マタイによる福音書5章21〜37節
説教: 安藤 政泰 牧師
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
マタイによる福音書5章21〜37節
私達は律法により救われるのではなく、信仰によって救われるのである、と言うことは良く知っています。信仰さえ持てばどのような事をしても良いのでしょうか。私達には律法は必要無いのでしょうか。よく律法は私達に罪を示してくれる、と言います。しかし、律法の役割はただそれだけなのでしょうか。
私たちには律法と福音が共に同じ様に与えられています。今日はその律法について考えてみましょう。
日曜ごとに聖餐に預かっています。礼拝式文を見ていただくと、アグヌスデイの直前に平和の挨拶を交わします。それは文字通り23・24節の聖書の言葉の具体化です。
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇のまえに残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」
主の聖餐に預かる前にまず互いに主の平安を願い祈り、安らかな気持ちで聖餐を受けます。この聖餐はわたくしたちが、神による家族である証明です。私達はこの主イエスの食卓を囲む家族なのです。前提とされる事は人と人との和解です。しかも、神の前における和解です。このように聖書が示す律法は礼拝の中で具体的に表現されています。それでは聖書が示している律法は私達の日常の生活にどのように拘わり合ってくるのでしょうか。
マタイによる福音書はユダヤ人を対象にして記されたと言われています。律法を守ことに誠実なユダヤの人々を対象としただけあって、特に律法にはきびしくなっているように感じられます。一方、主イエスは神の許しを私達に示しておられます。そのイエスの教えに、ユダヤ人たちは、律法を無視して、自分達の努力を評価しない、として、イエスを十字架にまで追いやるのです。
主イエスの示される律法の成就とは、神の主権の宣言です。
律法は人間の自己完成の道具ではありません。
神のみ心を行う道人が心をこめて歩く道です。
それによって直接救いに入れるか否かにわかれる、そのようなものではありません。律法は人が心をこめて歩く道、それはルターの小教理問答書の十戒の解説によくあらわされています。禁止として記されている律法を前向きに、積極的に受け止めようとしています。どうかこのルターの精神を私達の日常の生活の中で実践したいと願います。