2009年8月2日 平和の主日 「躓くからこそ」

マルコ6章1節~6a節

 
説教  「躓くからこそ」  大和 淳 師
イエスはそこから出て、ご自分の故郷へ行かれた.弟子たちも従って行った。
そして安息日になったので、彼は会堂で教え始められた.すると、聞いていた大勢の人が驚嘆して言った、「この人は、これらのことをどこで得たのだろう? この人に与えられているこの知恵は何だろう.どうしてこのような力あるわざが、彼の手によって起こるのだろう?
この人は大工ではないか? マリヤの息子で、ヤコブやヨセやユダやシモンの兄ではないか? 彼の妹たちは、ここでわたしたちと一緒にいるではないか?」。こうして、人々は彼につまずいた。
イエスは彼らに言われた、「預言者は、自分の故郷、自分の親類の間、自分の家以外では、敬われないことはない」。
イエスはそこでは力あるわざを何も行なうことができず、ただわずかの病人に手を置いて、いやされただけであった。
そしてイエスは、彼らの不信仰に驚かれた

クリスチャンなら、いや、クリスチャンならずとも、内村鑑三の名は知っていると思いますし、著書に触れ、尊敬している人は少なくありません。日本のキリスト教会にとって真に偉大なる人物であり、今も大きな影響を与えている人です。内村を通してキリスト教に触れたと言う人が跡を絶たないのです。その内村の息子で、日本の精神医学の先駆者ともなり、また高校野球連盟の会長も務めた内村祐介という人が、内村鑑三について書いているのですが、一言で言えば、祐介は、人間内村に躓いてしまったようです。家では気むずかしく、癇癪をしばしば起こすので、恐れていたことを語っています。あるいは内村の弟子で、東大総長を務めた矢内原忠雄、この人も優れた人物ですが、やはり、その息子は彼の家庭での言動、行動が外での彼とあまりにギャップがあることに躓いたことを記しています。そのことで内村や矢内原の偉大さ、尊敬すべきことはいささかも減じることはありませんが、どんな偉大な人も家庭、日常生活では普通の人であったということでしょう。

  さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが弟子たちを連れてご自身の故郷に行かれた。そうして、会堂で教え始められましたが、結局その故郷の「人々はイエスにつまずいた」、そういうことが記されています。内村や矢内原とは事情は違うものの、やはりイエスも躓きを与えた、つまり、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」、そう言ってつまづいた、と福音書は語っています。

  主イエスはこのナザレの町においても、これまで人々が聴いたこともない権威と深い知恵に満ちた教えをなされた。ところが、彼らはかえって躓いてしまった。彼らにとってイエスは、自分たちと変わらない、そう言う意味では、まるでそんな権威や力が本来あるはずもない、言うなればイエスは、そういう風にどこまでも日常生活の人、ただの人、そのように彼らにとってはイエスはあるということです。このナザレの人々の躓きは、またわたしたちの躓きともなると言っていいでしょう。

 教会の信仰告白は、主イエスは真の神にして真の人である、そう信じているわけです。神は全知全能です。そのような権威を主イエスは持っておられる、と。しかし、信仰告白はまた同時に、この方は真に人であった、と告白する。つまり、そういう意味では、この方はスーパーマンではない、ということ、それ故、この故郷ナザレでは、主イエスは全知全能どころか、「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)と記されるように全く無力なのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、そのようにこのマルコ福音書は始められていますが、「神の子」と言うより、全くの「人の子」、ただの人としてもおられるのです。そして、主イエスご自身「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)そう言われたことが記されていますが、要するに、この物語は、まったく伝道に失敗であったということです。つまり、言ってみれば、主イエスは伝道に失敗したと、あたかもそういうことと言っていいでしょう。

 伝道、わたしたちは、出来ることならすべての人に受け入れられることを願います。でも、実際には拒否や、拒絶、失敗に色々な形で出会うわけですが、わたしたちにとってはそういうことは勿論、それはどこまでもネガティブなことにしか思えないわけです。何かあってはならないこと、汚点のように思ってしまう。もちろん、そのようなことがなければない方がいいし、またないように努力しなければならないことは言うまでもないことです。

 しかし、まさに主イエスご自身、そこに立っておられるのです。そして、この方はそのような拒否、不信仰にあってお怒りになり、呪ったとか、あるいは力づくで人々をねじ伏せるのではなく、ただ「人々の不信仰に驚かれた」と記すのです。主イエスは期待する、望むからこそ驚かずにはいられないのです。

 何よりこの主イエスの驚きは、この方ご自身の十字架にへとつながっています。彼らの拒否、不信仰を受け入れて、それをご自身に負われる、主はただ愛することによってそれに打ち勝ち給うお方だからです。拒否、不信仰に対して、神のなされ給うこと、それは最早愛する、それ以外にないその愛 ― 主イエスご自身、その愛にすべて委ねていかれるのです。拒否、不信仰 ― だが神は愛する、それが神の応えなのです。審き、罰ではなく、ただひたすら愛する!主イエスは、どこまでも最も身を低くしていわば彼らにご自身を踏ませ、通り行かせるままにされるのです。それが十字架の神なのです。

 わたしたちは、自分とは反対の人、拒否する人がいる、受け入れてもらえない、そのとき、悲壮な思いにかられます。しかし、イエスはただ驚いたのです。怒ったのではなく、腹を立てたのではなく、まるでいわばご自身との違いに、ああこの人はこう言う風に考えるのか、とそんなこと思いもつかなかったかのように・・・。

 そもそもわたしたち自身ちっとも主の道に従えないのです。あるいは他者の違いや過ちが赦せず、直ぐに腹を立てたりするのに、そのくせ自分の過ちや不信仰のことはもはや考えもしない、いや考えても、わたしだけでない、あの人のほうがもっとひどいじゃないか、そのようにして主の愛を、他者に対しても、そして自分に対しても拒んでしまうのです。でも、主は今でも、そんなわたしたちの不信仰を驚いてくださっているのです。その主の驚きの中に身をおいたとき、わたしのために、そしてあの人この人も、決して見捨てず、どこまでも負うてくださる主イエスの十字架が立っていることを知ります。

 主は、尚不信仰なわたしどもを友のように扱ってくださるでしょう。わたしたちは主に悪を行なうのに、主はわたしに善きことをなしてくださるでしょう。主はわたしの悪を数え上げるようなことをせず、倦むことなく、憤慨することなく、わたしをたずねてくださるでしょう。主はわたしと共に苦しみ、わたしのために死んでくださる。土はわたしのためには何もいとわれないのです。

 最初にナザレの人々は、いわば日常生活に躓いてしまった、そう申し上げました。敢えて言えば、少し変わった言い方ですが、そんな風に、でも日常生活に躓くほど近く、主イエスはわたしたちの中に来られたのです。えっ、この人が?えっ、こんなところに?と驚くほど身近な存在となられた。それがわたしたちの神であるということです。

 しかしそれほどに身近になってくださっても、そもそも、このような話、つまりあたかも神さまも失敗する、そうとってしまうようなこんな出来事は、そもそも聖書がいわばイエスを神格化しようとするなら、わざわざ聖書に記す必要はないはずです。「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」、何も出来ない神さまなんて一体どうして信じられるでしょうか?

 でも、この主イエスが二千年にわたって実に多くの人を立ち上がらせ、生きる力となったのです。その最初の証人の一人がパウロです。先ほど読んだ第二朗読の2コリント12章で、ちょうどパウロはこう述べています。「・・・それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、それに行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章7~10節)

 ここでパウロが与えられたという「-つのとげ」、「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」とは、パウロはその肉体にひどい障害、ある人はパウロはてんかん症であったとも言いますが、そのような障害を持ちひどく苦しんでいたのでしょう。そして、何とかそれを取り去ってくださるよう、祈ったというのです。つまり、直してください、癒してくださいと祈ったということでしょう。しかし、その折りはかなえられなかった。しかし、そのパウロに全く思いがけない、そして驚くべき喜びとなった主の答えが与えられたというのです。主イエスは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、そうパウロに教えてくださったというのです。

 しかし、そのような障害を身に負うている、そして祈りがきかれなかったというようなことは、わたしども日常の考えからいけば、それほ全くつまづきとなる以外ないことです。でも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、つまづきの中にこそ、弱さの中にこそ主イエスの力は十分に発揮されるのです。つまり、神はパウロにこう言っている、「あなたにそのようなとげ、障害、弱さがあっていいのだ」と。

 何故なら、このキリストは、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」お方だから、とヘブライ書5章2節はそう語ります。そして、そのパウロ自身また「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(2コリント13章4節)、そうコリントの信徒に語ります。そのような神、キリストの弱さ、わたしたちにとっては躓きとなるもの、それどころかパウロは、それを単に弱さ、神の弱さと呼ぶだけではなく、「神の愚かさ」とも呼ぶのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1章25節)すなわち、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを喜べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(〃23-24節)

 ですから、今日のこの福音書の物語は、何より大切な物語、特に福音書の前半部の中心とも言うべき物語と言えるかも知れません。少なくとも決して余計な物語、余分な不必要な、あってもなくてもいい物語ではないのです。

 人生に、信仰に躓きがなかったらどんなにいいだろう、わたしどもはそう考えてしまうからです。躓きとはそもそも要はわたしたちにとって余計なもの、いらないものがそこにあるということです。しかし、聖書を通して主イエスは、ここでわたしたちに語りかけています。それは本当に余計なもの、いらないもの、なければいいものだろうか?そうではなく、それを通してこそ、「わたしの恵みはあなたに十分である」わたしの「力は十分に発揮される」。わたしはそのために来た。わたしはそれ故あなたの日常のただ中にいつもいる、と。