ルカによる福音書 24章36-43節
安藤政泰 師
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。
どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、 「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
「良い木は良い実を結ぶ」と言う聖書の言葉があります。マタイの7:17ですが。
自分は良い木でありたいと願うのは誰でもおなじです。または自分は良い木である信じられれば、それほど幸いなことはないかもしれません。私達の心には、良い事をしていれば、よい結果がある、と言う価値観があります。しかし、本当にこの世の中でそうでしょうか。私達は良い木になれるのでしょうか。
同じように人を善人と悪人と分けた場合自分は善人の方に入ると信じたい。
しかし、自分は本当に善人なのでしょうか。よくよく自分を見詰めて、自分は善人と言い切れる人が何人いるでしょうか。嘘をいわない、人の悪口を言わない、人を軽蔑しない、人の幸を妬ましく思わない、そのような人が、この世の中に居るでしょうか。自分の行い、考え言っている事をもし、全部VTRに取って見るとしたら、それを見る事に私達は堪えられるでしょうか。
今日は主の復活について考えたい。
主の蘇りと昇天については、理解するのがなかなか難しいと申し上げました。
主の受難はどちらかと言えば、理解しやすいが、主の復活とその後の昇天はなかなか理解出来しくのです。
これは、当時の弟子たちにしても同じであったわけです。
37節に弟子たちは霊をみている、と思っていたと記されています。
一人の男の人が無実でありながら、死刑になった。今でいえば、再審裁判を要求するところでしょう。 その男の人が復活した。これは新聞記事TVのニュースになるようなセンセーショナルな事件です。そのようなセンセーショナルな事件を現実のものとして信られるでしょうか。
主イエスの蘇りを信じるかどうかは、大切なことですし、この主の蘇りが信じられなければ、信仰に入ることも出来ません。しかしどのように私達は信じているのでしょうか。その実体はどうなのでしょうか。確かに信じているのです。しかしそれだけで良いのでしょうか。
「生きている言葉」と言う表現があります。これは言葉そのものが人間に行動を起こさせるような、そのような言葉の事です。聞いているが、柳に風と受け流してしまう、そのような言葉はその人達に取って生きている言葉とは言えません。
主イエスの蘇りが、この私にとってどのような意味があるか、を問う事が求められています。しかし、その前に、主はあなたの為だけにも十字架に懸かりたもう、と言う事を信じる事から考えはじめると、主の蘇りが自分にどのようにかかわるかを見る事が出来るのではないでしょうか。
自分に一番大切な事は何でしょうか。
そのために自分は何をしているのでしょうか。
始めに「良い木」の話をいたしました。 良い木になれる人間はいないのです。
聖書で言っている良い木とは主イエス・キリストの事です。
その良い木が結んだ良い実に預かる、これが私達です。その良い木が、本当に言われていた通りの良い木であった事は、主の復活が証明しているのです。
この主の復活に預かるのは、生きている者だけでなく、すでにみもとにある者も共に預かるのです。しかも、この良い木であるキリストのみ言葉を日々の糧
とする時に、私達は主の復活にあずかる栄光も受ける事ができるのです。
主は生きている者の主です。だから、先に召された者の主でもあるのです。
先に召された者がこの世での生命に生きた時、主は彼らの主でもあったのです。
主は時間を越えて、「良い木」として私達に働いておられます。
主よあなたの与えられる恵が時間を越えて働かれる事を感謝致します。