2004年6月13日 聖霊降臨後第2主日 「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」

ルカ7章 1-10節

 
説教  「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」  大和 淳 師
 先週、わたしたちは詩編からみ言葉を聴きました。今日、再びルカ福音書に戻り、わたしどもは福音書の「百人隊長」の物語を通してみ言葉を聴くのですが、その書き出しは「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」(7章1節)、そのように始まります。以前に申したと思うのですが、福音書、とりわけルカは、大変注意深く、一つひとつの出来事、物語を伝えるのに言葉を使っておりました。とりわけ、こうして新しく物語るときは、こういう書き出しは大変大切にしているわけです。ですから、この「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えて・・・」ということ、そこにはルカ福音書にとって大きな意味がこめられているのです。そのことを念頭に置きながら、もう少し前置きみたいなことを述べたいのですが、それで、この物語の舞台となっているカファルナウムは国境の町で、関税を徴収する当時その地方の領主であったヘロデ・アンティパス王の取税所があり、そのヘロデ王の軍隊が常駐していました。つまり、この百人隊長は、ローマ兵ではなく、そのヘロデの傭兵で、歴史家によれば、ガリラヤ人以外に世界中からシリヤ人、トルコ人、ゲルマン人などがこのヘロデの傭兵となっていたそうで、この百人隊長も、何人であるか分からないけれど、そのような異邦人であったろうと言われます。聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではないという意味ではなく、言うなれば、神を信じない、あるいは神無き民、すなわち野蛮人というニュアンスを含んだ言葉です。

  さて、この無名の百人隊長のひとりの部下が重い病気、死にかかっていたと聖書は伝えます。彼はその部下を重んじていた、そう訳されていますが、単に部下として重んじていたというより、この百人隊長にとって、その部下はかけがえの無い者のひとり、いわば家族同然の者、我が子のような存在であった、そういう意味が込められた言葉が使われています。

  そして、主イエスが、その彼の住むカファルナウムにやって来たのは、この前の章、6章20節からのみ言葉、マタイ福音書では「山上の説教」として知られているみ言葉を、すっかり語り終えてからであった、とこの7章1節で言われています。「すべて話し終えてから」という描写には、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6章30節)、そう語り始め、そして、その神の国にわたしたちが今や生きている、み言葉となって、わたしたちのもとにある、その一切をことごとく、語るべきことをすべてお語りになった、そうしてカファルナウムの町に入られたのだ、ということです。今や、み言葉がすべて放たれた。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来たのです

  そうして、カファルナウムの町に入られた、やって来られた。既に夕暮れであったでしょう。日は傾き、やがて夜の帳が訪れるのです。そこに、その町に愛する者が死にかかっている、その死の床で、その夜の暗闇を迎えようとしているひとりの男がいた。異国の町で、愛する者が刻一刻と死に向かっていく、その傍らで、この人はどれほど孤独を感じていたことでしょう。その瀕死の彼の部下もまた、この百人隊長と同様、遠い異国からやって来たのでしょう。深い孤独が彼らを包んでいます。長い夜がやって来る、夜が近づいているのです。

  だが、そのとき、彼はイエスのことを聞いた。闇の中でただ一つ希望の光が差し込んできたのです。彼は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(3節)。イエスのもとに使い、使者を出す、なるほどそれは、「百人隊長」という地位にある人ならではの発想と言えるかも知れません。使いを出して癒してもらう、少なくとも福音書の中にはそのようなことは他に例はありません。しかも、その使いは「ユダヤ人の長老たち」でした。言うまでもなく「ユダヤ人の長老たち」は、彼の部下ではありません。この人がもっている権限、地位とは関わりなく、今やこの人は、ただ助けを必要としているひとりの人間、無力な人間なのです。ここに、わたしのもとに、愛する者のためにイエスに来ていただく、彼はこの異国の地でなし得る精一杯のことを考え、実行するのです。恐らく、その「ユダヤ人の長老たち」に、彼は丁寧に事情を話し、丁重にことを頼んだのでしょう。その長老たちがイエスに語ることから、そのことが伺えます。彼らは言います、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。もしも、この隊長が自らの地位と権限を嵩にして、彼らを呼びつけ、命じたのなら、あるいは「自ら会堂を建て」たことを恩に着せてのことなら、彼らは、たとえ「会堂を建ててくれた」人であったとしても、こうは言わないでしょう。しかし、彼らは、自分の言葉で、自分たちの思いを、つまり、まさしくそれはまた彼ら自身の心からの望み、意志であることを伝えるのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と。

  福音書において、この異邦人とユダヤ人との関係がどのようにあったかを思うとき、この彼らの言葉は心を打つものがあります。真に心が通い合っているのです。考えられないようなことがそこで起きているのです。主イエスがその日、すべて語られたことが、既にその夕暮れに起きているのです。そうです、この方が語られたこと、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい・・・・・」(6章27節以下)。そのように今や異邦人とユダヤ人、その垣根を越えて、彼らは一つなのです。ただ一つのことに心を合わせている、合わせることができたのです。もちろん、彼らは、いわばこの主の言葉を行おうとして、そうしたのではありません。そして、これらのことは、この隊長の人格、人柄、つまり恐らくは常日頃、この人は、本当に優しい眼の持ち主だった、それが他人を理解し、受け入れる力となっていったと言うことももちろんできるでしょう。
  しかし、わたしどもは、ここで忘れてならないのです。今や、その彼らの中心に、いわば、たった一人の死の床で苦しむひとりの人間のために、そのように心を一つにしているその人間の中心に、この方、主イエスがおられるのです。この方は既にすべての言葉を語られたのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」、ヨハネ福音書がそう語る、その言であるお方が来ておられるのです。

  そもそも愛とは、わたしは愛そう、愛さなければならない、あるいは、わたしは愛の行為をする、している、そうして行い得るものでしょうか?敵をも愛する愛とは、むしろ、この彼らのように、そうしているとは思わずして行っている、行わずにはいられないことなのではないでしょうか?彼らは、彼らがなし得ることを忠実に、心をこめて行ったに過ぎない、いや、せずにはいられなかったのです。愛の行為とは、わたしどもは知らずにそれをするのだ、させてもらうのだ、そう言ってもいいでしょう。大事なことは、わたしどもは知らなくてもいいのです。もし知れば、あるいはわたしが意識すればするほど、わたしどもは傲慢になります。自己満足に陥るでしょう。何より、知らず内にそこに、その彼らに、今や主イエスがおられるのです。あの「ユダヤ人の長老たち」を通して、主イエスが既に働かれているのです。

  さて、主イエスは、そのユダヤ人たちに伴われて、夕暮れの道を、彼の家へと辿ります。しかし、出来事は思いもよらぬ展開を迎えます。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき」(6節)、聖書はそう告げます。つまり、もうすぐそこまで主イエスは来ておられたのです。ところが、まことに不可思議なことに、この百人隊長は、再び使者を出して、この主イエスを制止したというのです。待っていれば、直ぐにもこの方は来られるのに、もう直ぐそこまで来ておられるというのに。わざわざ友人を遣わして引き止めたのです。一体何が起きているのでしょうか?

  わたしたちは、この友人の言葉に耳を傾けなくてはなりません。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6b、7節)。まず、友だちはそう伝えます。ここで気づくことがあります。先のユダヤ人の長老たちは、いわば自分たちの言葉でとりなすようにイエスに話しました。それはそのまま、彼ら自身の思い、真心でした。しかし、この友だちは、自分たちの言葉というより、この隊長の言葉をそのまま、自分たちの思い、考え、感情をはさまず伝えているのです。それが故に友人なのです。ここにも自らのなすべきを知り、忠実に果たす人々がいます。まさにそれ故に友だちなのです。ここで、彼らが隊長の、この人の代わりをつとめてしまってはならないのです。彼のためにできること、それは、彼の言葉をそのまま伝えることなのです。恐らく、友であれば、彼のために、できることなら、自分の知っている彼のことを伝え、どんなに彼がよい人なのか、どれほど大切な友なのか、伝えたかったでしょう。だが、自分のしたいことではなく、自らのなすべきことを果たす、できるだけ正確に友の言葉を、この主イエスに伝えようとする、ここにも、そのようにして一つ心を通い合わせている人間がいます。聖書は、まさに活きた人間のドラマを伝えているのです。これら一人ひとりが生きているのです。つまり、み言葉は生きて働いているのです。

  さて、先ほどの問いの戻りましょう、一体この人に何が起きのか?聖書は直接にそれについて語りません。ただ、わたしたちはこの百人隊長がその友人を通して語ること、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」そして、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」、そのように言っていることから考える以外にないでしょう。

  この人、この百人隊長は、その彼の愛する部下の枕もとで、恐らくは、彼は今か、今かと、まだ来ないのかとじりじりするような思いで主イエスを待っていたのかも知れません。尚、深い孤独の中に、彼もまたいたことでしょう。しかし、そのような推測以上に全く確かなことがあります。それはこの出来事は、一切、この主イエスが来られた、そうして、この百人隊長に迫って来られていた、その中での出来事だということです。

  それは、彼の部下が刻一刻と死に向かっていく、いや、むしろ真実は、死が彼らに刻一刻と近づいてくる、まさにその死の力に対して、何という無力、ちっぽけな取るに足らない者であるか、現実的にこの人はそれを味わい、心底そうであることを実感せざる得なかった、その中で、であります。彼は揺り動かされます。しかし、その死の力に抗して彼に迫るものが今や彼にある!それはこの方、このイエス!このイエス・キリストは大胆にその死の力の中へ、そして、このちっぽけな、取るに足らない、まさに何ものにも「ふさわしくない」わたしたちのもとへ今、あのわたしたちを脅かし、恐れさせる死の力、その力を押し返すように、近づいてこられる、この隊長、この人は、まさに死の中にありつつ、しかし、このイエスの近づき、イエスの迫り来る中に、生命の力の中にいたのです。主が一歩一歩、ひとりの人間の生の中に来られる! それが「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えた」ということなのです。聖書、みなさんが今聴いているみ言葉、そのみ言葉が引き起こす出来事なのです。パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1コリント1章18節)である、というみ言葉の力、神の力なのです!

  それ故この物語では、「ただ一言言ってください」という願いにもかかわらず、その一言が語られることはなく、ただ使者たちが帰ってみると、彼の部下は癒されていた、そのようにして終わるのです。今や、み言葉がすべて放たれているからです。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来ているからです。

  聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではない民族というだけではなく、神を信じない、あるいは神無き民のことである、最初にそう申しましたが、その神無き人、神から最も遠いその場所に今や真っ先に救いが訪れたのです。もう一度、この百人隊長が言うことに心を留めましょう。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。・・・」

  ともかう「ふさわしくない」、彼が徹底して言っていることはこのことです。キリスト、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間、「ふさわしくない」場所にこそ向かうのです。このルカ15章で語られるあのわたしたちがよく知っている主イエスの譬え ― 九十九匹を残して、迷子になった一匹、つまり「ふさわしくない」たった一人を捜し求める羊飼いのように、あるいは、父の財産を放蕩に使い果たし、挙げ句の果てに家畜同然となった、つまり父に「ふさわしくない」弟息子を、その父親は待ち続け、帰ってくると走り寄って迎えるように、キリストは、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間にこそ与えられのです。

  今、その「ふさわしくない」人間であることにどんなに苦しんでいる、苦しめられている人がいることでしょう。会社や仕事、学校で、いやそれどころか家庭、家族の中で「ふさわしくない」人間であることに・・・。そして、教会は、どうして、それらの人を素通りできるでしょうか。わたしたちは、それらの人びとに何を語り、何をしてあげることが出来るのか、隣人として、友人として。

  それ故、わたくしは、何よりみなさんにこう語らなければなりません。ここにいるみなさん一人ひとり、みなさん、あなたがたもまた何よりことごとくこの「ふさわしくない」人間なのだ、ということを。あなた方自身何より、全く頭の先からかかとまで、ことごとく神に、このキリストに、したがって、この場所に「ふさわしくない」、それがありのままのあなたであり、わたしなのです。しかし、そうであればあるほど、ふさわしくなければないほど、神は、主イエスは、み言葉を通してそのあなたに、わたしに近づいてくる。あの羊飼いのようにどこまでも捜し求めくださったのです。あの父親のように、あなたを抱きしめて接吻してやまないのです。それがこの神、イエス・キリストなのです。だからこそ、「ひと言おっしゃってください」、すなわち、み言葉をください、み言葉を信じる、いやみ言葉だけを信じる、それが教会なのです。だから、大胆にみ言葉を求め、信じていいのです。今や肝心なこと、そのみ言葉に突き動かされて、わたしども一人ひとり、知らずうちに隣人となり、友人となっていくのです。キリストは、わたしたちの知らぬ前に、知らずうちに既に働かれるからです。

  この主イエス・キリスト、すなわち、「十字架の言葉は」、いや「十字架の言葉」だけが「わたしたち救われる者には神の力」なのですから。