ルカによる福音書12章13-21節
説教: 五十嵐 誠牧師
◆「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ特有)
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように アーメン
ここ数年、世界経済が混乱して、金融不安が世界中の人々を襲いました。アメリカ、ヨーロッパなどでは、また、日本でも、失業者の増大や経済格差の拡大や景気後退で、多くの人が苦労しています。世界の、日本の国の将来はどうなるのか心配をしています。人間の欲望が招いた不安ですが、どんな教訓を学ぶべきでしょうか。
先日、あるパンフレットをよんでいましたら、アメリカの牧師が「景気後退は何のため」という文を書いていました。彼はこの不況に神の目的があると言いました。私が考えたことないものだったので、面白いので紹介します。五つのポイントをあげていました。
1,わたしたちの隠れた罪を明らかにし、私たちが悔い改めて聖められるようにする。
2,経済が常に最悪の状態である発展途上国に生きる人達の悲惨な状況に対して、私たちの目を開かせる。
3,自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる。
4,人間の力が頼りにならないときこそ福音を述べ伝え、教会を成長させ、神の救いのみ業を前進させる。
5,傷ついた兄弟姉妹のケアをすることによって、神の教会の主にある愛を成長させる。
ルーテル教会の牧師は政治や経済について発言しない傾向があります。牧師も世間のことに発言することを教えられました。理解できる内容です。特に3番は(自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく、天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる)なんかは今日の福音書の「愚かな金持ち」の譬えに適用できる点があります。さらなる説教の必要ないかもです。
ここ十何年かを振り返ると、私たちはお金に、この世の富に、お金儲けに熱中しました。バブルの時代は思い出しても、すごいお金が、人々を引きつけました。日本人が7割くらい、自分は中流と思っていました。豊かさを追い求める人間でした。今は多くの人が、生活が苦しいと言います。思い出しても「エコノミック・アニマル」、「所得倍増」、「高度経済成長」という言葉が氾濫しました。私が横浜の教会の牧師の時、不動産バブルで、銀行が来て「先生、マンションを建てて、収益をあげたらいいですよ」なんて勧められました。また、横浜駅近くで、周りが地上げで立ち退き、後に高層ビルが建ち始めていましたので、「土地を売って新しい地に教会を建てたらどうですか」とも。一坪800万から900万円しましたから、200坪で、なんと18億円くらいになりました。一瞬、売って預金したら、金利で楽に食べていけるなとも思いました。でも、そんなことに乗りませんでしたから、今も教会が建っています。よかった。
今、アンケートをしますと、子ども達は「お金」というそうです。子どもばかりでなく、大人でもそういう回答が多いと思います。教会の背後のレジデンスに住んでいるライブドアーの堀江貴文社長が「お金があれば何でも出来る」と言いましたが、今もそうでしょう。金や物への執着は避けられない欲望と言えます。
先ほどのアンケートの3のコメントを、今日の説教のテキスト「愚かな金持ち」の譬え
にと言いましたが、「自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく 天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる」。
別に言えば「本当の豊かさ・宝とはなにか」です。こんな時代だからこそ、立ち止まって考えるのもいいものです。
譬えは簡単です。遺産相続争いが発端です。いつの時代もあります。私も家内の遺産相続で弁護士に頼みました。争いではありませんが、遺産分割協議書を造るためです。最近は遺産相続で骨肉の争いが起きます。ラジオやTVの人生相談などでよくがあります。イエスは相談者の欲望を察知して・・争いがあったのでしょう・・人間の心の奥底に潜む欲望や貪欲を取り上げて、私たちにい真の・本当の富みとは、豊かさとはを示されたと思います。
譬えの内容を思い出して下さい。ある金持ちの畑が豊作で、多くの収穫を得るたが、しまうところがなかったので、古い倉を壊して、新しい、大きい倉を建てて、収穫物を全て治めました。そして、この金持ちは、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。安心だ。これからは食べたり飲んだりして楽しめる」と言って、喜びました。当然です。だれでもそう思います。
普通は、悩みは、金や物が有り余っているから悩むのではなく、足りないから、金も物がないから、悩むのです。ですから、この金持ちの悩みは「贅沢な悩み」です。人間は「贅沢な悩みを一回くらいしたいのかも知れませんね。
それに対して、神はこう言います。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われて、結びに「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言います。冷や水を浴びせています。悩みから歓喜の喜び、そして絶望と悲しみです。
お金や物が、どのくらいあったらいいのかと思いますが、いろんな統計があります。毎月の生活費が年金生活ですと一人月20万円とか、夫婦で34万円とかですが、生活の差がありますから、人によって多少上下があるようです。しかし、母子家庭や若者は年収200万円前後位とかあります。私は今老人ホームに入っていますから、後何年生きて、いくら必要か計算をしています。多くの人が苦しいながら頑張っている姿が見えます。
ユダヤ人はこんなことを言いました。旧約聖書の箴言です。30:7-9。知恵の言葉です。好きな言葉です。
「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。
富むことは人間を傲慢・おごりたかぶって神を見くだし、ないがしろします。しかし、この中庸・行き過ぎや不足がなく、常に調和がとれていることは難しいのです。「足を知る」と言う言葉があります。意味は「十分である、満ち足りる」です。パウロは「私は、 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。(フィリピⅠ4:12)。 パウロは秘訣を授かっていると言います。パウロは富や貧しさによって支配されているのではなく、その両方を超えた満たされた心とどんな境遇でも生きられることのを可能として下さるキリストの力に支配されているのです。そんな心境を持ちたいと思います。
ところで、この譬えの意味を・・「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」を見ましょう。随分厳しいことばです。この世で金銀財宝をいくら積んでも、イエスは言います。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と。キリストの弟子テモテは、いみじくも言っています。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」。(テモテⅠ・6:7)。
イエスは山上の説教で「さいわい」・・信仰者の・・幸福のリストを述べていますが、そこでは「さいわい」は地上の富み、財産にかかっているとは言っていないのである。改めて気づきました。
*参考:マタイ・5:3ー11。(The Christian’s chart to happiness)。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。
イエスがいう「神の前に豊かになる」とは何か。以前、ある方が、その前に「愚か者」とは何ですかと聞いてきました。今は、「馬鹿」とか「愚か者」は大ぴらに言えない言葉ですが、聖書で「愚か者」とは、普通では、思慮、分別、また、判断、判断力の欠如ですが、聖書では「愚か者は心の中で、「神はいない」・(詩編14:1)、「神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と(詩編53:2)。愚か者とは「神はいない」「神などいない」という人を言います。この金持ちはユダヤ人?ですから、この場合、神など存在しないように振るまい、全てを自分の力のせいにする自己中心的な姿を、神は「愚かな者」と言われたのです。
「神の前に豊かになる」とはどういうことでしょうか。この金持ちは反面教師ですから、いくつかの学びあります。一つは彼が余りにも自己本位、自己中心的であることです。自分の意のままに、欲しいままに振る舞った。また、彼は受けた富みに対して神に感謝をしなかった。彼は周りにいる貧しい人達を顧みなかった、助けもしなかった。彼の生き方特色は、何かをするということより、何にもしないという罪によって際立っています。法律では作為、不作為の罪と言います。最後に彼は神なしで将来の安全を手にしようとしています。
さらに、 「神の前に豊になる」とはこの金持ちの行き方を・・反面の教師として見て見ると、簡潔な学びを知ります。イエスはある時、学者の質問にこう答えました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、また、「隣人を自分のように愛しなさい」と。(ルカ10:27)。これが神の前に豊になる生き方です。神と隣人が金持ちには存在しませんでした。彼はただ、自分のことのみ考えていました。
「神の前に豊になる」生活を一人一人が、今日も主によって生かされていることを明白に知り、T、P、O・・つまり、時・場所・場合にあった方法で表したいと思います。キリスト教信仰は、さまざまな思い悩みから、私たちを自由にします。解放します。自分のために富を積むことの思いわずらいから自由にされ、解放されて神に対して富む、新しい生き方へと導いてくれるのが、キリスト教信仰です。
イエスは地上の富や楽しみや安心を遠ざけるようにとは言いません。イエスはピューリタン・清教徒ではないからです。
*「一六世紀後半、イギリス国教会の宗教改革をさらに徹底させようとしたプロテスタントの一派。キリストの教えの遵守と清純な生活を理想とした。ピューリタン」。
イエスは譬えを「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言う勧めで終わっています。この時代の中、心を開いて聞きたいと思います。この教えはイエスが山上の垂訓・説教で教えていたことでもあります。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるらである」(マタイ6:21)。これが今日の結論です。
アーメン