2010年8月15日 聖霊降臨後第12主日 「主は愛する者を鍛える」

説教:安藤 政泰 牧師

8月15日は特別の思いがあります。小学生のこと母の兄弟の家に疎開していました。そこで 終戦をむかえました。現在は埼玉県狭山市になっています。

空襲に合い、怖い思いもあります。飛行機から撃たれそうになった経験もあります。しかし今でも思い出しますが、この戦争がいつ終わるのかと、との思いで過ごしていました。終わりの見えない戦争のように思えていました。それは 子供心にもつらい思い出としてあります。

戦争を知らない世代が日本の人口の半分以上になっていますが、戦争体験者としては、出口の見えない苦労はつらいものだという経験が実感としてあります。

さて、今日は第2日課のへブル人への手紙を共に考えてみましょう。

試練を受けた経験、つらい思いをした経験はだれにでもあるでしょう。

鞭打たれてりような気持ちを持つ、その結果なお信頼出来るか、逃げ出すか、それは本人の問題です。それは又、愛を感じるか、単なる鞭と思うのかです。

その試練を、どのように克服するかはその人によりますが、克服したか、またはそれに向けて努力している事が必須です。

ヘブル人への手紙12:06  「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

誰でも人は苦しいこと、耐えなければならないことからは逃れようとします。そして、その試練に耐えられない人は社会的には落ちこぼれてしまうと考えるのが一般社会の考え方ではないでしょうか。

人はなぜ落ちこぼれるのでしょうか。

試練の結果、又は、試練の成果が見えないとき、この与えられた試練は苦しみになります。そして、人はそれを耐えることが出来なくなります。別な意味では、終わりのない苦しい労働は、人間にとって、決して耐えることが出来ないくらい厳しいものであり、人はそれを罰と考えます。

試練の結果を見ない人は、見えない人は落ちこぼれてしまうのではないでしょうか。

12:07  「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

私達は愛する者には厳しい訓練を与えます。この訓練をしつけ、と考えると、よく理解できるかもしれません。親でその子をしつけない者はいません。子供にとっては厳しいことのように感じる事かもしれませんが、その背後には深い愛がうらずけされています。

12:11  「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。12:12  だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさ」

または、今、この試練のゴールが見えなくても、そこに、愛を感じる事が出来れば、人はかなりの試練にも耐えられるはずです。

この試練を神の罰であると理解する人がいます。もし、それば神から与えられた罰であるとしても、罰となるのか、訓練になるのか、は私達の神への態度によるのではないでしょうか。

神は魚の代わりに蛇は与えられません。私達にはすでに与えられた恵みが見せられています。ですから、その神からの罰であろうはずがありません。

神から与えられる罰も又、神の恵みへ導く手だてであるのですから。

12:12  「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」

私達の弱くなっている信仰を、強めることは、自分の為にだけにおわることなく、もし、自分の信仰を強めることに勤めるなら、それは、後からくる、信仰の弱いものへの道備えにもなります。自分がどのようにしてそれを克服したかと言う証言は、それ自体が神を示す事になり、そこに神の導きと恵みを示す事になります。

主よ、訓練の時を罰と受け止める事なく、あなたの愛と哀れみを受け、信仰の道に励む事ができますように力を与えて下さい。