2009年7月26日 聖霊降臨後第8主日 「死の傍らに命が始まる!」

マルコ5章21節~43節

 
説教  「死の傍らに命が始まる!」  大和 淳 師
さて、イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大群衆が彼の所に集まって来た.そして彼は海辺におられた。
すると、会堂管理人の一人で、ヤイロという名の者が来て、イエスを見ると、彼の足もとにひれ伏した.
そして、しきりに彼に懇願して言った、「わたしの小さい娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやっていただき、娘がいやされ、生きるようにしてください」。
そこでイエスは彼と共に行かれた.大群衆は彼について行き、彼に押し迫った。
そこに十二年間も血の流出を患っている女がいた。
彼女は多くの医者にかかってさんざん苦しめられ、持ち物を使い果たしたのに、何の効果もなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女はイエスのことを聞くと、群衆にまぎれて彼の後ろに近づき、彼の衣に触った.
「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」と言っていたからである。
すると直ちに、彼女の血の源が枯れて、彼女はその病苦がいやされたことを体に感じた。
イエスは直ちに、力がご自分から出て行ったことを感じ、群衆の中で振り向いて、「わたしの衣に触ったのはだれか?」と言われた。
弟子たちは彼に言った、「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っているのに、『わたしに触ったのはだれか?』とおっしゃるのですか」。
イエスはこのことをした女を見つけようとして、見回された。
その女は、自分に起こったことを知って、恐れおののきながら、彼の前に出てひれ伏し、ありのまますべてを彼に告げた。
イエスは彼女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたをいやしたのです。平安のうちに行きなさい.あなたの病気は良くなりました」。
イエスがまだ話しておられる間に、人々が会堂管理人の家から来て言った、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすこともないのですが?」
しかし、その言が耳に入ると、イエスは会堂管理人に言われた、「恐れることはない.ただ信じなさい」。
そして彼は、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほか、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
そして彼らが会堂管理人の家に入って行くと、人々が取り乱して、泣いたり、わめいたりしているのを、イエスは見られた。
イエスは中に入って、彼らに言われた、「なぜ取り乱して泣いているのか? この子供は死んだのではない.眠っているのだ」。
すると人々は彼をあざ笑った。しかし、彼は人々をみな外に出し、子供の父と母と彼の供の者たちを連れて、子供のいる所に入って行かれた。
そして子供の手を取って、彼女に「タリタ、クミ!」と言われた.それは、「少女よ、わたしはあなたに言う.起きなさい!」という意味である。
すると、直ちに少女は起き上がり、歩き回った.彼女はすでに十二歳であった。彼らは非常に驚いた。
イエスは彼らに、だれにもこのことを知らせないようにと厳しく命じ、彼女に何か食べる物を与えるようにと言われた。

 主イエスの一行は、会堂長であるヤイロ、その彼の死にかけた娘を救うべく彼の家へと、その道を急いでいました。ところが、ひとりの女性によって、その主イエスの足は止まってしまいす。「十二年間も出血の止まらな」い、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」、そんな人生をまさに12年間苦しみ続けたその女性が、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。すると、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」そうしてイエスはそこにそのまま立ち止まってしまいます。そこでイエスに癒されたこの人は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話し」ました。その彼女に主イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」、そう命じられます。だがその後もイエスはそこに立ち止まってなおもまだ、この女に語られていたのです。主イエスはそこに立ち止まり続られた。主は、このひとりの女のために惜しみ無く時間をおさきになります。まるで彼女が苦しみ続けた12年間の年月を取り戻されるかのように。その命を慈しむかのように。イエス、このかたは、福音、命をもたらすおかただからです。

  しかし、それは一方で、待たされているこの道を急ぐヤイロをはじめどんなに周囲の人々をやきもきさせたことでしょうか。わたしたちにもこのヤイロの気持ちが良く分かるでしょう。そして、更にわたしどももまた、このヤイロのように、いわばこの主、神に放っておかれたように感じる経験があるのではないでしょうか。「主は、もうわたしのことなど忘れたのではないか」、そう感じる、思わざる得ないときです。そのようなすべてに見捨てられたような孤独に、まさにヤイロはいるのです。イエスは、何かお話しておられます。けれど彼、ヤイロの耳には入らなかったでしょう。案の定、最も恐れていた知らせがもたらされるです。「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」。

 イエス、このかたは、福音、命をもたらすお方、その命の使者と、死の使者が路上で遭遇、激突したのです。しかも、死が、一歩はやく、一足はやく少女をとらえたのです。「・・・この上は先生を煩わすには及びますまい」、死は、もう無駄だ、勝ち誇りながら、福音、命の知らせをあざわらうのです。この方の十字架を人々が、すべての者があざ笑い、罵ったように!

  わたしどもの人生の路上で、今もこのように死の知らせが耳元に届けられるのです。「このうえは、主をお連れして煩わせるに及ばない」、所詮、信仰といっても、この死の一歩手前のところでのことだ、と。ヤイロに既に主の語られている御言葉が耳に入ってこなかったように、そのとき、わたしどももまた御言葉、聖書は耳に入らず、その死の声の方がはるかに深刻に、圧倒的にリアルに耳元に響くのです。人は誰もなかばあきらめたように、その死の路上に立ち尽くすのです。

  しかし、驚くのはそのとき、主イエスがお語りになったことです。「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」(36節)この「イエスはその話をそばで聞いて」と訳された原文をそのまま直訳しますと、「しかし、イエスは語られた言葉を聞き流して・・・」、イエスはその死の知らせを〈聞き流された〉のです。このうえは、イエスを信じても無駄である、その声、思わずわたしどもが耳を傾け、そして捉えられてしまっているその声を聞き流されるのです。それが、わたしどもの信じる、わたしどもの主なのです。主は、命の主であり給います。命、福音を告げ知らせ給うおかたです。わたしどもにとって、死の、あの知らせが、既に勝利していると思える時にも、真の命の主であり給うのです。それ故、言われます、「恐れるな。ただ信ぜよ」。

 さて、ヤイロはここで一方から死の知らせを聞き、一方から命のおとづれを聞く板ばさみになります。ちょうどそのようにわたしたちにも自分自身の敗北と悲しみを告げる知らせが刻々と届けられます。御言葉、福音よりもはるかにリアリティーをもって、あのこの世の声、「キリストは、信仰は無駄だ」と言う声が圧倒してきます。たとえどれほどの強い信仰をもっていたとしても、確かに死の知らせは常に一足はやく力をもってくるのです。わたしどもの力ではどうにもならないものとしてわたしどもの足をからめとるのです。誰が、それを聞き流すことができるでしょうか。誰が恐れずにいられるてでしょうか。それを聞き流し、恐れずに信じることができる、それはこの死の力に対して、勝ちえるかた、そのかた以外にないのです。主は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 このヤイロはそもそもすでにイエスのひざもとに平伏すだけの信仰を持っていました。そのヤイロの信仰は、イエスを連れてきた、イエスを動かしたのだ、と言えるのです。そのようなひたむきさがイエスを引っ張ってきたのです。しかし、わたしども自身の持ちえる信仰とは、それまでなのです。わたしどもの「ただ信じる」とは、そこまでなのです。信仰はただ死のこちら側でしか意味をなさないかのように、死を前に音を立てて崩れていくのです。あの死の知らせと、このいのちの知らせと板ばさみになったとき、立ち往生してしまうのです。今度はヤイロの足が止まってしまうのです。いえ、わたしたちの足はこの死を前にして、そこから一歩も進めないのです。

 死、それは、わたしどもの人生に対する壁のように突然わたしどもの前に立ちはだかります。路上でヤイロを襲ったように。わたしどもは、この壁の一歩手前にいるときに、この壁のこちら側でなら、信じていることもできる。恐れずに生きていられるかも知れない。このヤイロのように。まさにヤイロは会堂長、本来ならイエスと既に敵対している陣営に属するこの人は、しかし愛する娘のために、全てを投げ打って、このイエスの足元に平伏しました。その死によって立ち塞がれる壁の一歩手前までの真剣な努力、その愛・・・。彼のそのひたむきな信仰、その努力、その誠実さ、その愛情、彼は、ぎりぎりまで努力した、為しうる限りのことをしたのです。だが、あの死の知らせ、その使者の言葉、「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」それは、「よくやった。だが、ここまでだよ」、そう告げます。そこでわたしどもは信じること、信仰の空しさも感じてしまうのです。わたしどもの生、その無意味さを感じてしまうのです。その限りの人生、信仰であると。どうしても、わたしどもがこの壁を乗り越えることはできないからです。どれほどひたむき、純粋な信仰であれ、この壁を乗り越えることはできないのです。この壁の先は、「このうえは先生を煩わすには及びますまい」、諦めなくてはいけない、もうこれ以上はしょうがないではないか、と。だから、それ故、わたしどもは、この壁の前、死の直前まで、結局どう生きるかである。どれだけ生きたか、ではないか、と。だが、それは結局は、この死の壁、この世の力に押しつぶされているのです。限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する。確かに、それがわたしどもに、究極的に残された生き方でしす。そして、それ自体、本当に困難な、尊い生き方であるでしょう。何故なら、彼の娘が死に至ったときに、もし、所詮もうどうにもならない、どんなに努力しても、自分は駄目なんだ。そういう風にヤイロが考えたとしたら、この出来事は起こらなかったし、彼は、はるか以前に、この世の力に押しつぶされてしまっている訳です。しかし、限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する、その生き方自体もまた、この世の力、死の力に押しつぶされた生き方となるのです。謂わば、この死の壁、その力に駆り立てられてあるに過ぎないからです。この世の力、その支配されているからです。わたしどもは、やっぱりそこで恐れ、恐怖によって生きているのです。この壁のこちら側で、いたちごっこのように、この恐怖と戦っている訳です。

 だが、それから先がある。今やここに転換が起きます。ここから先は、このかたがヤイロを、弟子たちを、わたしたちを連れていくのです。ここから先は、イエスが、わたしどもを引っ張っていくのです。それは、死の克服という事実の前です。「恐れることはない。ただ信じなさい」、その御言葉がわたしどもを伴っていく道がそこから通じていくのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。主は、ヤイロにそう言われました。「恐れてはならない」、「ただ信じる」。わたしどもは今、このヤイロとともにそのようなイエス・キリストの現実に立っているのです。

 「恐れてはならない」。したがって、この主の言葉は、敢然とこの死の壁を突破するということです。わたしどもが、この壁の手前で、もうそこで終わりだと感じている、そこから先のこと、それはもう、本当に、夢物語、このヤイロの家で、泣き叫んでいた人々が、イエスをあざわらったように、愚かしいこととしか思えない、その限り深刻そのものである。その死の現実が、終わりどころか、始まりである、思いも依らず、そこでこそ「信じる」ことが始まる、全く新しい命の現実が指し示されているのです。それは、このヤイロのように、これまでの努力は全くの無駄、最早何も残らない、そういうこの世の力によって全てが奪われていくその現実の中でなのです。死の支配、この世の力が、わたしどもを根こそぎ押しつぶし、打ちのめすときに、驚くことに、なおそこでわたしたちには信じられるものがある、信じることができると言うのです。いや、そのときに信じなければならないのです。信じることが始まるのです。何故なら、わたしどもは、そこで空手であるからです。そこでわたしどもの手の中に確かなものは、あの死の壁そのものを突破しうる保証、力も何もないからです。

 しかし、主は、泣き叫んでいる人々に言います。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。それは、あたかもこういうことです。何故深刻なそぶりを見せているのだ、と。わたしどもは、確かにこの世の力、死を目の前で、全く深刻にふるまう、いやそうせざる得ないでしょう。これ以上ない深刻、厳粛なもの、人の死!しかし、一方でまさしくこの40節「イエスをあざ笑った」人々のように、その涙のかわかぬうちに、人をあざわらうような姿がわたしたちの中にもあるのです。何故なら、わたしどもは死を決して、本当には真剣に受け取ることができないのです。それは裏を返せば、生、命を本当には真剣に受け取ることができないということですが、もし、本当に真剣に死を考えたなら、わたしどもは、全く根こそぎ打ちのめされるからです。ですから、わたしどもは、この壁の一歩手前までは、本当に真剣になれます。この壁を忘れられる限り、わたしたちは、あらゆることにおいて真剣に、真実でありうる気がするのです。しかし、一度この壁が、わたしどもの前に塞がると、信仰でさえ、真実に思えず、真剣になれなくなるのです。そして、この壁の前で、真剣であり、真実であるのは、ただこの力に、ただ無考え、無反省に隷属していくことです。どうせ、こんな世の中だから、そうして、人はまた命がけにもなれるのです。それこそ、戦争に行くし、権力争い、憎しみ合いのために命まで捨てるのです。死の法則に従っているから、その時にだけ、真剣である、真実であるように思えるのです。そのように、わたしどもの深刻さは、あのこの世の力、死の力そのものに押しつぶされているからです。決してあの壁を乗り越えることができないと信じているからです。ただこの世の力、その支配に、隷属しているに過ぎないからです。諦めている、仕方がない、そういう風にしか、死を、したがって生を、命を大切に考えられなくなっているからです。

 しかし、わたしどもは、真実の涙、本当にただ一人、深刻に死の事実と戦ったかたの涙を知っています。他ならぬこのかた、イエス・キリストご自身であります。ゲッセマネでの、あの十字架を前にしての祈りの真実であります。そのとき、誰も、この方以外に起きていることができなかったと言います。眠ってしまった弟子たち、わたしどもの不真実、眠っている現実・・・。そして、十字架、このかたの死。そして、復活。それは、この御方だげが、この死の支配のもとで、真実に戦い、ご自分のものとし、そして、突破された、ということです。だから、この御方によって担われているからこそ、わたしどもの死は、「ただ眠っているだけである」となるのです。この御方は命にお向き合うお方だからです。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」、それは、したがって、誰よりも真剣に死を担われ、しかし、そうして命を担われるお方の言葉、事実なのであります。そして、ただ一人、あのこの世の力に勝利されたお方の言葉なのです。しかし、この世の力に屈服し、押しつぶされ、本当にはその恐ろしさを知らない人間にとっては、むしろ全く不真実なものに見えます。一かけらの深刻さも感じないからです。わたしどもと一緒に、死に突っ伏していないからです。この方だけが命に対して本当に真実、真剣であり給うからです。

 そうして、「少女よ、起きなさい」。それは、さしずめ「さぁお嬢ちゃん、起きなさい」と言うことです。「少女よ、復活せよ」とか、大仰な言葉ではなく、全く平凡な、そう、母親が、朝そっと自分の子供を起こすような日常の言葉であります。そして、起き上がった少女のために「食物をあたえるように」と言われます。まさにそこは日常生活そのものです。復活、それはキリスト教信仰において、秘義の中の秘義、そう言えるかも知れません。それ故、この出来事の前に「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを許されなかった」のです。しかし、そこで現出する世界は、全くのわたしどもの日常そのものの世界であるのです。復活は、まさにわたしたちのこの日常生活そのものの中にもたらされるのです。

 「恐れるな。ただ信ぜよ」。わたしどもが、この主の言葉を聞くのは、したがって、このわたしどものこの日常そのものの中で、であります。わたしどもが、あの壁の前で、ゲッセマネの園で眠りこけている弟子たちのようなこの生活のただ中で、であります。それはこういうことです。既に、わたしどものこの平凡なこの生活、食べ、飲み、寝る、働く、この日常の行為、わたしどもが日々繰り返し、時に無意味にも思えるそれは、もはやこの死の力、この世の力に呪われたもの、支配されたものではないのです。この御方によって、新しい命そのものへ踏みだしているのです。この方の苦しみ、十字架と復活に支えられているのです。

 それ故、ヤイロは、あの死の路上で、決して放って置かれていたのではなかったのです。彼にとってはすべては徒労に思えたその瞬間も、人生の空白のように思えたその苦しみ、悲しみも、その一切は決して無駄とはならないのです。既にこのお方がそれら一切を受け取り、引き受けてくださっているのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」とはそういうことです。そのことは、また「十二年間も出血の止まらな」かったこの女性にも起きたことなのです。彼女の「十二年間」、「ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」、それが彼女の人生のすべてではなかったのです。いいえ、あなたが、あなたの人生をそのようにまさに感じる、あの死の知らせが、一切は最早無駄である、そうわたしたちに語る時にこそ、この方の声はわたしたちを招くのです、命へ、命へと。「恐れるな。ただ信ぜよ」、何もないが故に、「恐れるな。ただ信ぜよ」、そこから命の道が始まっている、この方に導かれて、従いつつ歩むわたしの命の道が始まるのです。そうです、ヤイロも、この長血の女にも、そしてあなたにも今既に復活が起きているのです。真に死の傍らに命が始まる!このお方があなた、その命の傍らにおられるからです!