2004年8月15日 平和の日 「平和」

ルカ12章49~53節

 
説教  「平和」  大和 淳 師
 主イエスは言われます、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と。だが、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。しかし、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と。イエスは深い悲しみの中にあるのです。苦しんでおられるのです。
  ここで「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(51節)とこのように言われ給う、わたしたちは、この言葉に戸惑いを覚えるかも知れません。しかし、何よりここで主イエスは厳格な、怒りに満ちて語っているのではなく、この方はまさにそれを誰より深く悲しみ苦しんでおられる、これは悲しみの人の言葉なのです。
  そのわたしたちは、平和を求めてここに座っている、そう言っていいでしょう。キリストを信じる、キリスト者である、それは、父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと互いに平和に暮らす、暮らしていける、そのようであって欲しい、その慰めを求めてここにいると言っていい。何故なら、何と言ってもわたしたち自身も、それぞれに分裂、対立の中で生きているからです。そのわたしたちのためにこの方はただ深く悲しむ、彼が悲しみの人、苦しみの人となられたのです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」これらのわたしたちについての言葉は誰よりこのお方の苦しみ、悲しみが包んでいるのだ、わたしどもはそのことを深く心に留めたいのです。

  それ故、何よりわたしたちはマタイ福音書5章の山上の説教の中のこの主イエスご自身のこのような言葉をここで思い起こすべきかも知れません。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5章4節)ルターは、この「悲しむ人々」を、単刀直入に苦しみを負っている人は幸いである、と訳しています。「苦しみを負っている」、ここでイエスが悲しみ、苦しんでおられるということ、それは、実に、わたしたちの分裂、対立を負っておられる悲しみ、苦しみなのです。
  そして、何と言っても「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5章9節)、そのように主イエスは約束されたのです。 なるほど、今日の「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」、この主イエスの言葉は、それらの約束の言葉と相容れない言葉に聞こえるかも知れません。けれども、これらはことごとく、このお方、主イエス・キリストにおいて起きたこと、何よりこのお方ご自身が負われたことなのです。
とは言え、「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」、確かにこの言葉はわたしどもにショックを与えるでしょう。しかしながら、こういうことを考えさせられます。
先日、14歳の少年が、母親と姉たちに熱湯を浴びせられ虐殺されたという事件が起こりました。聞けば、少年の胃袋は空っぽであった、ろくに食べさえてもらっていなかった。つまり、日頃から虐待され続けていたと言います。もしこれが事実であるとすれば、確かに愕然とするような事件です。たまたま観ていたテレビで、この母親は愛情のかけらもない人間であると、そして現代では、そういう家族愛が変質してしまっているのではないかというコメントを耳にしました。なるほど確かに一面、そう言えるでしょう。しかし、愛情がないから、そのような虐待を起こすというだけでは、あまりに短絡的です。こうしたドメスティック・ヴァイオレンスの現場に関わっている、ケースワーカーの方々は、こうした幼児虐待は、いずれにせよ身内だから、近い関係ほどこそ起こると指摘しています。父であるが故に、母であるが故に、あるいは子である、しゅうとや嫁であるが故に、友人であるが故に、むしろ、そこで起こる対立はしばしば深刻になるのです。わたしどもの愛情は、容易に憎しみに変わるのです。そのような虐待という表面化しなくても、どのような家庭にも言葉により、態度により、小さなヴァイオレンスはあるのだ、と。
たとえ家族であっても一人ひとり互いに違う存在だからです。親子だから、夫婦だから、あるいは姉妹兄弟だから同じ思い、互いに一つの思いでいられる、平和があるというのは幻想、甘えである、そう言っていいでしょう。だから、たとえ家族の間であっても同じ思い、互いに一つの思いでいられるよう、平和のために日々コツコツと積み重ねてゆく、そんな地道さが、勇気が必要なのです。しかし、人はまたまさに家族という最も近しい結合体の中でこそ、しばしば自分とは違う、他者の<異物性>に耐えられなくなるのです。
  そもそも親であれば、誰しもわが子に、こうあってほしい、こう育ってほしいという願いを持っています。そういう望みにかなうことがあたかも平和であるかのように。しかし、本当のわが子は、そのわたしの願い、望みの先にあるのではなく、今、そこにあるがままあるその子なのです。たとえ親子でもわたしはわたし、あなたはあなたなのです。しばしばそれが見えない、見ようとしなくなるのです。
  それとは逆に「小さいときから人間の恐ろしさを見てきた。一皮向けば、自分もそういう人間になってしまう。何もしないうちに死ねればそれでよかった・・・・」。数年前になりますが、悲しいことに、こんな言葉、遺書を残して自ら13才の命を絶ってしまった少年のことを思うのです。どんな人間の醜さを見続けてきたのか、「人間の恐ろしさを見てきた」と言うのです。何より、この少年が恐ろしかったのは、同じものが自分の中にあることに気づいたからでしょう。<わたしがわたしであること>に耐えられなかったのす。これもまたただただ胸痛みます。恐らく他人の眼から見れば、この少年には何か特別欠けたところなど見えなかったでしょう。わが子に一生懸命な立派な両親がいて、良い環境にいて、学校でも問題ではなかった・・・・でも決定的に与えられなかったもの、あなたはあなた、かけがえのないあなたであるということ。
  そもそも生きていくことは、絶えずわたしはわたしであることが脅かされていくこと、そう言っていいでしょう。人間、赤ん坊は、誕生の時に包まれていたいわゆる<母子一体感>から引き離されていくとき、わたしはわたしであることに不安を感じはじめます。子どもが成長していく限り、いやどんなに大人になっても常に<わたしはわたしであること>の不安と常に戦っていかねばならないのです。そして更に、子どもから大人へとなっていくそのとき、大人になることは、反面、自分の中にさまざまな、それこそ醜い心や、自分にとっては嫌な面が見えてくるのです。それが人間、わたしたちなのです。
  よくこんな風なことを聞きませんか?たとえば、あの人は口ではこう言っているが、腹の底では何を考えているか、分からない、そんな悪口というか、評価です。あるいは、先の13歳の悲しい少年のように、自分の中にある人には言えない醜さに悩む。それがなくならない限り、わたしは本当のわたしではないという思いこみ。
しかし、主イエスはあえて言うのです、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 それ故、わたしもあえて言います、そう腹の底では何を考えてしまってもいい、自分の中にどんな恐ろしい醜さがあってもいいのです。あるいは我が子に、あるいは親に、妻や夫に、これは受け入れられない、そういうものがあってもいい。しかし、「だから、この人はいなければいい」、決してそうではないのです。あるいは、こんな自分がいない方が良い、決してそう思う必要はないし、それは間違っているのです。腹の底、自分の中にどんな恐ろしい醜さがあってもいい、けれど、その腹の底にあるものに、自分の中にある恐ろしい醜さ、そのようなものがあなたを支配するのではないのです。だから、何であれ駄目だと、諦め、切って捨ててしまってはならないのです。何故なら、主イエスは、それだから、あなたを見捨てる、あなたはいらない、そう言われるのではないのです。悪にせよ、醜さにせよ、そのようなものがなくなることが人間らしい人間ではなく、むしろそのような悪、醜さの中で、それにうち負けない、立ち上がっていく、主イエスがその力となってくださる、それが真の人間らしさ、人間なのです。
そもそも、この主イエスの言葉は、旧約聖書の預言者ミカの「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ書7章6節)、この預言の引用であると言われています。つまり、主イエスは、このミカの言葉を心に思い浮かべて語っておられる、そう考えていい。それで、あらためてそのミカ書の箇所を読んでみますと、そのすぐ後に、ミカは、こういう言葉を記しているのです。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」(ミカ7章7-8節)。そこに主イエスが立っておられるのです。「たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」、これがイエス・キリストなのです。
今丁度オリンピックが始まりました。テレビでアナウンサーがしきりに「平和の祭典」と叫んでいました。それは、その一方でイラクでますます紛争が激化した、戦闘が行われ、たくさんの死者が出た、そういうニュースが流れているからでしょう。そういう中で、何がオリンピックだ、平和の祭典だ、そう叫びたくなるかも知れません。でも、それが人間なのです。聖書には「偽善者」という言葉がしばしばでてきます。聖書のいう偽善とは、そのような人間の悲しみを悲しまないこと、苦しまないこと、戦わないこと、そうして他者を非難することです。人は誰も愚かで悲しいのです。「(わたしたちの間で)どんなに正しさの主張、真理の追求が一瞬にして手の裏を返したように利己心と虚栄になることだろう」とカール・バルトは言っていますが、利己心と虚栄、これはフィリピ2章3節の言葉ですが、そのようにして、「テロを許すな」「テロに屈しない」、新たな憎しみから殺戮を繰り返すのです。利己心と虚栄が憎しみを生み出すからです。
しかし、そのようなわたしどもであっても、決してわたしたちは空しい存在、命なのではない。何故なら、わたしたちは決して独りではないからです。だから決して絶望しないのです、「たとえ倒れても、わたしは起き上がる」、わたしたちは静かにそう言うことができるのです。それは決してわたしたちが強いからではありません。そうではなく「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)、そのように言われるお方がわたしと共におられるからです。それ故ミカも「たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」と歌うのです。それはまた言い換えればこういうことです。
人間の争い、混乱に、神さまがいるなら何でこんなことが起こるのか、そういうことを耳にしたり、またわたしたち自身、そのように言うこともあるでしょう。わたしもしばしばそう訊かれます。それは確かにもっともな思いかも知れませんが、それは人の愚かさ、醜さ、恐ろしさ、その理不尽さに耐えられなくなるからでしょう。つまり、わたしたちはいわば短気になってしまうからではないでしょうか。
でも、わたしはこう思うのです、神さまがいないからこんなことになるのではないかと言うよりも、神さまがおられるから、その愚かさ、醜さ、恐ろしさの中でも、わたしたちは生きてこられたし、どんなに深い絶望の中にあっても立ち上がれて来られた、これからも立ち上がれるのではないか、と。むしろ、神さまがおられるからこそ、こんなわたしでも、またこんな世の中でも、辛うじて滅びずにいるのだ、と。つまり、神さまは恐ろしく気が長い。もし、神さまがわたしたちと同じくらい短気であったら、もう世界はとっくに終わっていたし、わたしも審かれていることでしょう。
気が長いというと、何かのんびりとして無責任な印象を与えてしまうかも知れません。言葉を換えて言えば、どこまでもご自身痛み、誰よりも苦しみ、悲しみながら、それでもどこまでも人間と共に歩み、命へと召し出す神、それが主イエス・キリストなのです。どんなに悪であろうと、また醜さをもっていようと、決してそれで審いたり、見捨てようとされない神、それだからこそわたしたち一人ひとりを愛してやまない神なのです。だから、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」、そうわたしたちは叫ぶことができる。たとえどんなに闇が深く見えていても、また道が遠く思えても、何度転んでも平和の道を歩くことができるのです。そして、どんなに倒れても、わたしたちは必ず立ち上がれるのです。平和を「実現する」、「つくり出す」ために。このキリストと共にあるわたし、このキリストによるわたしなのです。平和、キリストの平和、それは争い、醜さ、苦しみがないことではなく、その中でも静かに立ち上がっていく、この方によっていつも立ち上がっていくことなのです。