2010年7月4日 聖霊降臨後第6主日 「あなたがたは私をだれと言うか」

ルカによる福音書9章18-26節

説教:安藤 政泰 牧師

日本人として聖書を読むときに、どうしても仏教的は背景や、影響を受けて読むということがあります。それは日本に内在している仏教の影響とでもいうことができます。 ちなみに、欧米語にはキリスト教的な背景があります。

私たちは、日本語の中に含まれている、仏教的な意味合いを否定して、聖書を読んでも、それはほんとうに自分の身になるのかと、思うこともあります。

そうではなく、自分の信仰を外国語を借りて考えるのではなく、日本語の中で、自分の信仰を考えることをしてみるべきでしょう。そのことにチャレンジした私たちの先輩の牧師、神父、芸術家も多くおられます。

さて、仏教には因果の法則といわれる考え方があります。一般的には、善い行いをすれば、良い結果が得られる、良い報酬を期待できる。悪い行いをすれが、悪い結果が与えられ、悪い報いがある。と考えられています。しかし、これは「因果応報」の考え方です。因果の法則は、善因善果 悪因悪果と言われています。良い行いをして、良い報いを期待するのではなく、良いことが出来る喜びを感じる。それにより、自分が喜びに満たされる。悪い行いをしたろきには、自分自身をみて、悪い行いをする自分を悲しむ。それは 原因と結果が同じである、というこだそうです。

さて今日の日課は、「あなたがたは私をだれと言うか」 (20節)と私たちに問いかけています。この問いに今まで多くの人が、それぞれの仕方で答えてきています。

絵画で、音楽で、小説で、詩で。

大阪の玉造にあるカトリック教会の聖壇には、着物姿のマリアと幼子キリストが描かれています。もちろん、キリストも着物姿です。伝統的なキリスト像は、西洋の教会がその歴史の中で作り上げてきました。しかし、このいずれにしても外見的なキリスト像でしかありません。その外見的な姿の中から本質的なものを表現しようとしているわけですが、幸いそれらの作品が自分の真実の答えと一致したら、それは 幸いなことです。

聖書は「あなたがたは私をだれと言うか」 20節 と私たちに責任を持って答える事を要求されています。この問いに答える時、私達はただ口先だけで、言葉だけで答えることはできません。ペテロは弟子たちを代表して答えています。しかし、彼の答えは人間としては完全な答えであったかもしれませんが、又、正しい答えでもあったわけですが、主イエスはその弟子たちを戒めています。

何故イエス・キリストはペテロの答えをそのまま容認しなかったのでしょうか。ペテロの答えは先にのべてように正しいこたえでした。しかし、その答えの中には、含み切れていない内容をイエスは見ていたのです。別な意味ではそれは口先だけの答えでは、到底対応できないような内容を持っているのです。

主イエスの示そうとしておられる事は、主ご自身の身のまぎれもない宣言、「主イエスが救い主・キリストである、」ということです。

口先だけの答えでは到底応じる事が出来ないような内容を見せ、それに対する対応の仕方を主イエスは次に示しておられるのです。

「自分を捨て、自分の十字架を負てついてきなさい」23節

自分を捨てる、とはどのようなことでしょうか?

自分の要求を捨てる事でしょうか

禁欲生活をすることでしょうか

中世のキリスト教会に於いて、特に修道院の中に於いては、この禁欲的生活が強調されていました。明治時代に日本に入ってきたキリスト教は、武士道と結びついて無教会主義を生みだし、純正な精神性を追求する傾向も生まれました。また、アメリカの開拓時代にはこのような禁欲的生活が強調されていました。清教徒たちはそのような傾向を強く出していました。開拓時代のアメリカでは、禁欲的な生活をしなければならない理由があったのです。それは、そうしなければ、生活が成り立たないくらい苦しいものであったのです。酒、たばこ、コーヒーすら飲まないで、倹約しなければ、生活が成り立たない、今度の秋の収穫で、生きられるかどうかが決まる、そんなときに、贅沢は許されなかったのです。清教徒のみならず、ヨーロッパからアメリカに逃れてきたキリスト教徒はそれぞれに、問題解決の糸口を求めて新天地来たのです。

私たちの母教会LC-MSの人たちも教理的な問題で、当時のドイツのルーテル教会に問題を感じ、とうてい受け入れることが出来ないと判断し、自分たちの平和な生活を信仰のゆえに捨てて、アメリカに移住してきたのです。横道に入りますが、このLCMSの歴史と「女性教職」の問題が大きな関係があります。

明治時代に入って来たキリスト教は、そのような影響の下にあったのです。残念ながらそれが今でも尾をひいているのです。ある意味では間違ったキリスト教の姿を示してしまいました。

自分を捨て、自分の十字架を負うとは、禁欲的な生活をすることではありません。完全に自分の欲望を捨てることでもありません。人間が人間であるかぎり、完全な自己放棄はとうてい出来ません。どんなに自分を捨てようとしても、そう努めれば努めるほど自分を意識してしまいます。禁欲的な生活をすればするほど、自分の欲望の深さをみることになります。そこで「自分を捨てる」ことの次にイエスは何と示しておられるのでしょうか。

「わたしに従ってきなさい」です。この従っていくとはどのようなことでしょうか。

自分の主として仰ぎ見ることです。美しい山を見上げる時、美しい絵に見とれるとき、美しい音楽に身を浸す時、私達は自分を感じません、それに、同化してしまいます。

その一部になっています。

芸術が、絵画、演劇、小説、詩、音楽が私たちにそのことを実感させてくれます。

自分がその作品と一体化していると、感じさせてくれます。

あなたはどのような仕方で主を仰ぎ見ますか?

それぞれの仕方でよいのです。そのとき、私たちを主は包み込んでくださいます。

主を仰ぎ見る時、そのとき私達は自分を捨てる事が出来るようになります。それは、もはや自分が自分をコントロールしている状態では無いような気がします。自分の思った通りに生きる事ではなく、神を見あげ、ついて行く事が出来ます。自分の考え、思いのままに生きる者はそれを失い、従うものはそれを得る事ができるのです。

はじめに仏教の因果の法則のお話をしました。

主に従う時に、主に何かを求めるより、まず従える喜びを自分が感じ、また、主を裏切るとき、主を裏切った悲しさを自分に見、そんな自分に、主が同席してくださっていることを知ることです。

今も共にいてくださる主イエスキリストに感謝。