2009年7月5日 聖霊降臨後第5主日

マルコ3章20節~30節

 
説教    大和 淳 師
それからイエスが家に入られると、再び群衆が集まって来たので、彼らはパンを食べることさえできなかった。
イエスの身内の者たちはそれを聞くと、彼を取り押さえに出て来た.人々が、「彼は気が狂っている」と言ったからである。
さて、エルサレムから下って来た聖書学者たちは、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「彼は悪鬼どものかしらによって、悪鬼どもを追い出しているのだ」と言った。
イエスは彼らを呼び寄せ、たとえで彼らに言われた、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができるのか?
もし国が自ら分かれ争えば、その国は立ち行かなくなる.
もし家が自ら分かれ争えば、その家は立ち行かなくなる.
もしサタンが自分自身に逆らって分裂するなら、彼は立ち行かなくなり、滅びてしまう。
だれでもまず強い人を縛り上げなければ、その強い人の家に入って、彼の家財を奪い取ることはできない.縛ってはじめて、彼の家を徹底的に奪い取るのである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.人の子らは、すべての罪と、彼らが冒とくするどのような冒とくも赦されるであろうが、
だれでも聖霊に逆らって冒とくする者は、永遠に赦されず、永遠の罪を負う」。
これは、彼らが「彼は汚れた霊にとりつかれている」と言ったからである。

 今日の福音書には、主イエスが「あの男は気が変になっている」とか「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」、そう言われたということが記されています。「気が変になっている」はともかく、「ベルゼブルに取りつかれている」とか「汚れた霊に取りつかれている」というようなことは、現代のわたしたちには違和感を覚えるかも知れません。それだけで何か非科学的、迷信のように思ってしまう、おぞましいわけです。確かにそうであるかも知れません。それだけ、今日の箇所は難解な箇所の一つに挙げられています。

  しかし、それでは、この聖書の時代、およそ約2千年前の時代、その頃の人々にとって「悪霊」、「汚れた霊」、そして「サタン」という存在がもっと身近にいた、信じられていたと言うことでしょうか。もちろん、こういうことは言えます。この聖書の時代、その舞台はとりわけ砂漠圏の世界ですから、広大な不毛な大地が広がり、そこでは常に死と隣り合わせに生きている、という厳しい環境にあったのですから、否応なしに人間の小ささ、無力さ、はかなさを実感しなければならなかったでしょう。つまり、もはや人間の知恵、力を超えた、しかも怖ろしい、神に反する力が常に自分たちを脅かす、常にそれを身近に実感していた、とは言えるでしょう。かたや、わたしたち現代の人間は、もはや、科学や知識の発展によって、人間以上に優れており、力を持った存在はない、言うなれば、もはや、そういう風に考えている、すべてのことにおいて、そのことが前提となっているわけです。だから、おおよそほとんど科学によって、それはとどのつまり人間によって証明されない、克服し得ないものなど存在しない、だから、人間に理解できないものなど存在しないし、そういうものがあるということは、ともかく頭から馬鹿げてる、そう思うわけです。ですから、「悪霊」、「サタン」、そういうものがわたしたちの心に占める余地はなくなっている、そう言っていいでしょう。いすれにせよ、わたしどもは、この聖書の時代の人々ほど、そういう存在を実感できなくなっていることは確かであり、何かおぞましいものにしか感じない、したがって、いや、そういうものが今もいて、働いているのだ、そういう風にはっきりと断言できることはできないでしょう。第一、「悪霊」とは何か、知ったところで意味がない。もちろん、いつの時代でもそういう存在に熱中する人たちは絶えないのですけれども。しかしながら、だからといって、現代のわたしたちと、聖書の時代の人間とはもはや根本的に違うのだ、そういう風にも言えないのではないか、そう思うのです。と言うのは、この今日の福音書をあらためて考えますと、イエスを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた、と言うのは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家であり、そして、実は、その「ベルゼブル」にせよ、「悪霊の頭」にせよ、よく分からないで言っていることになるわけです。しかし、まず、ここにイエスの「身内の人たち」のこと真っ先にが出てきますが、彼らはただイエスは「気が変になっている」、そう聞いて取り押さえに来た、まずそう記されている。つまり、このイエスの「身内の人たち」や民衆は、イエスが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そんな風に考えたのではなく、実に普通に「気が変になっている」、そう考えて、イエスを「取り押さえに来た」と言うわけです。これは、ある意味で、わたしたちもそう考えることに実に近い、いや、同じ感覚と言えるのではないでしょうか?とは言え、彼らもまたよく分からないでいるわけです。誰も本当にはこのイエスを理解し得ない、あるいは信じ得なかったということです。
 つまり、福音書がここで何より第一にわたしたちに伝えようとしていることは、わたしたちは、わたしたち自身からイエスを理解したり、信じたりはできないということです。と言うのも、この福音書において、イエスが誰か、理解し知っているのは、何とその当の「悪霊」自身だけだと言うのです。この悪霊について福音書は、「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(1章34節)と記しています。ところが人間は、イエスが誰か、誰も知らないのです。しかし、イエスが誰か知らないだけではなくて、言ってみれば、問題は、それは結局、自分が何ものなのか分からないのだということなのです。何より、自分が何ものなのか分からない、それがここでの根本的人間の姿なのだ、ということ。実は、今日の福音書のイエスのたとえを通してのことば、分かりやすく言えば、それはそういうことを語っている、そう言えるでしょう。そして、わたしたち、この二十一世紀の現代のわたしたちは、自分が何ものか、わたしは誰なのか、この聖書の人々以上に本当に分かっているでしょうか?いったい、わたしたちは誰、あなたは何ものなのでしょうか?実は、分からない、それが聖書の時代であろうと現代であろうと、変わらぬわたしたち人間のありのままの姿なのです。
 だから、たとえば、親は自分の子に対して「自分が産んだ子供だから」と何でも知っているつもりになっていて、そのような眼で子どもを見てしまうなら、挙句の果てに現在だけではなく、将来まで子供が安全であるような保証を求めて、自分で心配を作り出していきます。だから、子どもが自分の思いとは違っていくと、どうしてこんな子に育っちゃったんだろうとか、こんな子に育てた覚えはないとか。そうしてどうすればいいのか、途方に暮れるということがあるわけです。けれども親はただ親だということを忘れているわけです。親は子供を、いわば「作り直せる」力もなければ、子供の将来まで知り、それを保証できる神のようなものでもありません。親として子供のそばに立って、要求されたときにそのニーズに答えることぐらいしかできないという自分の限界を認めることが必要なのです。自分の教育のしかたのために悩み、自分を責めたりすることは意味のないことです。神経質になって、うるさく子供にあれこれさせようと思っても、子供にとってはますます負担になり、子供自身のやりがいを失わせていきます。親にとって子供はたしかに大事な宝ではありますが、それに対して親としての自分の、いわば全面的な絶対的な責任をもつ所有物ではありません。子供は親と違った個性であり、自由をもっているユニークな存在です。子供は人に頼りたいときもあれば、一人でやっていきたいときもあると思います。頼りたいのは、母親だけではありません。父親も子供のそばに自分の「場」を持ち、かけがえのない役割を果たす「責任」がある、そう言えるでしょう。そして、それは実は親子の関係だけではない、夫婦、兄弟、いやもっと広く、ようするに他者に対するわたしたちの根源的あり方であり、もっと言えば、いや、そこで何より重要なのは、神に対する責任なのです。それもしかし、将来まで知り、それを保証できるような絶対的責任と言うより、明日は分からなくてもしかし今このときの限界の中の責任なのです。
 ここであらためて聖書に戻って考えさせられるのは、先に申したとおり、実に「エルサレムから下って来た律法学者たち」、つまり、宗教家がイエスが「ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、そう解釈した、そう断定していることです。これは単なる宗教家と言うより、わざわざ「エルサレムから下って来た」、そう記されていますから、言うなれば、権威をもった指導者たちという風に考えるべきでしょう。その彼らは、実に、そういう断定をしたということ。「彼は汚れた霊に取りつかれている」と。最初に、現代のわたしたちには、こういうことに違和感を覚えるかも知れない、そう申し上げましたが、しかし、では、この現代にそういう考えはなくなったのか、というと、そうではないわけです。最近では、たとえば北朝鮮が悪魔の国だとか、その指導者を悪魔呼ばわりするわけです。つまり、自分に敵対する、そして何か計り知れないような力を感じる、その行動が理解し得ないものに対し、そういう断定が働くわけです。あの人は何かに取り憑かれている、そんな風に考えたり、言ったりする。これが国家同士だと、互いに相手を悪魔の手先とみなし、戦争になる、それが今のテロ戦争でしょう。つまり、悪魔とか悪霊をわたしたちが持ち出すのは、結局は自己正当化なのです。何故、自己正当化するのか?自分が分からない、つまり、どう生きるべきか、本当には分からないからです。自分が分かっていれば、どんな相手、状況だろうと、冷静に対処できるはずです。
 一体、わたしたちは何ものなのか?聖書はどうわたしたちに語りかけるのか?それは今日最初に読んだあの創世記3章、いわゆる堕罪後の人間に、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」という問いを聴き、応えることです。あなたはどこにいるのか、原語ではアイェーカとただ一語、しかし、この一言から神の人間の救済、人間を取り戻す闘いがはじまり、そしてこの一語にすべては尽きていくと言っていいでしょう。それにその時々にひたすら応えていく、それが人間なのです。それ故、創世記では、神はその取って食べるなと命じられていた木から食べてしまった男と女に対して ― 彼らは自己正当化を試み、それによって神ご自身に反発さえるするのですが ― それにも関わらず、いきなり裁いたりされないのです。応答を求めるのです。と言うのも、かたや蛇に対しては、何の弁明も要求せず、応答を求めることなく、その裁き、運命を告げるのです。そして、そのことを一層明らかにするのが、創世記3章21節です。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。なるほどアダムとイブはエデンの園を追われます。しかし、神はその彼らに、自ら衣を作って着せられるのです。それは、彼らが何処にいようとも、どのような苦難にあろうとも、神はご一緒におられるしるし、あなたはどこにいるのか、アイェーカと求めつづけられることを暗示しているのです。そして、人間とはそれに結局その時々の姿で、そまさに罪にまみれた存在であっても、そのままに応えていく存在である、そうあることが許されているということです。そのような責任をもっている、そうあることが許されているのです。
 ところで「責任」というのは英語でresponsibility(リスボンシビリティ)ですが、この名詞はrespond(リスボンド)という動詞から作られていて、その意味はただ「応える」ということです。たとえば親の「責任」というのは子供のニーズに応えることだと思います。子供の代わりになって、何でも考え、してあげる「責任」ではない。そういう意味でも、母親にとって父親にとって「あなた、だれ、何者か」という質問は、自分自身を顧みると同時に、逆に言えば、その問いをもつ限り、その限界の中にとどまるからこそ、必ず新鮮な生きる喜びを与えられるのです。それは他者と出会うわたしたちの根本的あり方です。他者への尊敬と感謝をもつ続けるからです。福音書の中で、群衆は主イエスのわざにしばしば驚き、感動しつつ敬意を込めて「この人は何者か」と声をあげています。しかし、ここでの律法学者は、もはや応答responseではありません。心で受けとめる責任responsibilityを忘れている、失っています。「彼は汚れた霊に取りつかれている」、それは同時に、限界を踏み越えた絶対的責任を追及する、つまり、同時にどこまでも自己正当化を試みる、わたし自身を失った人間の声です。それ故、大変厳しい断言を主イエスはなされるのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。それにしても聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない、何故でしょうか。
 青野太潮先生という新約の先生が「どう読むか、聖書」というご著書のなかで、それについて、こう述べています。全ての罪も神を汚す言葉も許される。しかし、その許しが成立するためには、<その許しそのものを否定すること>だけは、決して許されるわけにはいかない。」(同書P52より)「サタンの支配を既に打ち破り、その支配下の悪霊どもを現に追い出しているイエスを指して、<ベルゼブルに取り付かれている>と言うものは、イエスに働いている聖霊を汚すもので有り、<現に出来事となっている救いを拒むもの>である。他のどんな事も許されるとしても、<この拒絶だけ>は致命的なのだ。」(同書P202より)つまり、全てのことが許されている。しかし、だから、どんな罪を犯してもいいというのではない。赦し、救いを拒むことは許されない、ということ。聖霊を冒涜するとはそういう意味だというのです。
 今若い人々、また子どもたち自身のみならず、大人も老人もそこで本当に悩んでいる、苦しんでいることは「わたしは何者なのか」ということ、「わたしは誰」ということではないでしょうか。その答えが見えない、応えることができない、聖書から言えば、「あなたは何処にいるのか」という問いが聴こえないことからくるのではないでしょうか。そして、「わたしは何者なのか」ということ、わたしは、この神の愛に応えて生きるようにされているいうことが実感できたとき、たとえ、どんな苦難の中にあろうと、重荷を負うていようと、いえそうであるからこそ、希望をもち、喜びに溢れることができるのです。そのことをパウロはこう語っているのです、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。それはこういうことです。苦しみの底で、自分自身を失ってしまう、したがって神を失ったわたし、神無きわたしとなるそこで、しっかりとあの「あなたは何処にいるのか」という声が聴こえるということです。その自らの限界を引き受けるとき、それは真実が見えるときなのです。「”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、わたしの口からはうめきに過ぎない、無残な弱きわたし、だが”霊”自らが執り成してくださる、そこに神はおられる!わたしと神はいっしょなのだ!「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章35-39節)。これが、あの「あなたは何処にいるのか」への神からの応答なのです。神ご自身から与えられている、わたし自身なのです。この神の「あなたは何処にいるのか」、「あなたは何者なのか」、それは、どこか高みからなされる問いかけではないからです。わたしたちは、この問いがまさにこの方キリストの十字架において起きていることを知ります。それはわたしたち一人残らず、この十字架のもとに見出されるためです。それはどれほどわたしがこの神から離れようとも、いや実際見失い、打ち捨てられた者のようなわたしであろうと、今や、この神は「あなたは何処にいるのか」と探し、追い求め、私を見出してやまないのです。パウロは言います、「人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます」、神はわたしたちのその心を見抜き、見抜きながら、見抜くが故に、裁くのではなく、見捨てるのではなく、”霊”の思いが何であるかを知っておられる、”霊”の思い、キリストの十字架、その心を真中にしてわたしたちを受け止めてくださるのです。だから、聖霊、この”霊”を冒涜してはならないのです。なぜなら、聖霊はこの神の愛の力、愛そのものだからです。自ら神のこの愛を拒んではならないのです。わたしの犯す罪、わたしの不信仰が、この”霊”の思い、この愛、この十字架のキリストはもはや克服されないと思ってはならないのです。断じて私たちは誰一人救われないと思ってはならないのです。いえ、むしろ、そうであればあるほど、この十字架のもとにある人間なのです。たとえすべての人が私を見捨てようとも、今この瞬間死がわたしを襲おうとも、主よ、わたしはここにおります、主よ、わたしはあなたに見出されてここにいます!それが、わたしなのです。
 わたしたちは、自分が誰か、つまり、どうこれから生きていく人間か、本当には分からないし、またすっかり分かる必要もない。そんな責任、応答を神は求めておられない。それは、まったく「神様のお仕事」です。だから、分からない、できないことも、自己正当化ももはやする必要もない。ただ、この神が愛する、その愛に見出されるがままに生きる!それが、わたしなのであり、あなたなのであり、いや、今、ここにいる一人、誰一人、もれることなくそうなのす。