2010年10月17日 聖霊降臨後第21主日 「神との格闘」

説教:安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書18章1〜8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


日曜日の朝 礼拝前に礼拝堂の後部で祈りの会をしています。

祈りを共にする、このことから教会は始まります。

共に祈れないのであれば、教会とは言えませんし、祈らない人はキリスト者と言えるでしょうか。祈らないとの、祈れないのとは 違います。神は私たちが祈る前に、私たちの祈りを知っておられます。

そこで、祈りについて考えてみましょう。

あなたは祈りますか?

もし その答えが「いいえ」でしたら それは、洗礼を受けたクリスチャンとは言えないと思います。
あなたは人前でも祈りますか? もしそれが「いいえ」でしたら、それは是非人前でも祈るように勧めます。

他の人と共有している、神様への共同の感謝、讃美、願、があるはずですから、

それを言葉にすることにより、あなたの祈りがより堅いものになります。

祈りは神との対話です。

個人の密室の祈りに禁句や禁止事項はありません。何をどのように祈っても良いのです。

共同の祈りにはある程度のルールがありますが、それも、必ず守らなければならないルールではありません。具体的にはどのように祈るでしょうか。それは聖書では、主イエスがどのように祈るとかとの弟子の問いに答えて示されたのが主の祈りです。人前で祈る時の手本は「主の祈りが祈り」です

神への呼びかけ 「天の父よ」「神様」・・・

神への感謝 讃美

私たちの願:大きな世界の事から 最後は自分の事へと祈る

例 平和の祈願 世界の平和 アジアの平和 日本の平和 教会の平安

友人の平安 家族の平安 自分の平安

結び:キリストの名前により祈る 「主イエスキリストのみ名により祈ります」

そして 他の人の祈りに同意し、私もたしかに同じように讃美し、感謝し、祈願しますの意味で「アーメン」と唱和します。

今日の日課です。

不正な家令のたとえ話しの様にこの話しも皮肉な読み方をすると不愉快に感じる物語です。

イエスはこのたとえ話しで二つの事を示そうとしておられます。

第一は、祈りに於いて神に訴えるかぎり、その実現にどんな困窮にあっても、

疑いを抱かなくてよい、と 言うことです。

第二は、祈りの中心になるものは自分自身の権利ではなく、

神の権利、神の義である、ということです。

私達の祈りがすぐに神によって聞かれなくとも、その願いが拒まれたと言うことではない事が今日の聖書の箇所で示されています。

身寄りのない無力な女が絶え間無い懇願によって、法を守るより、その反対をしているような裁判官をして、彼女の権利の回復の処置にふみきらせた。

ましてや、神に属する者の願いを切り捨てる事はなさらない。

しかし、私達が祈るとき、ルターが述べていることに気をつけなければならない。彼は「主の祈りの講解」で、「我々は『愛する父よ、あなたのみ国に我々を赴かせて下さい』とは祈らない。それではまるで我々がみ国に向かって走っていかねばならないようだ。我々の祈りは、『あなたのみ国が我々に来ますように』である。私達が自分を主体として祈るのではなく、自分が神様のところに、あたかも赴くように祈るのではなく、神様が私達の所に来て下さるように祈るのです。それは、言い換えれば、自分が自分の力で変わるのではなく、自分が神の力により変えられる、と言うことです。

本日の第1日課よ見ましょう。創世記32:23-31

ヤコブはラバンの家に逃げて身をよせていましたが帰国を決心しました。エドムに住むエソウの所に帰ろうと旅を続けていました。いよいよヤコブは川を渡ってエドムにちかずいて時不思議なことが起こりました。ヤコブは一晩中、見知らぬ人と格闘しました、ヤコブはほとんど勝負に勝っていたようですが、最後に脱臼させられて終わりました。この物語も二つの事を教えています。

イスラエルと言う名の起源です。

もうひとつはペニエルという聖所の起源です。

ヤコブはまだだます者、おしのける者と言う意味を持っていました、GEN27:36

27:32 父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。27:33 イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」27:34 エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」27:35 イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」

27:36 エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」

27:37 イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」27:38 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。

このかんばしからぬ名前から、神との格闘をへて新しい人に変えられました。

神と格闘したもの、イスラエルとなります。ヤコブが神と顔と顔を合わせて見たことから、神の顔お意味するペニエルと言う新しい聖所が生まれました。

神を見ると死ぬ、と言われたのに、ヤコブはモーセのように神を見ることをゆるされたのでした。古いヤコブが神との出会いにより新しいヤコブとされたように。神との真剣な祈りに於ける対面により変えられます。ヤコブが相撲して祝福を切にねがったように神との真剣な対面を切望し、祈りましょう。