから内にはいつも不安、恐れがある訳です。

  ですから、神を信じないという人も結構星占いとかのようなものをもてはやす、あるいは、縁起をかつぐ。私たちの周囲は、この縁起の固まりみたいなものではないでしょうか。勿論、中には生活の知恵と言ったものがありますが、とにかく縁起から始まって、縁起で貫かれていく。これは、やはり、自分の人生は、確かに自分で選んでいかなければならないという一面、その人生そのものが、自分以外のものに選ばれていく、そういう面があることを物語っている訳です。運命と呼ぶ、宿命と呼ぶ、そういうものです。

  それで共同訳では、「神に逆らう者」となっていますが、そういう風に訳するのは、大変分かり易いのですが、しかし、ここで「神に逆らう者」と訳され、また「罪ある者」、あるいは「傲慢な者」というのは、決して、信じない者という意味ではない。神を信じない者という意味ではないんです。むしろ、彼らも彼らなりに「神を信じている」のだと言うべきでしょう。ルターは、その人の心が拠り所にしているところのものが、その人の神なのである、そう言っています。神を持たない人間はいないのだ、と言っていい。誰もが自分の神を持っている。その意味では、誰が「神に逆らう者」であるか否かは見分けがつかない。しかし、ただ一つあるのは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、そのことだけが、いわば、眼に見える決め手だと詩篇は言うのです。

  この「教え」とは口語訳では、掟と訳されていたように、ここでは律法、戒め、つまり十戒ですが、その掟を愛する。この「愛する」というのは、もともと「慕う」とか「喜ぶ」、「求める」、そういう意味の言葉です。そのようにして生きる人、その人こそ幸いであると。ただ、それを聞いただけで、わたしたちは、何か不自由な、固い凝り固まった生き方を想像してしまうかも知れません。しかし、聖書は、そういう生き方こそ、本当に自由で、活き活きとした生き方、「流れのほとりに植えられた木」のようだと歌っている訳です。それは、どういうことか。

  十戒を、ここで思い出して戴きたいのですが、あの十戒は、「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、その第一戒から始まって、「・・・・してはならない」、この詩篇と同様ほとんど一切否定形、否定、禁止です。つまり、主なる神は、人間、わたしたちに「否定」「禁止」をもって臨む神なのです。その神の否を「愛する」ということ。しかし、わたしたちが、わたしたちが自分の心のままに神と呼ぶのは、決して否を言わない。何故なら、自分が主となっているからです。その限り、それは偽りである、つまり、人間、自分が主となっているそれが預言者たちが厳しく糾弾した偶像、偶像礼拝ということの罪、問題なのであり、そして、その道は「滅びに至る」のです。何故なら、その主人公たる自分、それは、たえず不安の中にある、裸の人間というのは、人はひとりでは、本当に弱いもの、脆い者であるからです。その限り、滅んでいくしかない者になってしまう訳です。ですから、最後に「傲慢」、強がり、あるいは、開き直りというか、居直りの道を歩むしかない。そういう風にして、人は、自分の中にこもってしまう、それが神を失ってしまった姿だ、そういうことをこの詩篇は、明らかにしている訳です。そうして、結局人は神のみならず、他人、隣人をも、何より自分自身を見失っていくのです。

  「傲慢」というのは、「脅え」の裏返しです。いらいらしている、たえず、流されていく生き方です。一皮向けば、どうしたらいいか、本当は分からない、諦めている、そういう生き方です。この第1篇の言葉は、注意深く読むと、本当に慎重に言葉を使い分けているのですが、5節「神に逆らう者は裁きに堪えず」と言う、その「堪えない」という言葉はもともと「立てない」、立ち続けることができないという意味であり、1節の「傲慢な者と共に座る」という言葉にちょうど対応するようにまさに「座り続ける」ことが強調されているのです。立ち上がることができず、最後に崩れ込んでしまう。へたっている、そう言ってもいいでしょう。

  しかし、「神に従う者はそうではない」のだ、と詩篇は高らかに告げてくる。立ち上がることができるんだ、「流れのほとりに植えられた木のように」、立つことができる、葉を青々と繁らせ、すくすくと伸びていく、自分の弱さ、脆さ、そういうものに崩れ落ちることはない、何故なら、「主が知っていてくださる」、主が、その弱さの中から、不安と恐れの中で、共にいて下さり、それのみならず、立ち上がらせ、必ず「幸い」を備え、そこへと導いて下さる。それが、「主の教えを愛する」、「昼も夜も口ずさむ」ということ、そういうことです。

  苦しみがある、災いがある、そういう中で、本当に暗澹たる思いの中で、途方にくれてしまう、苦しみに耐えがたいように思ってしまうのがわたしどもです。しかし、そういう中で、この「主の教え」、神の否は、たとえ、どれほどわたしに困難が大きいように思えても、わたしを救うのは、この主である、その他のものは何も頼りにならない、わたしが、あなたの主である、わたしがあなたを導く、そのことを、わたしどもに知らせるわけです。だから、あの十戒「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、その「あなた・・・・してはならない」は、結局、「あなたは、わたしの他なにものをも神とする必要はない」、「あなたはいかなる像も造る必要はない」、殺す必要はない、姦淫する必要はない、もう盗まなくていい、そういうことなのです。

  それだから、この「主の教え」を「昼も夜も」心に止めていく、詩編はそう語ります。ルターは、それはいつも中心、生、命の中心に留まることであり、そして、その生の中心とは、イエス・キリストであり、「昼も夜も」心に止めていくということは、この中心、キリストによって揺り動かされていく、つまり、座り込んでいた、あるいは座り込もうとするそこから新たに立ち上がっていくことだ、というのです。み言葉こそ、わたしたちを立ち上がらせる力を持っている、いや、み言葉だけが、わたしたちを立ち上がらせる力なのだ、と。

  しかし、このことは、決して自明のことではありません。絶えず、先に申しましたように、誘惑にさらされるわたしたちであるからです。だから何より神の否を、わたしたちは、それ故、昼も夜も聞くのです。「神に逆らう者の計らい」、「誘惑」、その「慕い求め」から、あらゆる自分の思いに逆らって、み言葉に耳を傾ける、即ち、キリストに全存在を委ねることです。この「昼も夜も」は、ルターは、単に絶えず、ということだけではなく、「悪い時にも、良い時にも、恵みの時も、罪の時も、健康な時も、死に瀕する時も、働く時も、休息の時も、安全である時も、危機にある時も、いつ如何なる時も、どんな大きな困難であれ、いや、自分にとってささやかな危険に見える時も、いや、それどころか、全く危険がないと思える時も、主のみが助けである、そのことを心の中心とすることだ、そのようにして、大胆に主のみを信頼することだ」と述べるのです。更にルターはローマ書講義の中で「希望に反して希望するcontra spem spero」と、わたしの希望に反しての希望をわたしは持つ、そしてそれが本当の希望なのだ、と教えています。

  それが「流れのほとりに植えられた木のよう」であると言っていいでしょう。命の流れ、キリストの命、「まことのぶどうの木」につがれるのです。それは、「すべて、繁栄をもたらす」。詩篇は、そのような木は「すべて、繁栄をもたらす」と言い切ります。「すべて」「ことごとく」です。神さまの恵み、祝福、キリストの救いに、万一、例外は決してない、ということです。このわたしは、主の恵みに決してもれることはない、ということです。したがって、わたしたちは、自分の弱さにもかからわず、いや、何もないにもかかわらず、そこから、必ず立ち上がっていくことができるということです。愚かに見えても、貧しく、みすぼらしく見えても、しかし、わたしたちは、窮することがないということです。この詩篇に溢れている力強さは、まさしく、そこから来るのです。主は共におられる、インマヌエルの光です。わたしは、ひとりではないのです。

  だから、パウロは2コリント 5章11節で「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と述べている、それがこの詩篇の心、そして、神にはありのままに知られていことこそ「さいわいの道」なのです。