2004年8月29日 「主よ、それでも、あなたは」

詩篇第3篇

 
説教  「主よ、それでも、あなたは」  大和 淳 師
1賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。
2主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3多くの者がわたしに言います、「彼に神の救などあるものか」と。
4主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。
5主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。
6身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
7いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。
8主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください。
9救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。

 今朝は詩篇第3篇からみ言葉を聴きます。それで、1節はこの詩編の表題ですが、「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。ダビデは、聖書の中でしばしば出てくるモーセやエリヤと並んで最も重要な人物、イスラエルの王ですが、もともとダビデは王でありながら、竪琴の名手、また優れた詩人であったと伝えられています。それでこの標題はその「ダビデが作った」歌、という意味なのか、それとも、更にこの標題は「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と説明書きがありますので、その「ダビデのための」歌、あるいはその「ダビデに寄せての」歌なのだ、そのように解釈が分かれています。いずれにせよ、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」というのは、どういうことかを知ることが ― ですから、詩編の本文とは離れたところから見ていくことになりますが ― わたしたちがこの詩編を理解する道でしょう。

  それで「ダビデがその子アブサロムを逃れた」、その物語はサムエル記下15章以下(旧約聖書582頁)に書かれていますが、そのサムエル記下15章の少し前に記されていることから触れますと、サムエル記下13章(旧約499頁)ですが、ダビデの息子の一人であったこのアブサロムは、妹タマルを辱めた異母兄弟、もともとダビデの長男、王位筆頭継承者であったアムノンを、そのタマルの復讐のため殺害してしまうのです。そして、サムエル記下13章38節以下によれば、「アブサロムはゲシュルに逃げ、三年間そこにいた。アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」、そう記されています。つまり、ダビデは、殺されたアムノンを愛していたのですが、またこのアブサロムも愛していた。それ故アムノンを失った悲しみの中でも、ダビデは、アムノンを殺してしまったそのアブサロムの罪をゆるすのです。つまり、そうしてアブサロムがこのとき事実上の王位継承者となったのです。実際には、この反乱によってアブサロムは死に、結局末っ子のソロモンが後継者となるのですが。
  ところが、アブサロムは王位継承まで待てず、その父ダビデに対して謀反を起こしたのです。既にダビデは老いていました。やがて遠からず、黙っていても彼は王になることが約束され、何よりダビデもそれを望んでいた、それなのになぜ、その父ダビデに謀反を起こすようになったのか。一体アブサロムはなぜ待てなかったのか。
  その次第がサムエル記下15章に語られています。それで、その15章2節に、「アブサロムは朝早く起き、城門への道の傍らに立った。争いがあり、王に裁定を求めに来る者をだれかれなく呼び止めて、その出身地を尋ね、『僕はイスラエル諸部族の一つに属しています』と答えると、アブサロムはその人に向かってこう言うことにしていた。『いいか。お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。』」、そう記されています。城門への道の傍らとは、人びと、民衆が問題を訴え、調停を求める、いわば裁判所でした。
アブサロムはそもそも初めから王になる野心に動かされて、そういうことをしていた、そのように理解することもできるかも知れません。しかし、(左近 淑先生が全く違ったすぐれた読みをなされており、わたしは深く教えられ、以下はそれに従いながら読んでいくことになるのですが)アブサロムは妹タマルが辱められたのを知り、激情に駆られてアムノンに復讐したように、このアブサロムはまことに気性の激しい人であったのでしょう。しかし、それは逆に言えば、このアブサロムは極めて情が深く、また正義漢の強い人であったことを物語っています。そんなアブサロムですから、最初は、父ダビデと和解できた、許された喜びから、少しでもその王のために、国のために、人びとのために役立とうとしたのではないか。そうして毎日朝早くから熱心に勤勉に城門への道の傍らに出かけ、人びとの調停を行った。そして、彼はまた施政者としてもすぐれた素質をもっていたのでしょう、難問を次々に解決することができた。そうしてアブサロムのうわさが広まり、われもわれもと早朝からアブサロムの前に人々は長蛇の列をなしていったのでしょう。まだダビデによる国の統一は整っていない、むしろまだ混乱状態が続いていたからです。(イスラエルが王国として安定したのは、このダビデの後のソロモン王の時代でした。)アブサロムは、持ち前の熱心さから、次第にやがて政治的野心をもつようになったのではないでしょうか。
  やがて、アブサロムは「・・・お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。」(3節)、そして「わたしがこの地の裁き人であれば」(4節)とそう言うようになったというのです。次第に父ダビデを生ぬるく思い始めた、父は老いて決断力がにぶい、優柔不断ではないか、そのような不満と批判が彼の心を占めるようになっていった。「わたしがこの地の裁き人であれば」、そのようにアブサロムは思い詰めるようになったというのです。早く、老いた父に代わって王となることが国家のため、人びとのためだ、そう思うようになったのだと。
  アブサロムは、ダビデに対する不満をとくにもっていた当時の王国の北イスラエルの人びと ― それは先のサウル家につらなるイスラエル諸族の不満分子といっていいでしょう ― そして、更に、そしてダビデが首都を聖都へブロンから異教の都エルサレムへ移したことへの不満をもつユダ族の人びとを加え、いわば保守派の連合体によるクーデターを起こします。そしてアブサロムは、自分の特別補佐官にはアヒトぺルという老人をかつぎ出します。アヒトぺルは、ダビデの忠臣であったウリヤの妻バト・シェバの祖父でしたが、ウリヤに恋したダビデが謀略によってウリヤを死なしてしまい、バト・シェバの結婚を破壊してしまったのです。ですから、アヒトぺルはその祖父として、ダビデに対して並々ならぬ批判と憤りをいだいていたのでしょう。そのようにアブサロムの周囲には不満や不幸、更に欺きやだまし合いが渦巻いており、彼らを露骨な野心が支配しています。いわば人間の底によどむどす黒いものが満ちていたのです。これは、今も変わらない政治の世界、戦争の絶えない人間の現実であると言えるでしょう。だが、聖書はその中に、真に希望の光ともいうべきあたたかな<こころ>が灯っていることを示すのです。その希望を担っているのが、このダビデなのです。

 さて、ダビデはそのアブサロムの謀反の知らせを聞いて、エルサレムを放棄し、逃亡します。しかし、そもそもなぜダビデはすぐに都エルサレムの放棄を決め、なぜ逃げることにしたのでしょうか。と言うのも、そもそもエルサレムは難攻不落の要塞であって、篭城するには最善の場所でしたし、それに15章13節以下を読みますと、完全に人びとの心がダビデを離れたわけではないことが伺えます。そして何と言ってもダビデに忠誠を誓う勇敢な兵士たちがまだ多数仕えていたのです。何より老いたとは言え、ダビデも勇気を持った優れた軍略家でした。戦って決して勝ち目が全くなかったというのではなかったのです。
  しかし、なぜダビデは逃げることにしたのか、その理由をサムエル記下15章14節のダビデの言葉を通して知ることができます。ダビデはこう言うのです。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐ我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう」。つまり、町を戦火から守りたい、民衆を犠牲にしたくないという、あのアブサロム、そしてその周囲にあるどす黒いものとは対照的に、ここにはダビデのあたたかな<こころ>がにじみ出ています。まさにそれが故に、ダビデは、一切を捨てて逃亡したのだ、と語られているのです。
そして、更にそのあたたかな<こころ>は外国の寄留人、ガド人イタイに対するダビデの思いやり(サムエル記下15章19-20節)に満ちた言葉からも伺えます。 ダビデは、この火急の時、自分の生命の不安の高まる時にもかかわらず、自分の面前を粛々と進む大勢の兵隊の中の一人の男に目を留め、声をかけるのです。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか」と。そして説得します。「戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ」と。わたしに義理立てることはない。わたしは落ちのびて行く人間、あなたにわたしと同じ運命を味わわせるには忍びない、と。ここには、この一人の外国人亡命者に対するダビデの思いやり、いたわり、あたたかな<こころ>があります。それに対して、この外国人イタイがまたこう答えるのです、「主は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」(21節)。
あまりにも痛々しい、悲劇のおとずれ、しかしその火急の中にあっても少しも変わらずに互いに通わせ続ける〈こころ〉が生きています。イタイばかりではなく、このサムエル記下15章にはなおダビデの周囲の人々の心にはまごころがあふれ、忠誠心が燃え、誠実さがきらめいているのです。聖書は、あの時の勢いにまかせて戦いを起こすアブサロムと彼取り囲んでいる人間の底によどむどす黒いものと、まさに対照をなす、悲しく、辛い、しかし、その時にこそ気高い、暖かい人間の姿を描いています。
しかし、何と言っても、そのような高貴な人々、暖かい心を持ち続ける人々は、あまりに悲しい、惨めさの中にあるのです。「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」(15:23)。真に胸を打つような光景です。憂いの人、ダビデ。これ以上ない深い悲しみ、惨めさ、その中で、しかも、その上ダビデは、王であるしるし、最後の拠り所とも言うべき「神の箱」、神の臨在のしるしを、アブサロムの元へ送り返してしまうのです。 そして、言うのです、「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(15章26節)。これは直訳すれば「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」と。ダビデは、絶望してそのように言ったのでしょうか。すっかり心弱くなり、あきらめて「神の箱」を手放してしまったのでしょうか。深いどん底の中で、「・・・どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」、そのように言うダビデ。しかし、その彼に尚あたたかな<こころ>が脈打っています。悲しみの底、苦しみのどん底で。
わたしたちは、こうした人の<こころ>にふれたとき、その気高さに触れたときこそ、また自らのこころを動かされ、希望を持つことができるのです。そして、わたしたちもまた、どんなにかこのように気高くあることを願い、あたたかなこころを持ち続けて生きたいと願うことができるのです。悲しみの底、苦しみのどん底にあっても!いや、その中にあるからこそ!
しかし、ここで心に留めなくてはならないことがあります。かつてあのアブサロムも、そうあろうとしたのです。たとえば、サムエル記には「また、彼に近づいて礼をする者があれば、手を差し伸べて彼を抱き、口づけした」(15:5)、 そのように人に<こころ>を通わせようとし、「アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるま」(15:6)ったことが記されています。しかし、彼はそのあたたかい<こころ>を持ち続けることができなかったのです。
  そして更に言わなければならないことは、このアブサロムの人間の底によどむどす黒さ、野心、憎しみ、欲望、それらは、またこのダビデの中にもあったことなのです。かつてダビデの邪な欲望が、自分の忠実な部下ウリヤを死なせてしまったのです(サムエル記下11章以下)。であれば、どうしたら、わたしたちは、あのあたたかい<こころ>に触れ、それを持ち続けることができるのでしょうか。

 わたしたちはこのサムエル記下15章の真ん中に記されている、先ほどの「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」(15:26)、その言葉を心に留めなければなりません。ダビデや彼の周囲の人々の気高さ、あたたかな通い合う<こころ>、一切はここから来るのです。どんな低みにあっても、悲しみの中にあっても尚、人間らしさを失わない、それはここから出ているのです。それは私どもが思うよき人間性、よき性格からくるのはないのです。人間性を言うなら、ダビデは自分のうちにある、人間のどす黒さを知っています。それがかつて自分の部下を殺したのです。あのアブサロムと自分の間に何の違いもないことを身にしみて知っているのです。それ故、ダビデは「オリーブ山の坂道を泣きながら上って」いくのです。一切を捨てて、泣きながら、その主のもとへ、主のもとへと。
今日のこの詩編3編は、そこから生まれたのです。この詩編は「多くの者がわたしに言います、『彼に神の救などあるものか』と」(3節)、そう訴えています。もうダビデには救いがない、神の御手はアブサロムに移った、恐らくそのような言葉が触れ回っていたし、また実際このダビデたちの姿は人びとにそう映ったことでしょう。しかし、この詩編がすぐにこう歌います、「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」(4節)
  「主よ、それでも、あなたは」、わたしの気高さによらず、また罪、あのどす黒さによらず、いえ、それにも関わらず、「主よ、それでも、あなた」は御自身の救い、愛を貫き給うでしょう、と。自分め王位は踏みにじられ、自分の栄え、栄光は今や血にまみれた、しかし、だがこの神こそ「わたしの栄え」であるというのです。何故なら、主なる神は、「わたしの頭を高くあげてくださる方」であるから、と。誰もがこういう状況の中では、首がうなだれ、頭を垂れ、がっくりしてしまうのです。そんなときには決して自分の力で頭は持ち上げられないのです。しかし、神は「わたしの頭を高くあげてくださる」、前の口語訳は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」、絶望からそっと頭をもたげて希望を与えてくれるというのです。
  みなさん、わたしたちは誰も、このダビデのように、泣きながらこのオリーブ山に上るときがある。いやかつて、そうして上られた方もいる、そして今、泣きながらこのオリーブ山に上ろうとしている方もおられるかも知れない。誰もが首をうなだれてしまうのです、絶望の底、悲しみの底で。でも、決して誰も奪うことはできないのです、わたしの中にあるあたたな<こころ>、どんなどす黒いものが渦巻いていようとも、それでも尚、人はあたたな<こころ>を抱いて、希望を抱いて生きることができるのです。
  何故なら、神は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」だからです。「主が・・・どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」、このダビデ、このダビデが泣きながら登ったオリーブ山でこそ、あの主イエスがゲッセマネの祈りを祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のまま。」(マタイ26章39節)と。
  今日の黙想にティヤール・ド・シャルダンという人のこんな言葉を紹介しました。
  「人生にはただ一つの義務しかない。
    それは、愛することを学ぶことだ。
   人生にはただ一つの幸せしかない。
    それは、愛することを知ることだ。」
  人生のただ一つの義務、ただ一つの幸せ、愛することを学ぶこと、愛することを知ること ― そのようにあたたかな<こころ>を持ち続けること!わたしたちは、しばしばこのダビデのように破れるでしょう。しかし、「主よ、それでも、あなたは」愛!そこに「わたしの頭を高くあげてくださる方」主イエスがおられのです。そうです、だからこそ繰り返し、繰り返し、わたしたちは、この主のもとに帰るのです。愛することを学び、愛することを知るために。たとえどんなにどす黒い中にいたとしても、また自分がそれをもっていたとしても、神が必ず与えてくださるあたたかい<こころ>を抱きつづけるために、<こころ>と<こころ>を通わせるために。