2010年12月24日 聖降誕祭燭火礼拝 「あなたがたのために救い主がお生まれになった」

今日 救い主 誕生!
ルカによる福音書2章1〜20節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆イエスの誕生

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書2章1〜20節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

今日の説教題は「今日 救い主 誕生!」という題ですが、正しくは「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉です。その言葉を今日一緒に聞きたいと思います。

クリスマスというのは、いきなり来たのではありません。旧約聖書の時代から連結した時間の流れの中でおきました。パウロはガラテヤの手紙で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」言い、クリスマスは「時が満ちて」起きた事で、それは「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」(テトス2:11)た日だと書いています。クリスマスは、旧約の、神の約束の成就・実現した事を私たちは知る日でもあるのです。その時間的な流れを追体験するために、クリスマスの四週間前の「待降節」という期間が守られ、心の準備をするといわれています。一番顕著なことは、クリスマスクランツです。四本のローソクを、毎週一本ずつ点灯して、四本つけるとクリスマスがくるのです。心をワクワクしてクリスマスを迎えることになります。その意味では今日は本当にうれしい、喜びの日です。

今ではクリスマスは大きな祭りですが、最初のクリスマスは貧しいものですし、人々の目を引かない出来事でした。

また、クリスマスは驚きで充ちています。受胎告知でもマリアは驚いています。「どうしてそんなことが・・」と言っています。ヨセフも驚きました。慌てて婚約解消を考えていました。荒野の羊飼いも天使の出現に驚いています。東方の博士たちは星を見て、驚いてエルサレムに向かって旅をしました。宿屋の人たちも驚いたでしょう。なぜなら羊飼いたちがやってきたからです。なんだこれはです。何故人々は驚いたかですが、それは思いがけないことが起きたから驚くということです。驚かない人もいました。それは赤ん坊が生まれたという普通の出来事と考えるからです。生まれた方が神の子であると気が付かないからです。当時の人はクリスマスを前もって知っていた人はいませんでした。神が計画し、実行したからです。こんな仕方で神の御業が起こるとは、予想できませんでした。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですと言います。ご承知のように戸籍が残っているわけではありませんから、正確ではありません。当時の他宗教の祝祭日を、意味を変えて転用したと言われています。そういうことはよくあります。また。イエスの誕生が歴史というか年代を決めています。つまり、BC、ADです。BCは英語ではBEFORE CHRIST・キリスト前を意味します。ADはAnno Domini・ラテン語・the year of Our Lordで、西暦・紀元を意味します。キリスト誕生を紀元元年としています。今はAD、BCを使わず、CEを使います。the Christian Era・キリスト紀元、西暦紀元です。あるいはCommon Eraとも言います。それは他宗教を尊重してです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。ヘロデ大王の時代にイエスはベツレヘムに生まれたとされています。しかし、ヘロデは紀元前37年にユダヤの王になったヘロデは紀元前4年に死んでいます。天文学者たちの研究で、今日では紀元前7-6年をイエスの誕生と見ている人が多いです。ですから、紀元後の29-30年にイエスが十字架に付けられたとすると、イエスの生涯は大体37年位でしょう。イエスが伝道した期間・イエスの公生涯は最後の1-3年であろうと思われます。

クリスマスは神が計画し、実行したことといいます。聖書ではそれを預言と成就と言います。イエスが生まれるところも預言されていました。聖書はその場所は「ベツレヘム」だと言います。

普通クリスマスは誰のためかと言いますと、こんな答えが出ます。1.人間のため。2.世のため・世界のため。3.自分のためです。この3の答えが出来る人に、クリスマスの意味が出て来ます。しかし、よく見ると、クリスマスは神が必要としたものだと言うことです。神の側から見たクリスマスの意味です。人間の救いを見ますと、いつも神が先手を取っていると知るのです。私たちもそうです。イエスは言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

クリスマスは神のためとは?それは親と子供を考えると分かります。子供は親が何くれとしますと、いやがります。経験です。子供は、自分は自分なりにやっていると考えます。しかし、親がそうするのは「親の愛」と言えます。親の愛がそうさせるのです。それを五月蠅いと思うのですが、親は子供のためにしているのです。

これをクリスマスに適用します。神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ることを決意し、実行したのは、そうせざるを得なかったのは、神がそうする情況が私たちの方にあったということです。「神の愛・こころ」がそうさせたのです。神は天より人間を見て、どうしても放っておけないので、イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。神が放っておけないと考えたのは人間の罪でした。こんなことをというと奇妙に思うでしょうが、それは私たちが余り罪について考えないからです。たいしたことではないと思います。昔も今も変わりません。人間が罪を犯している、それを見ない振りをしているのが人間ですが、神は違います。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

マリアとヨセフは人口登録のために、ナザレからベツレヘムに向かいました。約140キロの旅です。二人はダビデの血筋のため、登録のために故郷の町・ダビデの町に行きました。ベツレヘムはダビデ王の生誕地で、ダビデはここで父の羊を飼い、預言者サムエルによって王として油を注がれています。(Ⅰサム16:13)。それ以来ベツレヘムは、「ダビデの町」(ルカ2:4,11)として知られるようになった。

町は混雑で、泊まるところはなかった。で、彼らは馬小屋を借りました。そこで、マリアはイエスを生むことになりました。多くの人は気がつきませんでしたが、その赤ちゃんイエスこそが神の子・メシア・救い主でした。

クリスマスの使信は単純です。神の子がおいでになったことによって、私たちはすぐ側に神がいつもいてくださるということが確信できるようになった。すぐ側にというと何ですから、どんな時でも、神が一緒にいてくださることを確信出来るようになったと言ってもいいのです。それをヨハネはこう言いました。「言・イエス・は肉となって・人間となって、わたしたちの間に宿られた・テントを張った」と。(1:14)。テントとは天幕を張ったということです。これは遊牧人・草原を移動して歩く民族・でないと理解が難しい。ユダヤ人はすぐ理解できました。エジプトから約束の地パレスチナにいく途中、彼らはテントを張っていました。移動式住居です。その中に特別なテントがありました。それは、神の住まいとしてのテント・天幕・「幕屋」(出40:1など)とも呼ばれていました。「彼らがわたしのために(幕屋)・聖所を造らされる第1の目的は、主がイスラエルの民の中に住むためでした。このことから、幕屋、わたしは彼らの中に住む」(出25:8)と主が言われるように、幕屋は「聖所」とも呼ばれています。で、旅の途中でも、そこに行けば神に会えると言うことです。つまり、いつも神が民と共に居るということです。

クリスマスは救い主の誕生日ですが、救いとは何でしょうか。宗教は救いを言います。いろんな救いがあります。困っているから助けるとか、人間の欲望を満たそうという信仰、いわゆる、御利益です。キリストはそんなことは言いません。確かにキリスト教にも、御利益はありますが。イエスとは天使が告げられたように「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(マタイ1:21)。「罪」は神にとっても、人間にとっても放っておけないことです。前にも言いましたが。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

私はクリスマスは人間のあるべき姿、状態にすること、回復することだと思っています。旧約聖書の創世記は天地の神による創造を書いています。神は各創造の日の終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と言っています。英語では it was goodです。ヘブル語ではbAj-yKi(キー・トーブ)です。意味は「確かに よいです」。英語でCOSMOSというのがあります。意味は宇宙・調和・秩序です。調和とは美しい状態です。そこから、COSMETIC・化粧品がでました。ですから、ある先生は「美しい」と訳しました。神は六日目に創造のすべてを見て、「それは極めて良かった」と言いました。極めて美しかったです。でも、今はどうですか。その神の創造の美しさはありません。人間をとってもそうです。人間は美しいと言うより、汚れているのです。パウロはいみじく書いています。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(エフェソ2:2-3)。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。(コロサイ1:21)。

パウロは結論します。「正しい者はいない。一人もいない」と。(ロマ3:10)。ですから、人間は調和のない状態にあります。つまり、罪に、悪魔、神に敵対し、神の怒りを受けるべき者でした。そんな状態から、神との調和・神との完全な交わりの状態の美しさを回復するために、クリスマスがあるのです。パウロはこう言います。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。(エフェソ2:4-5)

年末になると、二つの鐘がなります。ヨーロッパに行った方が、日曜日の朝、町中の教会の鐘が一斉に鳴るそうです。それは至るところに神の救いが満ちあふれていることを語っているように感じると言いました。日本の年末の鐘は除夜の鐘です。大晦日にNHKのTVで有名なお寺の鐘の音を聞くことが出来ます。除夜の鐘は、夜中の12時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞つく鐘を言います。百八煩悩とは人間の心身を迷わせる一〇八種の煩悩・一切の煩悩をいいます。

ある方が面白いことを言いました。お寺の鐘は“ゴーン”、「ゴーン」となる。教会の鐘は「カーン」、「カーン」となる。「ゴーン」は英語のgoneだ、教会の鐘はcanである。ゴーンは、(過ぎ)去った、過去の、いなくなって、見込みのない、尽きた、古くなったと言う意味である。響きは暗い。しかし、カーンは出来る、可能性がある、力がある、明るい響きがあります。ギリシャ語で「救い」は「変える」という意味があります。

私たちを・・心の定まらない私たちを・・造り変えようとされて、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にあけられたのです。神はあなたを変えようとされているのです。

どうでしょうか。

羊飼いたちは「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書いてありました。私たちはどうでしょうか。今日、同じように「神をあがめ、賛美しながら」帰ることが出来るでしょうか。「崇める」とは何か。それは心からへりくだって、神を讃えると言うことです。「賛美」とは普通、ほめたたえると言います。しかし、ある先生によると、「賛美」は「神をなだめる」という意味があると言います。クリスマスに神を賛美するというのに、なだめるとはですが。ここにクリスマスの意味があるのです。クリスマスに生まれたイエスが、やがて、私たちのために十字架にかかります。そういう方が生まれたということがうれしいのです。分かると思います。うれしいことです。でも、考えたら、そのような方を送ってくださった神に対する感謝をして、罪を悔い改めて、神を崇め、賛美したい思いが沸くのではないでしょうか。

アーメン