2010年4月25日 復活節第3主日 「神殿回廊にて・・・」

ヨハネによる福音書10章22-30節
五十嵐 誠 師

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」 ◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

(説教要旨)

冒頭に「神殿奉献記念祭」がありますが、それはエルサレムでは、毎年12月、冬の季節にありました。これは紀元前168年にシリヤの王によって汚された神殿を紀元前165年にユダ・マッカバイオスが問い返し、再びきよめて奉献したことを記念する行事です。(Ⅰマカベア4:59),新約聖書では「宮きよめの祭り」(ヨハネ10:22‐23)がこれに当ります。

その神殿の回廊でイエスはユダヤ人と問答をしました。ソロモンの回廊というもので、500メーターくらいの長い廊でした。回廊を歩いていたイエスを捕まえてユダヤ人達は、イエスの正体を問いただしています。「あなたは私たちが待望しているメシアであるかそうでないのか」と。私たちに余り気をもませないでほしいと迫りました。イエスのことは人々の口にのぼっていました。イエスはメシアだという意見とそうではないというかたがありました。

イエスは簡潔明瞭に答えています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。イエスは今日の福音書少し前で「私はよい羊飼いである」という話をしていますが、それに対しても「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。で、イエスはご自分が目の前で行っている業・行いを見なさいと言います。そうすれば分かると。言葉が信じられないなら、行為・業を見よです。そうすれば、イエスが神から来た方と知るはずだと。しかし、それもユダヤ人は信じませんでした。イエスは陰に陽に自分が何者かを語ったいますが、ユダヤ人やファリサイ派は信じなかった。

ユダヤ人全てがイエスを拒否したわけではありません。メシアを待望してイエスに出会って喜ん人もいました。こんな人がいました。シメオンですが、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:25以下)

イエスに会っから死んでもいいとさえ言っているのです。驚くべき言葉です。普通は立派な働きをし、財産を築き、子孫を残して、天寿を全うして死を迎えたいが、願いだろうと思います。とにかく死ぬ前にイエスに出会うことが願いでした。凄いと思う。

ユダヤ人がパレスチナに国家を作らない前、一つの願いがありました。死ぬ前にエルサレムに行き、そこで死にたいでした。老人は死ぬためにエルサレムに来たのでした。1948年パレスチナにイスラエル国家が出来たときに、世界各国からユダヤ人がエルサレム目指して帰ってきました。飛行機で空輸されたので、「空飛ぶじゅうたん作戦」と言われました。ある日、年老いた病気の老人が少年に負ぶわれて飛行機から降りて来ました。老人は背中から降ろされました。老人は地にひざまずき、大地に接吻して、死にました。エルサレムで死にたいが願い・信仰でした。それが実現しています。

論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言うのがありますが、信仰とはそういうものとも思います。人間の生き方やあり方を知ることは、それほど重大なのだと言うことです。

今日私たちは聖書の中でイエスに出会います。どこでイエスの言葉を行いを見るかと言えば聖書です。聖書はイエスに出会い、共に歩き、イエスの話に耳を傾け、イエスの行いの全てを目で見た弟子たちの言葉です。それは証言です。信じるに値する言葉です。作り話・フィクションではなく、真実の・ノンフィクションです。聖書というか、弟子たちが私たちに語っているのは、生けるイエス・キリストに出会ました、そのイエスはあなたに力を与えますよ、そのイエスに信頼して生きていきなさい、これが、聖書の言うところです。ですから 、余り知らなくても、「イエスさま、私は余り知りませんが、でも、あなたを信じて生きて行きます」という一言が大事なのです。

生けるイエスに出会い、力をうけて、新しい出発が始まります。そこからなにが起こるかと言えば、それは不可能が可能になるということです。神、イエス・キリストが生きているから、不可能と思われることが可能になるという生き方が生まれてきます。信じるものには、全てのことが出来るという信仰が起こって来ます。だから、信仰者は強いのです。そういう生き方を聖書は約束しています。

イエスは羊でさえ羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分け、ついていくのに、あなた方、ユダヤ人は真の羊飼いであるイエスを知らず、従って来ないと非難しています。が一方、イエスはイエスとイエスを信じる者との信頼の堅いきずなで結ばれていることを強調しています。イエスは「わたしと父とは一つである」(30)と言っています。これはユダヤ人に取っては神を汚す言葉でした。イエスは神だということだからです。ユダヤ人には神は唯一だからです。だから、ユダヤ人は石を投げようとしたのです。(10:31節)。

しかし、イエスが神と等しい方だからこそ、私たちは信頼出来るのです。神の救いの目的のためにイエスは送られて来たイエスです。従って、だれもイエスの働きを、力を妨げられないのです。イエスと結ばれている者は神の大きな笠の下に、腕の中にあるのです。私の好きな聖句に「My times in His hand」というのがります。(詩編32:15・口語訳) 「私の全ては神のみ手に中に」です。
イエスは人生は悲しいとか空しいものだとかあきらめを説きませんでした。イエスはいつでも希望を、歓喜を、光明を説きました。だから、イエスはよく、天国を宴会に譬えました。一杯ご馳走のある、豊かな振る舞いです。(ルカ14:15以下、15:22以下)

現在もいろんな声が聞こえて来ます。大きな声も、小さな声もあります。耳障りのいい声も、欲望をそそるような声もあります。しかし、私たちは聖書からイエスの声を聞く者でありたいと思います。イエスの声に従った人はクリスチャンです。クリスチャンとはなにかと言えば、ただ座って天を見上げている人ではありません。ある先生が言われたように、クリスチャンとはキリストと共に冒険・アドベンチャーの旅に歩む人に与えられた名称なのです。ですから、クリスチャンとは、古い生活から抜け出して、身支度をして旅を歩む者となることです。私たちがクリスチャンになるとは、神の国に向かって歩く冒険の旅に加わるように選ばれることを意味しています。この冒険の旅に加わることによって、私たちは恐れから解放されます」ということです。この旅に加わり、喜びと確信の日々を過ごしたいと思います。