2009年10月4日 聖霊降臨後第17主日 「自分自身の内に塩を持て」

マルコ 9章38-50節
大和 淳 師

ヨハネがイエスに言った、「先生、あなたの名の中で悪鬼を追い出している者を見ましたが、わたしたちについて来ないので、禁じました」。
しかし、イエスは言われた、「禁じてはいけない.わたしの名の中で力あるわざを行なったすぐ後で、わたしを悪く言うことのできる者はいないからである。
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である。
だれでも、あなたがたがキリストのものであると名乗っているゆえに、あなたがたに水一杯を飲ませてくれる者は、まことに、わたしはあなたがたに言うが、決して自分の褒賞を失うことはない。
だれでも、わたしの中へと信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石うすを首にくくられて、海の中に投げ込まれるほうがましである。
もし、あなたの片手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい.両手を持ったままゲヘナに、消えない火の中に行くよりは、片手で命に入るほうがよい。

もし、あなたの片足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい.両足を持ったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片足で命に入るほうがよい。

もし、あなたの片目があなたをつまずかせるなら、それを捨てなさい.両目を持ったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片目で神の王国に入るほうがよい.
そこでは、うじは死なず、火は消えない。
なぜなら、人はみな火で塩味をつけられなければならないからである。
塩は良いものである.しかし、もし塩が塩味を失ったなら、何によって塩味を取り戻すのだろうか? 自分自身の内に塩を持ちなさい.そして互いに平和でありなさい」。

子供の頃、わたしの家の裏は田んぼが広がっていた田舎なのですが、田んぼにあぜ道があります。あぜ道ですから狭い。それで、その狭いあぜ道を自転車でよく走ったのですが、あるとき、田植え前の泥の水たまりのような田んぼの中に転げ落ちるんじゃないか、そう思ったとたん、急に怖くなって、真っ直ぐ走らなければ、走らなければとバランスを取ろうと思えば思うほど、腕が緊張してふらふらしてしまう。そして遂にバランスを失って道をはずして泥の田の中に落ちてしまったことがありました。それと同じように、わたしたちの中には、こうなってはいけない、こうしなくては、そう思えば思うほど思うに任せなくなる、そういうことがあるのではないでしょうか。

さて、今日の福音書、弟子のひとり、ヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、そうイエスに言ったことから、それに対する主イエスの言葉が記されていくのですが、ともかく発端となったのは、イエスの名でした。とは言え、そもそもヨハネは何でそのようなことをここで主に報告したのでしょうか。今日の箇所の直ぐ前、34節で、弟子たちが「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」ことが記されていますが、要するに弟子たちの内部、内輪の間で争いがあった。そして、今日の38節以下では、今度はその弟子たちと外部、彼ら以外の者との争いがあったことを福音書は記しています。すなわち、「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」という言葉がそのことを示しています。ところでヨハネは、「主よ、イエス様、あなたに従わないので、あなたを信じないのでやめさせようとしました」とは言わず、「わたしたちに従わないので」と言うのです。そこには自分たちは既にイエスに従っているんだという優越感、あるいは独善的・排他的な意識が働いていると言えるでしょう。

そして、このヨハネの報告から、弟子たちがその人に「勝手にイエスの名を使ってはならん。使うなら、我々に従え」と高飛車に言ったであろう、そんなやり取りが目に浮かびます。ともかく彼はいきり立って、憤懣やり方ないでいたのでしょう。しかし、このヨハネ、弟子たちは気づいていないのです。「俺たちに従え」と言っている、自分に従わないと憤っている、それは「イエス」の名を自分たちだけが使っていい、権利をもっているかのように、まるで「イエス」が自分のものであるかのようにしていることであることを・・・。

それ故、主は「やめさせてはならない」とおっしゃるのです。その人をやめさせるな、と。主イエスの名を使うままにさせておけ、と。そして、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。つまり主人、主なのは「わたしの名」であって、あなたがたではないのだ、と。主イエスは、ちょうど「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」弟子たちを叱責することなく、子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」、そのように諭されたのと同じようそこにおられます。

しかし、それにも関わらず尚「わたしたちに従わない」と尚自分たちの優越性、排他性を捨てきれない、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という主イエスの言葉を理解しないこの弟子たち、そこには、わたしたちは従ってきた、そんな思いがあるのではないでしょうか。たとえ100パーセントとは言わなくとも自分の意志、自分の力でここまで従ってきたのだという思いがあります。そのように自分たちは従ってきた、。自分たちにはまことの神、メシアを見る眼がある、だが、あの主の名を勝手に使っていたあいつにはない、と。

他人事ではありません。わたしどももまたひたむきであればあるほど、いわばそのようなひたむきさは自分が育成したかのように、少なくとも、自分だけに真実、真理がある火のように思い込んでいくのです。熱心であればあるだけ、真剣であればあるほど、このヨハネのように優越感、独善性をもっていくのです。そして、思い通りにならないときに、その思い通りにならない自分とは反対の者に憤るのです。自分を振り返るとまことに恥ずかしいことですが、それはまたこのわたしな自身なのです。自分たちの間で争い、そして今度は自分たち以外の者と争うこの弟子たちそのままです。福音書は、このヨハネの「わたしたちに従わない」の「わたしたち」を強調している、それは先ほどまで自分たちの間で言い争っていた彼らが、つまり「わたし」「わたし」と言っていた彼らは今度はいわば自分たちより下の者、少なくとも彼らにはそう見える者、よそ者に対しては「わたしたち」「我々」と結託している、そんな身勝手さを暗示しているのかも知れません。でも、それは本当にわたしたちの間でもよくあることです。

しかし、主イエスは何と柔らかく彼らを受けとめてくださっていることでしょう。それ故、ヨハネや弟子たちは「この方は従わないあんな勝手な連中に対して何て寛容なんだろう」、そう思ったかも知れません。しかし、主が寛容なのは、従わない人々に対してよりも、何より彼らに対してなのです。わたしが憤る相手に対して寛容なのではなく、ほんとど常にその憤っているわたしに対して寛容なのです。あの人を何とかしてください、とわたしたちは言うのですが、何とかしなくてはならないのはわたしたち自身なのです。しかし、何とかしようとすればするほど、この弟子たちのようにはずれてしまうわたしたちです。

インドにこんな話があるそうです。森の中に一巻きで体をバラバラにしてしまう恐ろしい巨大な蛇が住んでいた。ある日、ひとりの木こりがその蛇と出会ってしまった。木こりは逃げ出した。すると蛇は追いかけてくる。しかもどんなに逃げても蛇はずっとついてくる。ここで疲れ果てたら捕まり殺されるだろう。そこで木こりは、蛇と闘うことを決心し、刀を抜いて切りかかる。ところが、蛇は、刃を振り下ろすとひょいと反対方向に動く。またその頭めがけて振り下ろすとまた反対に素早く動く。その繰り返しでいくら切りつけても蛇には刃は届かない。そこでまた木こりは逃げ出す。しかし同じようにどんなに逃げても蛇は追いかけて来る。もうだめだ、木こりはすっかり絶望してへたり込みそうになったとき、その森に昔から住んでいた老人に出会った。そこで木こりは「どうしたらいいのでしょう。いくら逃げようと思っても逃げられない。戦おうと思っても刃は当たらない。どうしたってこの蛇にはかないません」と老人に訴えると、老人はこう答えた、「落ち着いて考えるがよい。人間はこんな蛇に勝てる訳がない。戦えば必ず負けるだろう。どんなに逃げても、蛇の方が走り続ける力が強いのだから、逃げ切れる訳がない。助かる方法はただ一つしかない」。木こりは「教えてください。どうすればいいのかを」と言うと、老人は「それは逃げるの止め、戦うの止め、蛇の傍らに身を寄せて、蛇と一緒に歩くことじゃ」と答えた。そういう話です。

イエスの懐に抱かれた子供のように生きる、それはまさにこのお話のようなことではないでしょうか。今日の日課の最後、50節で主イエスは「互いに平和に過ごしなさい」とおっしゃっています。このわざわざ「互いに平和に過ごしなさい」とおっしゃるのは、わたしが平和に過ごすことの出来ないものと平和に、ということです。つまり、蛇から逃げるの止め、戦うの止め、蛇の傍らに身を寄せて、蛇と一緒に歩くようなことではないでしょうか。それは諦めて生きることとは違います。無関心、無責任になることでもないのです。むしろ、傍らに身を寄せて、一緒に歩くその決意が生まれたとき、真に、相手に、病気や老い、あるいは問題、苦しみに立ち向かっていくことが生まれる、克服していく最後のそして唯一の道なのではないでしょうか。

まさにその突破口が、ここで「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」という最初に出てくるイエスの名です。それは37節でも「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」、「わたしの名のために・・・・受け入れる者」と言われていました。そして更に41節の「キリストの弟子だという理由で」も、原文を直訳すれば「キリストにある者の名において」となのです。そして、37節の「子供のひとり」に対応するように、ここでは「わたしを信じるこれらの小さい者のひとり」と言われています。イエスの名は、常に幼な子、小さい者に結びついているのです。子供、小さな者、それは、要するに取るに足らないと見られる、無力な者のことでしょう。
わたしたちキリスト者は、この方の名によっていつも祈ります。「主イエス・キリストに御名によって」と祈ります。それはこの主の御名は、わたしたち自身を小さき者、あの子供ような者とし、いわば無力になって病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていかせる力なのだ、そういうことではないでしょうか。

何より、この「主イエス・キリストに御名によって」とは、わたしは、私はその懐に抱かれた子供のように、このイエスと、したがって神とひとつだということなのです。それ故、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)と言われるのです。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と、「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」と。しかし、これらは逆に言えば、「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあず」かれ、「片足になっても命にあずか」れ、「一つの目になっても神の国に入」れ、ということです。「片手になっても」わたしと共にだけいよ、「片足になっても」わたしのふところにあれ、「一つの目になっても」わたしから幼子のように離れるな、ということです。病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていけ!、それは主の御名によって生きることなのです。離れないことです。

しかし、それではただ不安と苦しみだけがあるのでしょうか。わたしたちの眼には、あの傍らにいる、一緒に歩いている蛇、それがいつ襲ってくるか、そう思ったら耐えられないような不安に襲われるでしょう。バランスを取ろうとハンドルに力を入れれば入れるほど、自転車は真っ直ぐに走れなくなるでしょう。しかし、ここでそのように厳しい言葉をお語りなっている主イエスは、あの子供を真ん中に置き、そしてそれから腕に抱いた主イエス、そうして「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」、そう言われ給う主なのだ、その懐に抱かれた子供とは、まさしくわたしたち自身、それがあなたなのだ、そのイエスに抱かれているわたしたちである、導かれているわたしたちなのだ、そのイエスの懐に抱かれた子供のように、これらの主の言葉を聴きなさい、と言うことです。
それゆえ、主は最後にこうおっしゃることも理解できるのではないでしょうか。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。

「自分自身の内に塩を持て」。塩は、塩のままでは塩の役目はしません。また利きすぎても味を駄目にするでしょう。いずれにせよ、塩はわたしにとって全く別の味、なめれば辛い、異質なものです。しかし「自分自身の内に塩を持て」、あなたの内に、わたしとは異質なお方、キリストをもつ、言い換えれば主に抱かれて生きる、それが「自分自身の内に塩を持つ」ことです。人生の味が変わるのです。自分の力で病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていくのではないのです。

主は、43節からのあの厳しい言葉の最後、その締め括りとして、だから自分で片手を、片目を切り取れ、眼を抉り取れ、そう言われるのではないのです。そうではなく、「自分自身の内に塩を持て」、あなたの味を変える「塩」があなたにあるではないか、ただ苦しいだけに思える、それ故逃げ出したり、打ち勝たなくてはならない、ただそう思っていたものを喜びに変える塩があなたにはあるではないか、と。それがいと小さき者の名、主イエスの御名なのです。だから、一人でがんばらなくてもいい、無理に無理を重ねていかなくてもいい、負いきれなくなったなら、祈れ、わたしの名によって!

あえて言えばどんな祈りをささげてもいいのです。こんなことを祈ってはいけない、そんなことは何一つないのです。詩篇の中には、敵、つまりあんな奴は滅ぼしてくださいという祈りさえあるのです。でも、わたしたちは主イエス・キリストの御名によって祈る。最後に祈る。それはどんな祈りでも、わたしを小さくする祈り、神さまの懐に抱かれて祈りを終えるのです。