2010年12月12日 待降節第3主日 「神、われらと共に」

マタイによる福音書1章18〜23節
説教: 江本 真理 牧師

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイによる福音書1章18〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

待降節(アドヴェント)の歩みも3週目に入り、聖壇の上のアドヴェント・リースのロウソクには3本火が灯りました。待降節の第3日曜日は伝統的に「ガウデーテGaudete」と呼ばれます。これは「喜びなさい」という意味のラテン語です。待降節の第3日曜日を、私たちは特に喜びの主日として守るのです。なぜ「喜びなさい」なのか。それは、救い主イエス・キリストをお迎えする時が間近に迫っているからです。フィリピ書の言葉を引用するならば、「主において(常に)喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます」(4:4-5)ということです。主はすぐ近くにおられる。主の約束は既に成し遂げられつつある。だから「ガウデーテ」、「喜びなさい」。これが今朝の礼拝を守りながら、私たちが心に留めるべき主題、テーマであると言えます。

今朝与えられております御言葉は、マタイ福音書が記す「イエス・キリスト誕生」の次第の箇所です。クリスマスの記事はもう何度も読んでいる、そのストーリーもよく覚えているという皆さんが多いと思いますが、皆さんがこのクリスマスの出来事を聞くときに、一番不思議に思うこと、このクリスマスの出来事における神秘とは何でしょうか。

このクリスマスの出来事における最大の神秘、私たちが一番不思議に思うことは、主イエスは聖霊によって宿ったということではないかと思います。私たちは、使徒信条の信仰告白の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白します。今日のマタイの箇所でも、主イエスの誕生のことを、それは「聖霊による」ことなのだと繰り返し語っています(18節、20節)。あるいは、ルカ福音書に記されるマリアへの受胎告知の場面においても、天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたマリアが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながら答えたのに対し、天使はこう言っています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…神にできないことは何一つない」と。つまり、「聖霊」とは「いと高き方の力」「神の力」なのだと。そしてその聖霊によって、神の働きによってクリスマスの出来事は起こったのだということです。

ですから、「主は聖霊によって宿り」ということ、このクリスマスの出来事が聖霊のわざ、いと高き方の力によるものだということは、私たち人間の力によってではないということです。私たちの人間の思いや力をはるかに超える仕方で起こった出来事がクリスマスなのです。私たちの考えや想像をはるかに超えてもたらされたこと、それが「聖霊によって宿り」と言われる、主イエス・キリストの誕生(クリスマスの出来事)なのです。私たち人間がクリスマスを生み出したわけではなく、私たちの側に、最初から、この出来事がもたらされる資格があるとか、クリスマスを受け容れる用意があるとかというわけでもないのです。むしろ、「聖霊によって宿り」とは、私たち人間のどんな現実「にもかかわらず」「宿り」ということなのです。

クリスマスの記事の前にマタイ福音書は、長い系図を書き記しました。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚まで、そしてクリスマスの出来事までです。しかし、なぜこの系図が記されているのでしょうか。この系図から救いがやってきたからでしょうか。そうではありません。この系図からではなく、この系図へと救いがやってきたからです。聖書が記している系図は、人間の能力や優れた血筋を示している系図ではありません。むしろ、人間の嘆きが示されている系図です。そこに名が記されているタマル(3節)は、創世記38章によれば、夫に先立たれ、舅から忘れられた婦人でした。クリスマスの系図は、このタマルのいる系図です。ラハブ(5節)は異民族の遊女であり、ひとり救われイスラエルに加えられた女性でした。そのラハブのいる系図です。ルツ(5節)はやはり異民族の婦人で夫を失った人です。そしてダビデの計略によって敵の手を借りて殺されたウリヤ、その妻(6節)がそこにはいます。そういう婦人たちのいる系図です。そしてそこにはアハズ(9節。イザヤ書「インマヌエル預言」を示された)がいます。列王記下16章によれば、このアハズについて次のように記されています。彼は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。彼は高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」。要するに、この系図は人間の罪とその嘆きの系図、人間の危機の系図です。そして、これこそ人間の現実の歴史ということではないでしょうか。主イエスは、その人間の歴史のただ中に「自分の民をその罪から救う」(21節)ためにやって来られたのです。人間の過酷な現実、苦しみや悲しみ、欺きの絶えない現実にもかかわらず、主は人間を救うために、聖霊によってその中に来られたのです。そのようにして「神は我々と共におられる」ということが現実になったと聖書は告げるのです。私たち人間のどんな現実にもかかわらず、主は聖霊によって宿り、そして「神、我らと共に」なのです。

それでは人間は、どういう仕方でクリスマスにいるのでしょうか。「主は聖霊によって宿り」と告げられている待降節の人間はどのようにそこにいるのでしょうか。それは「おとめマリア」として、あるいは「ヨセフ」としているのです。ヨセフのことを考えてみましょう。ヨセフは「正しい人であった」と記されています。しかし、「主は聖霊によって宿り」に対して、ヨセフの「正しい人」としての決心は、マリアと「ひそかに縁を切ろう」(19節)とすることであったというのです。その理由として、19節には「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」とあります。「彼女を恥にさらすようなことは好まなかった」とも訳せる箇所です。ですから、ヨセフは決して自分のことだけを考えていたわけではなく、マリアのことを考えて「ひそかに縁を切ろう」と決心したのです。このヨセフの決心は、人間としては正しい決心であったかもしれません。しかし、それだけでは人間の罪や悲惨さからの救い(解放)である「神、我らと共に」をもたらすことはできないのです。クリスマスは、このヨセフの正しさを越えて、否、ヨセフのこの正しい決心がもう一度覆されることによって、やって来たというのです。ヨセフはここで、自分の、人間としては一応もっともな決心をなお変更して、神の御旨に従いました。パウロが言うように、人間の正しさをいくら積み重ねてみても、それで救いに到達することはできないのです。むしろ、自分の信じてきた正しさが覆され、塵あくたと見なされるほどに、救いということは、私たちの手には負えないもの、私たちの考えているものよりもはるかに偉大で、厳粛なものなのです。人間は、この救いを、神の助けから謙虚にへりくだって受け容れるほかはありません。ですから、待降節の人間は、自分のそれなりの正しい決心さえも越えて、神に動かされる用意をする必要があります。あのマリアのように、またここでのヨセフのように、自分の思いを越えて神の御旨に従う用意をするのです。

もちろん、私たちには、自分なりの気持ちがあります。自分の決心があり、予定があります。ヨセフのことを考えてみれば、彼はこのときマリアと婚約していました。ごく普通の結婚をし、ごく普通の家庭を築き、人並みの生活をしていく、平凡な日々を送ろうと考えていたのではなかったでしょうか。平凡であることが何よりも幸せなことだと言われたりします。しかし、そんなヨセフの思いとは裏腹なことが起こり出すのです。身ごもったマリアを見て、ヨセフは困惑したことでしょう。思い悩んで眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。20節に「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とあります。「恐れず」と言われていることは、ヨセフが、悩み、自尊心を傷つけられ、あるいは不信と疑惑で苦しむ日々を送ったことをうかがわせます。人間は、いろいろなことで思いめぐらさざるをえなくなる存在です。その中で決意し、しかしなお悩みと混乱の中にあり続けるのが人間です。しかし、待降節の人間は、そうした人生の悩みや混乱の中で、究極的に何に動かされる人間なのか、です。そこでなお神に動かされる用意がある。それがヨセフの姿であり、待降節の人間です。「主は聖霊によって宿り」ということは、私たち自身の決心や予定にもかかわらず、聖霊・神の力によってその判断や決心を変えられて、神に動かされる人間がそこにいるということでもあります。私たちは、何ものにも動かされない「不動の境地」を求めているのではありません。そうではなく、神に深く動かされることです。だからこそそれ以外の何ものにも動かされないことです。自分の欲望にも、また自分の不安や恐怖にも動かされず、自分の考える正しさにでもなく、それ以上のただ神にのみ、神の霊にのみ動かされるのです。それがヨセフの姿であり、待降節の中にある人間なのです。

ですから私たちは今、そのような一人の人間として、ただ神にのみ、神の霊にのみ動かされる者として立たされることを主に願い、主の大いなる御力により頼んで生きていく者でありましょう。これこそが、今日この日曜日に示されている主題、「ガウデーテ」、「喜びなさい」と言われるときの私たちの「喜び」であるのです。

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように(ローマ15:13)。