2009年9月20日 聖霊降臨後第15主日

マルコ 8章27-38節
大和 淳 師

イエスと弟子たちは、ピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途上で、イエスは弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれであると言っているか?」
彼らは彼に告げて言った、「ある人は、バプテスマのヨハネと言い、ほかの人は、エリヤと言い、ほかの人は、預言者の一人と言っています」。
イエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたは、わたしをだれであると言うのか?」。ペテロが答えて言った、「あなたはキリストです!」
すると彼は、ご自分のことをだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。
それから彼は、人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、聖書学者たちに拒絶され、殺され、三日の後に復活しなければならないと、彼らに教え始められた。
しかもイエスはその言を、あからさまに語られた。するとペテロは、彼をわきへ引き寄せ、彼をいさめ始めた。
しかし、イエスは振り返って弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、わたしから退け! あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。
だれでも自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の魂の命を失う者はそれを救う。
人が全世界を手に入れても、自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか?
人は自分の魂の命と引き換えに、何を与えることができるだろうか?
だれでもわたしとわたしの言を、この姦淫の罪深い世代において恥じるなら、人の子も、父の栄光の中で聖なる御使いたちと共に来る時、その者を恥じる」。

キリストは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお聞きになられるとペトロが「あなたは、メシアです」と答えたこの出来事、このマルコ福音書は全部で16章ありますが、この8章、丁度そのマルコ福音書のど真ん中で、このペテロの信仰告白が記されるのです。その意味でも、この告白は、マルコ福音書の前半部の頂点と言っていいでしょうし、またこのペテロたちにとっても輝かしい瞬間であったと言えるでしょう。ところが、その直ぐ後、このペテロは、これ以上ないほど激しい、厳しいキリストの叱責を受けるのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。「サタン」、キリストはペテロに向かって「サタン」と言われるのです。そのとき、ペトロ ― 「あなたは、メシアです。」あなたこそキリストです、そう答えたペトロは、キリストにとってサタンであった、これは真に衝撃的なことではないでしょうか?

そもそもペテロが、そのようなお叱りを受けることになったのは、主イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(31、32節)からでした。

ペテロにしてみれば、その主イエスの仰ることは到底認めがたい、許しがたいことであったのです。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(32節)マタイ福音書では、更に「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはありません」(マタイ16章22節)、そうペトロが言ったことも記されています。「とんでもないこと」「そんなことがあってはならない」、それが彼の思いのありったけであったということ。それはペテロが、「あなたは、メシアです」イエス、あなたこそキリスト、世を救う方です、心からそう信じていたからこそ、そのお方が「殺される」ことなどあってはならないのです。ですから、この時のペテロの顔は、多分どこまでも善意の顔、正義の顔をしていたに違いありません。しかし、そのペトロにキリストは言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペテロの顔は、サタンの顔になっていた、そう言っていいでしょう。サタンの顔を思い浮かべるとしたら、みなさんはどんな顔を思い浮かべるでしょう。陰険な、恐ろしい魔物のような顔でしょうか。しかし、本当は、このペテロのような、正義感、善意に満ちた顔をしているのではないでしょうか。少なくともわたしたちには決して悪い者に思えないような・・・。だが、人間の正義感、善意が、キリストの十字架の道を妨げるのです。

勿論、正義感や善意そのものが悪いというのではありません。人間の善意がなかったら、それこそわたしたちは常に他人を疑心暗鬼の眼で見ていかなければなりません。しかし、サタンは、まさに人間の善意にこそ働く。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」ペテロの善意が、キリストを諌めるのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはありません」。傲慢と言えば、これほど傲慢な態度はないでしょう。しかし、ペテロにしてこの行動をとらせたのは、これほど傲慢な行動にかりたてたのは、「とんでもないこと、そんなことがあってはならない」、その思いであったのです。

サタンと聞くと、今時何て時代錯誤なと思われる方もあるでしょうし、わたしたち現代の人間にはサタンや悪魔はピンとこないかも知れません。しかし、そういうわたしたちもこの人間の善意の恐ろしさ、悪魔性は、誰でも実感できるのではないでしょうか。
何故、この世に争いが絶えないのでしょうか。互いに自分の善意、正しさを信じて疑わないからと言えないでしょうか。時には教会さえ分裂したりするのは、わたしたちが互いにそれぞれ善意であることを止めないからではないでしょうか。

このペテロが「サタン」と呼ばれたのは、彼が信仰告白をした直後であることを、わたしどもは忘れてはならないでしょう。「あなたは、メシアです」。あなたこそ神の子キリストです。そこに教会が生まれます。だから、マタイは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」という大変大事なキリストの言葉を記しています。

わたしたちのこの礼拝でも、この告白がなされます。この告白をもってわたしたちはキリスト者になるのです。しかし、そのようなときこそサタンが働く絶好機なのです。わたしちが自分の善意を信じて疑わない、その時、サタンは働くのです。

ところで、ここで少し脇道に逸れるかも知れませんが、そもそもクリスチャンなら誰でも、いやクリスチャンでなくても、何故、サタンがそのようにこの世にあるのか、つまり、サタンというより悪の存在、神の創造の業が良いものであったのなら、なぜこの世界に悪が存在するのか、そう思わない人はいないでしょう。「 何故、神さまがおられるのなら、悪を見逃しされているのか、何故、悪を根絶やしにされないのか」と。

それに対して、あなたはどう考え、あるいは応えるでしょうか。ある神学者はユーモアたっぷりにこう答えました「そうです。まことにあなたの仰るとおりです。神さまは実に怠慢と言えるでしょう。ですが、ではもし神さまが勤勉に悪を根絶やしにされようとされたら、さて、このわたしやあなたは、今ここにこうしておられかどうか、わたしにとってむしろ心配なのはそのことです」と。つまり、神さまがおられるのなら何故、悪が存在するのか、そのとき、わたしどもは自分は悪ではない、そう考えている、あるいは自分は神さまのようになって、外において考えているのです。まさに、このペトロがそうであったのではないでしょうか。

ですから、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、この「神のことを思わず、人間のことを思っている」、その「神のことを思う」ということとは、まことに我が身を謙る、まさに神ならぬ我が身を思う、まずそういうことからではないか。「神のことを思」わず生きているわたしに思い当たることからであると。

そして、あらためて聖書をよく読みますと、ここでイエスさまは真に不思議な、大変奇妙な仕方で叱っておられます。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。」(33節)弟子たちを見ながらペトロを叱ったと言うのです。ですから、これはペトロ一人ではなく、弟子たち全てに向かって言われたのだということです。

更にこのキリストの言葉、「サタン、引き下がれ」の「引き下がれ」ですが、元々の言葉は直訳すれば「後ろに下がれ」「背後に行け」です。つまり、退場、退却を命じていると言うよりも、サタンを後ろから従えるような言葉です。

たとえば、同じ言葉が他のところ、10章46節以下に眼が見えなかったバルトロマイの癒しのところでは、「すると彼はたちまち目が見えるようになって、イエスに従った」とありますが、この「従った」と訳されている言葉が、「背後に行った」という同じ動詞です。そこあkら「従った」という意味になるわけです。

それは十字架を負ってこのキリストに従う、誰でも自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい、という、この弟子たち、そしてわたしたちの信仰による、主に従う、一歩一歩の歩みがイエスによって示され、そしてこのペテロも含めて弟子たちみんな、つまり、わたしたちが招かれることになるわけです。しかし、この招きはまだ弟子たちには分からない。イエスの十字架のときにみんなは一斉に逃げてしまうし、ペテロはこの主を三度否定してしまう。そういう経験を通した後に、イエスの復活を見て、弟子たちの中にこの「わたしに従う」、「十字架を負ってわたしに従う」というイエスの招きが具体的に実現をする、そうしてそこに教会が始まっていくわけです。信仰告白とか、イエスの招きに従うというのは、そういう意味で言うと、ペテロや弟子たちの人間的な思いをはるかに超えて、神様の深い導き、聖霊の招き、そういうものが働いて起こってくるわけです。

だからわたしたち人間は、わたしたち自身がこのイエスに一生懸命従っていくというより、いつもこの弟子たちのように、よろめきながら、時にこうしてイエスに叱られ、嘆かせしながら、まったくよたよたとした歩み、それでもこの招きに応えようとするということがいつのまにか起こってくることです。

つまり、わたしたちもまた、「あなたはわたしを誰と思っているか」、ペテロたちと同じようにイエス様の問いをこの人生において聴く。そして、言葉にすれば「あなたは、メシアです」、その告白、わたしたちなりの答えを、この人生においてしているのです。つまり、「あなたは、メシアです」、その答えは、わたしの知恵とか理解が深まって言葉となっていく、というのではなくて、振り返れば神の招きがあり、神の恵みがあり、導きがあって、「あなたは、メシアです」というわたしの答えは、わたしがこの地上で生き続けている限り、深められ、導かれ、養われていく。キリストをキリストとして、わたしの救い主として言い表す、告白する、そのようなわたしたちの信仰の歩みが、この方に従う内に続けられていくのです。いつか、自分の人生を振り返ったとき、「あなたは、メシアです」、わたしの一生はこの告白、このことに尽きるのだ、きっとそう思える、そういう招きの中に、わたしたち一人ひとりは既にあるのです。