2010年6月13日 聖霊降臨後第3主日 「信仰と信頼・・・」

説教: 五十嵐 誠牧師

◆百人隊長の僕をいやす

7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。

7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。

7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと永安が あるように  アーメン

 

今日はイエスの奇跡・・癒しの奇跡を学びます。主要登場人物はイエスと百人隊長です。 「百人隊長」とはですが、当時のパレスチナがローマの支配下にあったことを示す用語です。百人隊長ちは、 その名が示すように、これはローマの軍隊の歩兵100人の指揮官・将校を指します。その隊長の重要な部下が死に瀕していました。(マタイでは中風で寝込んでいて苦しんでいたとあります)。そこから、この出来事が始まります。この隊長・将校はユダヤ教の求道者・信者になる準備をしていたようです。ユダヤ教の長老・指導者がこう言っています。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。(マタイでは隊長自身がイエスのところに来ています)。「わたしたちユダヤ人を愛して」とは・・ユダヤ人は異邦人とは付き合わないからです。

この熱心な願いを聞いてイエスは共に出かけています。その途中に隊長の部下が来てイエスに伝言を伝えます。その言葉は一寸、普通とは違っていました。早く来てくださいではなくて、ただ、「お言葉」をくださいでした。友人を通して「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」でした。彼は真に権威ある方は、その言葉で、すべてを可能にすると信じた。新約聖書・ヘブル人への手紙には、こんな言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮する」と。(4:12)。神の言葉には絶対的な力があるのです。旧約聖書で預言者イザヤは神の言葉について書いています。「そのように、わたし(神)の口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。(イザヤ55:11)。

この隊長はそういう聖書の言葉を聞いたいたと思います。

隊長は軍隊の経験から話をしています。軍隊というのは「絶対服従」です。日本でもありました。アメリカと戦った東条英機という方が「戦陣訓」を1941年に軍の大臣の名で全陸軍に下された、戦時下における将兵の心得があります。上官への服従や捕虜の恥辱などありました。軍隊では上官が「白といえば、たとえ黒くても白である」です。「上官の命令は天皇の命令だ」でした。隊長の彼は同じようなことを述べていました。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。です。

彼・隊長はイエスが直接来て触るとか声を掛けるとかしなくても、言葉を・・その場で頂ければ治ると信じたのです。マタイによると「そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあるとおりです。「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」のです。おそらく、隊長はあとでそれを聞いて、イエスの言葉の力を知ったと思います。

イエスは隊長のことばを聞いて「従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。マタイでは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。当時の多くのユダヤ人の信仰はそうでなかったことが浮かび上がります。異邦人の隊長の真実な信仰が目立っています。

イエスから癒しの約束の言葉さえ頂ければ、その言葉には力と権威があり、遠く離れていようとも、自分の僕・部下はすぐに直ると信じたのです。似たような話があります。ヨハネの福音書が書いています。カファルナウム(カペナウム)の役人の子供が死にかかっていて、イエスに助けを求めた。死なないうちに来てくださいと懇願した。すると「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。・・・僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた」。

今の時代は言葉が軽んじられ、力がありません。言葉は信じられない・・特に政治家はです。最近は鳩山総理の沖縄の基地問題で経験しました。朝日新聞がCMで「言葉は力・・言葉は・・」とか言って、言葉の強さを述べていました。ペンクラブの「ペンは剣より寄り強い」というのがあります。しかし、この世的には剣が強いようです。

しかし、神の言葉、イエスの言葉は先に言ったように力があります。旧約聖書の創世記で、神の言葉が「・・・であれ」というと創造されました。「光あれ。こうして、光があった」ようにです。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」です。

*ペンクラブ【国際―】世界各国の詩人・劇作家・編集者・評論家・小説家などの文筆従事者の友好と親睦を通じて国際間の理解を深めようとする団体。

信仰にとって、神の言葉を信じ、従うことは重要です。もしそうでなければ、私たちは疑いの中に沈没します。私たちが今まで、何十年と信仰を持続出来たのは、神を信じて来たからです。しかし、私たちは中で、ずーと変わらないで来たわけではありません。それは、一旦信じたのに、そこから漏れる人が・・仲間がいるのも否定できません。わたしはどうしたら、神を信じて・・いろんなことがあっても、歩めるか・・を考えたことあります。皆さんはどうですか。皆さんはいままで信仰の道を歩んできましたが、何が支えでしたしょうかか。わたしは牧師ですから、自分の信仰を支えたのは・・特に「聖餐」でした。キリストの体とその血の聖餐式というのは、弱いときわたしを助ける神の言葉でした。洗礼と聖餐は眼に見える神の言葉なのです。共に「あなたは私の者」だという神の言葉です。それを聞きます。また、私は神の恵みによって養われていると言うことを知るのです。

ある方がこう言いました。イエスの十字架を仰ぐことだと。「十字架を仰いだものは、誰も神の愛を疑いません」と。十字架は神の愛を確信させるからです。英国の詩人のR. .ブラウニング・Robert Browning(イギリス、ヴィクトリア朝の抒情詩人。劇的独白の形式で性格解剖や心理描写を試みた・1812~18)はこんな詩を残しています。

神よ、あなたは愛です。  わたしの信仰をその上に築きます。
あなたがわたしの道を守られたのを知っています。
あなたは暗闇の中でわたしの光りとなり、悲しみを和らげ、
あなたの愛はわたしに厳粛な喜びとして訪れます。
だから、わたしはあなたの愛を疑いません。
パウロはローマ信徒への手紙の中で、こう書いています。8:32です。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。

私たちは有限なものです。神は無限な方ですから、神を完全に、充分に理解することは決して出来ません。ですから、数学的な、幾何学的に説明出来るような神は神ではないのです。G,K、チェスタートン・Gilbert Keith Chesterton・イギリスの作家・批評家。カトリックの伝統主義の立場に立ち、逆説趣味を駆使した知的で諷刺的な作風を示す。探偵小説「木曜日の男」「ブラウン神父の童心」が有名。(1874~1936)。わたしは彼の探偵小説は殆ど読みました。彼はこう書いていました。「天国を自分の頭の中に閉じこめようとする者は愚かであり、そんなことをすれば、自分の頭が爆発しても不思議ではない。賢い者は、その頭を天国の中に入れるだけで満足する」。パウロという弟子は神についてこう言っています。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。(ローマの信徒への手紙11:33)。3世紀の教父・学者のテルトリァスは言いました。「わたしが理解できるものを、どうして賛美出来るか」と。そして、「不合理で〈あるゆえに〉、われ信じる」とも言いました。そう思います。

ウェルズ・Herbert George Wells・イギリスの作家・評論家。大衆の啓蒙・教化のために「タイム‐マシン」や「世界史概観」などを著す。また、原子爆弾を予想し、SFの祖ともいえる。(1866~1946)は書いています。「わたしの耳には、神の声よりは隣人の声の方が大きく響くものである」と。イエスの弟子とは世間の人がいっていることに注意を払わなくなった人間のことである。弟子とは神の言われたことしか考えられないからである。

「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とイエスは隊長を賞賛していますが、私たちはそんな誉めことばを頂くほどの信仰はないと考えます。良くお祈りで「信仰を強めてください」とか「増してください」と祈ります。弟子たちでさえ願っていました。ルカ17:5「わたしどもの信仰を増してください」と。それに対してイエスは答えています。有名なからし種程の信仰です。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。同じようにマタイ17:20では「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。山が動くです。「山が動く」とは、随分前に、野党が政権を取った歴史的勝利の選挙で、元社会党党首の土井たか子さんが言いました。*からし種は聖書では「一番小さい」ことを言います。

信仰を増したいとはよく分かります。自分もかってそうでした。信仰の大小が問題でした。信仰の力はその大小にあると考えるのです。ですから、大きくしたいと考えます。考えなくてはならないのは、信仰の力は信仰そのものにあるのではないことです。信仰の力とはキリストの弟子が・・クリスチャンがその信じている神の力に信頼することなのです。なぜなら、神には出来ないことがないからです。ここが大事なのです。

ギリシャ語で信仰はピステス(hJ pivsti”)です。普通は信仰と訳されますが、広義には(広い意味では)「信頼」(trust)を意味します。ですから、わたしは、ここではイエスに対する「信頼」と思います。イエスは隊長の「信頼」に応えて、部下の病を癒されたのです。

イエスは信仰の大小やなにかでうろうろする私たちに、「からし種一つほど」の信仰・すなわち、「信頼」を言うことによって、力づけているのです。あなた方は「神の力」に信頼しなさいと言われているのです。その例はあります。それはルカも書いています。8:40-56の中の十二年間も病にかかり、財産も使い果たした女の人がイエスの背後から、その服の房(束ねた糸・毛糸などの先を散らして垂らしたもの)に触れると、直ちに病が

治った出来事です。イエスは 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」 と語やさしくりかけています。これも「信仰」は「信頼」です。イエスは「娘よ」と呼びかけましたが、この場合はこの女に対する親愛の情を示しますが、同時に、苦しみからの解放を求め、必死になってイエスに取りすがり、その後ろからその服に触れようとする、この女の人のけなげなまでの「信頼」も含まれた「娘よ」です。イエスの心が分かります。

私たちも自分の信仰について、動揺することがあるでしょう。こんな信仰ではといって悩むこともあるでしょう、。しかし、イエスは言われます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・」と。それは「もし、からし種一粒ほどの信頼があれば・・」というイエスの言葉なのです。その「信頼」に対して・・「からし種一つほどの信頼」に対してイエスは答えられるのです。「良く分かった。安心しなさい。信頼しなさい」と。そう信頼して生きたいと思います。

アーメン