2009年10月11日 聖霊降臨後第18主日

マルコ 10章1-16節
大和 淳 師

イエスはそこから立ち上がって、ユダヤの地方とヨルダンの向こうに行かれた.再び群衆が彼の所に集まって来たので、彼はまたいつものように、彼らを教えられた。
すると、何人かのパリサイ人がイエスの所に来て、人は妻を離縁してもよいかと質問し、彼を試みようとした。
イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたに何と命じたか?」
彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」。
イエスは彼らに言われた、「彼は、あなたがたの心がかたくななので、この戒めをあなたがたのために書いたのである。
しかし、創造の初めから、神は人を男と女に造られた。
このゆえに、人はその父母を離れて、その妻に結び合わされる.
こうして二人は一体となる。それだから、彼らはもはや二人ではなく、一体である。
こういうわけで、神がくびきを共にさせたものを、人は引き離してはならない」。
家に入ってから、弟子たちはこのことについて、再び彼に尋ねた。
イエスは言われた、「だれでも自分の妻を離縁して、他の者をめとる者は、彼女に対して姦淫を犯すのである。
またもし彼女が、自分の夫を離縁して、他の者に嫁ぐなら、姦淫を犯すのである」。
さて、人々はイエスの所に小さい子供たちを連れて来て、彼に触っていただこうとした.ところが、弟子たちは彼らをしかった。
しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。
イエスは彼らを腕に抱き、手を置いて、熱く祝福された。

今日は、順序が逆になりますが、最初に13節以降からまずみ言葉を聴きたいと思います。そこで主イエスはこう言われます、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10章14-15節)

わたしどもは今日、この主イエスの言葉を、まずわたしたち自身に語られているみ言葉として聴き取りたいと思うのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」 ― これは他ならないわたしに語られている言葉であり、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 ― そのようにわたしたち一人ひとり招かれているのです。

しかしながら、わたしどもはここで戸惑いながら、こう問うかも知れません。ここでの「子供のように神の国を受け入れる」とはどういうことだろうか?子どものような純真無垢な心で、ということなのだろうか?と。おおよそそのような意味で、「子供のように」と言われるのなら、それはむしろ、わたしどもにとっては真に戸惑い、絶望しなければならならない言葉なのではないか、と。

わたしたちがそのように考えるのは、しかし、明らかに誤解があるのです。何故なら、そもそも聖書は、決して子どもを純真無垢な存在そのものと見てはいないからです。子どもは天使ではないのです。その意味で言えば、子どもと言えども、大人の人間と同じ神の憐れみがなければ、神から遠く離れた人間、言い換えれば助けが必要な存在なのです。

そもそも発端は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」(マルコ10章13節)ことに始まります。「イエスに触れていただくため」とは、祝福を受けるため、当時の名高いラビ、教師に触ってもらうことは、その人の徳、祝福にあずかる、そう信じていたからです。しかし、わたしたちは、ここで「人々が子供たちを連れて来た」、何よりそう記されていることに心を留めたいのです。ここでの子どもは、自分からイエスのもとに来たのではないのです。人々、親の手に引かれて来たのです。フランソア・モーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言っていますが、まさしくそのような子どもなのです。ここで言う子どもとは、その手を取ってくれる人が必要な存在なのです。その手をとってどこまでも共に歩いてくれる同伴者なしには生きられないのです。「神の国はこのような者たちのものである」と言い、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われ給う、その子どもとは、そのように手を差し出すこと、「子どもであるということは、手を差し出す」存在なのです。しかし、それは、わたしたち大人となった者もまた、手を差し出す存在、この手を握り、抱き留め共に歩いてもらわなくてはならない者であるのではないでしょうか。悲しみ、痛みの中でわたしどもの手を、わたしどもの差し出す手をしっかりと常に握ってくださる方が必要なのです。

先のモーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言うのです。決して、「子どもとは」、そういう者だという風に言っているのではないのです。「子どもであるということ」なのです。「子どもとなるということ」と言ってもいいでしょう。言い換えれば、わたしどもが信頼する者に向かって手を差し出すとき、わたしたちもまた「子どもであるということ」なのです。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そうです、それがまたあるがままのここでのわたしたちなのです。決して純真無垢ではなくても、そうであるからこそ「子どもであるということは、手を差し出すこと」、共に生きる人を求めて、受け止めてくださる方を求めて手を差し出す、主イエスに手を差し出すのです。しかし、それはよく言われる苦しい時の神頼み、そのような安易な、単なる気休めのようなことではありません。わたしたちの生きる力そのものなのです。

その上で最初の出来事での主イエスのお言葉、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」、この主イエスの言葉を考えましょう。まず、このイエスの答えの第一の意図は、単なる「離婚」の是非の問題などではなく、イエスがここではっきりと否定しているのは、夫による「離縁」の問題、夫、つまり男による横暴、身勝手な論理です。それ故、「神が合わせたものを、人は離してはならない」とは、まず「被造物である男が勝手に離してはならない」と言っておられのです。

しかし何より大事なのはここで主イエスは「神がつなぎ合わせたものを、人が分離してはならない」(9節)、明確にそうお答えになっていることです。この「神がつなぎ合わせた」という「つなぎ合わせる」という言葉は、もともとは「くびきにつなぐ」という意味の言葉です。くびきというのは、本来畑を耕すために牛やロバなどの二頭の家畜の首と首をつなぐ道具のことですが、実はこの「くびきにつなぐ」、共に「くびきを負う」ということは、実は単に夫婦観、結婚観だけに限って言われるべきことと言うより、実は人間の存在の在り方そのものに関わっていくことです。わたしたちは、「くびきにつなぐ」「くびきを負う」と聞いただけで、何か束縛され、自由のない生活だけを思い浮かべてしまう、だからわたしたちにとって自由とは、このくびきのようなものをなくすことにある、そんな風に思っているわけです。しかし自由とは、むしろ、わたしの人生のくびきを喜んで負えることにある。つまり、人間は、たとえ王さまであろうと奴隷であろうと、男であれ女であれ、老人であれ若者であれ、大人であれ子供であれ、結婚していようとしまいと、この地上に生まれた限りどんな人でもくびきを負うているのだと言っていい。つまり、くびきを負うとは、先の「子どもであるということは、手を差し出すこと」、そのような者として生きることです。

また「くびきを負う」こと、それは同時に、その人その人なりに生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、ということです。わたしたち一人ひとりには能力の違いもある、あるいは身体的、また環境などの条件の違いが当然あるでしょう。しかし、根本のところでは、それらのわたしの能力や条件に一切よらない、いわばその人がその人である、たとえどんな悪人であったとしても、あるいはどんな障害、ハンディを負っていようと、その人なりに、その人にしかない生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、それが人間なんだということ。

でもわたしたちはしばしばそのことを見失います。一体何のために自分は生きているんだろう、何で私はこんなことをしなくてはならないんだろう、あるいは一体何で私だけがこんなことをしなくてはならないのか、こんな目に遭うんだろう、そう思うことの方が多いのです。そのとき、わたしどもはいわばひとりでくびきを負っている。あるいは自分のためだけを考えて負っている。それが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と主が言われ給うことです。しかし、くびきとは誰か自分以外のものと共に負うものです。「手を差し出すこと」です。

自分ひとりでそれを負うならば、それはただ重荷に過ぎないものになる。しかし、くびきとは最初に申し上げたように、自分以外の者とつなぐもの、つながるものです。「手を差し出すこと」です。誰かが共に負ってくれるから負える、軽くなる。つながっているからこそ、わたしはわたしでいられる。そして、わたしのためにくびきを負うてくれる人がいる、それ故、わたしはわたしでいられるのです。だから、そのくびきを重荷とし、苦しみとするもの、それは「くびき」重荷そのものではなく人間の「心の頑なさ」なのです。そして、「心の頑なさ」とは、固さと同時に脆さという意味ももっている言葉です。

もうお気づきのことと思います。これらの言葉の背後におられるのは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28以下)、そのように招いてくださる、共に負ってくださる主イエス・キリストなのです。四国のお遍路さんは、巡礼を同行二人と呼ぶそうですが、まさしくそのようにわたしと一体となり、すなわち「くびきにつなぎ合わさり」、一緒に歩いてくださる方、それが主イエスなのです。そうしてこれらの離縁問答に続いて、イエスが子供を祝福した話につながっていくのです。

ところでみなさんの中には旅行、旅はお好きなお方も多いでしょう。旅行は楽しいものです。しかし、そもそも旅をあらわす英語のトラベル、あるいはフランス語のトラヴァーユの語源は、実は苦しい目に遭う、骨を折る、と言う意味のラテン語から来ているのです。それは、昔、教会に対して何か罪を犯した者を、そこから遠いところにある教会に行かせ、そこで礼拝して改心させる、そう言う苦行、回心の旅から来ているのだそうです。文無しで行かなければならないので、それこそ苦労の連続であったでしょう。でも、本当に困ったときに、宿を貸し、食べ物を分けてくれる人に出会う。そうしたことが改心につながったのでしょう。人生もまさに旅、トラベル、トラヴァーユです。主イエス、このお方に出会い、手を差し出し、このお方とと共に歩む旅なのです。

「子どもであるということは、手を差し出すこと」、人は誰も「手を差し出す」者となる、どうすることもできない苦しみの中で泣きながら悲しみの中で、痛みの中で手を差し出していいのです。そこでこそ喜んで神の愛、この主イエスの懐の中に身を任せること、そこに立ち上がっていく力があるのです。