2011年2月13日 顕現節第7主日 「神が愛であるとは・・隣人を愛し、祈れ・・」

マタイによる福音書5章38〜48節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆復讐してはならない
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

◆敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
マタイによる福音書5章38〜48節


私たちの父なる神と主イエス・きリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

今朝はイエスの「山上の説教・垂訓」の一部を読みました。有名ですから聞いたことがある言葉が出てきます。山上の説教は「山上の垂訓」といわれました。「垂訓」とは「教訓を説き示すこと」です。実際はマタイの5章1節から7章終わりまでです。有名なのは「空の鳥を見よ」とか「野の花(百合)を見よ」、「地の塩」とか「世の光」も聞いているでしょう。も一つ、異な同じような説教がルカ福音書の6章29以下にあります。平野の説教といわれています。

一つ問題がありまして、イエスの垂訓は何か、どんな性質かです。よく山上の説教はキリスト教の神髄、キリストの教えの中心とかいいます。しかし、それは間違いです。ある方ははじめの「~~は幸いである」という言葉でそう考えました。しかし、キリスト教の中心、キリストの教えは「福音」なのです。福音とは「よい知らせ」です。それは普通、神が恵みによって、私たちのために、救いをなされたことを意味します。山上の説教は、如何にして罪人が救われて、神の国の一員・メンバーになるかを告げていません。イエス自身や贖いの業(十字架と復活)について語っていません。端的に言うならば、信仰による救いを言っていません。ですから「福音」ではありません。

福音でないと何かですが、それは「律法」です。律法とは神の意志による教えで、人間の守るべき道を教えているものです。ではイエスは誰に向かって「山上の説教」をされたのかですが、福音書では2種類の人に語られました。弟子たちと群衆です。英国の神学者ハンターは「山上の説教」は根本的には弟子たちに語られたと言いましたが、正しいのです。当時は12弟子・・使徒ですが、今・現在では「イエスに従う者・信仰者」です。つまり、クリスチャンということになります。イエスは神の国の一員であるメンバーのConduct・振る舞い・行為を述べていると言えます。先のハンターは「イエスの倫理・価値体系・弟子の倫理の要約・一覧」と言っています。つまり、神の国の生き方・生活様式・way of lifeです。古い日本語では「処世術・処世のための術策」です。あるいは「人生訓」です。しかし、」単なる世渡りの方法や人生訓ではありません。神の律法・掟はうわべだけのものではないからです。

この世の処世術はなぜあるかと言えば、私たちは生まれ落ちて以来、家庭でも、学校でも、会社でも、教え込まれることは、人々といかに穏便に、協調してつきあうかについて、また、集団の中で生きる術(すべ)を身につけるかを考えることです。世渡り術ですが、適当にやっている人が多い。でも最近では、自己虫が強くて、他の人を考えない行動が若い人に多くなりました。すぐ切れます。

イエスがここで話しているのは、クリスチャン・キリスト教信者の律法・神の掟を、そのルール・導きとしてです。イエスは信仰を通して神の国の一員となった人々の守るべきルール・行動を告げているのです。そして、それはとりも直さず、言い換えると、クリスチャンの信仰を証明すると共に、彼らの主を賛美することになるのです。イエスは明白に神の律法の意味を示しています。イエスはいくつかの律法を取り上げて、律法学者たちが決して説明をしなかった、新しい意味を語っています。英語に、before and after..がありますが、イエスは、その違いを明らかにしました。

堅い話になりましたので、イエスの言葉を見ましょう。

十戒 出エジプト記20章1-17(一部省略)

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:12 あなたの父母を敬え。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 隣人に関して偽証してはならない。

20:17 隣人の家を欲してはならない。

隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

今朝は前週(安藤先生)に続いて「山上の説教」を学びます。小見出しの「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」です。後者は有名です。最近本を読んでいて気づいたことは、多くの聖書の言葉が、日本語の辞典にあることでした。日頃使っている言葉が聖書から、例えば、「目から鱗」、「地の塩」、「求めよ、さらば与えられん」とか聞きます。今日のところでもあります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」です。多くの教訓があります。普通の、この世的な考えと違います。キリスト教的人生訓・格言とも言えます。

イエスは「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言い、「し

かし」と言っています。「しかし」というのは「接続詞」で、先の話の内容を受けて、それと反対または一部違う事を述べる時使う用語です。ですからイエスは当時の社会の考え方と違う考えや生き方を示しました。そのいくつかがここにあります。キリスト教の用語もよく見たり、読んだりしますと、意外と日本の社会に浸透している事です。中には正確な意味で使われていますが、ある言葉は意味が違った風に言われます。キリスト教は日本には広まりませんが、用語が多くの人に用いられている事から、希望があるという方がいます。どうでしょうか。

「復讐してはならない」を見ましょう。普通ここは「絶対無抵抗主義」の意味に取られています。しかし。罪との戦いや悪への抵抗を禁じている訳ではありません。原文の「悪人」は、悪意のある加害者のことです。「目には目を、歯には歯を」は古代の法律での「同害報復法」の決まりです。過剰な復讐を禁じるもので社会正義の基本です。

*「同害報復法」はタリオ(talio ラテン)の訳語で、被害に相応した報復または刑罰をいいます。ハムラビ・バビロンの王。紀元前18世紀。「ハムラビ法典」を制定。その中にある。(1686一説に前1792~前1750)

「悪人」とはギリシャ語では悪意を持っている加害者です。ですから、悪意と危害に対して、同じような苦い報復をすることを断念せよということです。無抵抗というか非暴力を実行した人が、歴史上二人います。インドのガンジーとアメリカのマルチン・ルター・キング牧師です。ガンジーはインドの民族運動指導者・思想家。インド独立の父とされます。非暴力・不服従主義により自治拡大、独立の実現に努めました。ヒンドゥー教徒に射殺されました。(1869~1948)。キング・Martin Luther King, Jr.はアメリカの牧師・黒人解放運動家。非暴力直接行動主義に立ち、公民権運動を指導。暗殺されました。ノーベル賞を受賞。(1929~1968)。バスに乗らないで抵抗した出来事が思い出されます。

下着や上着はそこまでやるかという感じですが、また、二倍の道を行けとか、求める者には与えよという言葉もそうですが、イエスは私たちに問題提起をしているのだと思います。それは「私たちは憎しみと憤りを、あるいは復讐を乗り越えられるか」という問いです。ということは神への信頼と余裕のある信仰を持て!というイエスの言葉です。

さらにイエスは「愛敵」を、敵への「親切」、「祝福」、「祈り」を言います。普通は「憎敵・敵を憎む」です。「目には目を」式です。人を愛するより憎むことのほうが、分かり易い。旧約聖書にはそんな言葉があります。イエスはそのような背景で言っているのです。イエスは敵を愛せという言葉を、抽象的な意味で言ったわけではありません。漠然とした意味ではありません。イエスがこの言葉を語った状況は、厳しい中でした。つまり、当時の宗教家たちとの論争からでした。イエスは命をねらわれている中での発言でした。ユダヤ教の指導者たちは自分の民族・隣人だけを愛することを主張した、狭い民族宗教を、イエスは世界宗教・普遍的信仰にしたとも言えるのです。

キリスト教は「博愛」の宗教だと言われます。そこから社会事業が、赤十字が生まれました。日本でも初期の社会事業はキリスト教の宣教師が手をつけました。

「敵を愛せよ」の敵とは・・ある先生は憎しみと悪意の執念にみちた相手だといいました・・そんな人を憎み返すのではなくて、愛して大事に思えという意味です。牧師として説教していて、お前にそんな愛があるかといわれると,自信がありませんが、神のような完全な愛はありませんが、私のために死なれたキリストの大きな愛を、本気で受け止めたとしたら、そのキリストの愛が注がれて溢れていたら、イエスの言葉は励ましの言葉であると同時に力の泉になるのではないかと思っています。皆さんはどうですか。

マタイの福音書に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(7:12)という言葉がりました。Golden Ruleです。これを日本人は「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と言います。「論語」の孔子の言葉ですが、面白いことにキリスト教と日本人の考えは、時々反するような気がします。習慣とか行動が逆のことがあるような気がしています。

これらの言葉には背景があります。イエスの言葉は「山上の垂訓」(マタイ)にもあります。イエスの場合はよく見ると積極的ですし、孔子の場合は「消極的」です。「善をせよ」と「悪をするな」の違いです。日本は儒教的な道徳の傾向がありますから、禁止が多いと言えます。その理由は何か。世間体を気にするからと言います。世間は鋭い目を・・それも非難する・・していますから、「怪しからん人間」とか「世間を騒がす親子」と言われないように気を遣うのです。むかし、アメリカの文化人類学者のルイス・ベネディクトが「日本の社会は恥の社会」と言いましたが、反面正しい。犯罪を犯した子どもの親がTVに出てきて「世間を騒がせて、申し訳ない」という場面があります。あれはTVの聴視者に謝っているのでなくて、世間に謝っているのです。聴視者は関係ないからです。先だっての市川海老蔵の事件でも、父親の団十郎が出て謝っていました。昨日は中目黒の夫婦殺人事件の犯人の父親がTVに出て謝罪していました。日本でも、だんだん、家族は関係ないというようになりましたが、まだそうではないようです。世間から厳しく言われたくないと思い、じっとしているようです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。このような積極的な愛が聖書全体の思想です。律法の二大原則ですが、神への愛と他者への愛です。(マタイ22:36-40)。

*「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

「黄金律・ゴールデンルール」というので、今の言葉は知られています。それはキリスト教倫理の原理と言われます。

アメリカで留学生活をしていた牧師が書いていました。車がポンコツ車でしょっちゅう故障をして、道端に止まっていると、何台もの車がとまって「Can I help you?」と声を掛けてくれたそうです。所が、日本では、側をスイスイ通り過ぎるらしい。日本では保険会社・JAF・日本自動車連盟がすぐ来るからかも知れませんね。

この間、川口から東京に京浜東北線に乗りました。優先席がありましたが、私の向かいに若い青年が座っていました。すると乗ってきた中年の男の人が、青年に言葉をかけると、青年は立ち上がって席を譲りました。やがて私の隣の若い女の子が携帯をだしました。するとその中年の男性が、厳しい言葉で注意をしました。この中年の男性は、気の強い方で若い人に注意をしたのだと思います。普通は黙っていますからです。下手したら喧嘩になり、反対に殴られますからです。優先席で携帯の電源を切るのは医療的な目的です。心臓のペースメーカーです。ほとんどの人が電源を切りませんし、老いも若きも使っています。他者に対する思いやりや心遣いがほとんど欠けています。「あなたの親切が明るい車内をつくります」なんて書いていますが、難しいですね。

私の老人ホームでも自分だけの事を考えている人を見ます。エレベーターでも、さっさと乗っていく人と、ドアーを開けて他の方を待っていてくれる人とがいます。恐らくそんな環境に今までいなかったからかなと思います。社会的にそれなりの人々ですが、ホームに入る前に、他者に対する心がけが不必要だったのでしょう。育ちが悪いとは思いません。

愛にはいくつかの種類や性格があります。イエスが愛せよという場合はどんな愛なのかですが、人間的な「GIVE and TAKE」・物々交換ではありません。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と言いました。案外私たちはしています。私もそうです。

何故私たちが人々を愛するかですが、それは「神は全ての人に、分け隔てなく対応される、だからあなた方もです」。別の所でイエスはこう言っています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(ルカ6:36)。また、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)。

「完全」とはその根底には、全的に十分な、欠けのないという概念があり、絶対的完全は、神御自身のみです。御子イエスは受肉された地上の生活において、人としての完全を示された。私たちは神並みの完全は出来ません。無理です。ただ、人についての完全に言及している用例は今日の福音書にもあります。しかし、人間は地上においては罪を犯さない完全さ、欠陥の全くない完全さには到達し得ないのです。私たちの経験で分かります。

しかし、パウロが言うように、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」。ですから、そうするのは、努力をするのは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。(フィリピ3:12)。パウロは「このように考えるべきです」と勧めています。

パウロは罪人である自分を私を、イエスが十字架の死によって救ってくださったことへの感謝と喜びのゆえに、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」て自分を訓練し、神に仕えていくのです。他人と比較したりせず、私たちは自分の達した点を基準として進むものです。神は必ず、私たちの歩みを見つめてくださるのです。そう信じて歩きたいと思います。

キリスト教人生訓は単なる処世術・世渡りとしてでなく、人をいかす言葉です。しっかりと心に留めていきたい。そして私たちの魂の基礎となり、これからの人生を作る言葉として生かしていきたい。                            アーメン