2011年2月27日 顕現節第9主日 「人生と歴史が変わるとき・・」

マタイによる福音書7章15〜29節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆実によって木を知る
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

◆あなたたちのことは知らない。7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

◆家と土台
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章15〜29節


私たちの父なると主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

イエスの「山上の説教・垂訓」の結末に来ました。イエスのフアンだから言うのではないのですが、イエスは偉大な説教家だと思いました。また、人々を引きつける魅力を持った方だと思いました。古今東西、偉大な説教家は言葉にも行動にも人々に強力な影響を与えています。新約聖書はギリシャ語で書かれました。イエスはどんな言語を話したかですが、当時のアラム語・・ヘブライ語の方言・・を話したと言いますが、ギリシャ語だろうとも思います。ギリシャ人と話しているからです。(ヨハネ12:20以下)。通訳を通してではないと思います。聖書の翻訳ですが、今まで、文語訳、口語訳とかあります。文語訳は重々しく、いかにも宗教的な雰囲気に満ちた訳です。たとえば、「さいわいなるかな、心の貧しき者、天国は彼らのもなればなり」です。アラム語をギリシャ語に翻訳したという学者もいますが、私はギリシャ語だと思います。ギリシャ語ですが、当初は新約聖書特有のギリシャ語・・聖霊による・・と考えられましたが、A・ダイスマンという学者の研究で、それは当時・ヘレニズム時代の共通語・標準語と分かりました。それを「コイネー」と言います。意味は「共通」です。今の英語と言えます。ですから、聖書は普通の言葉で書かれました。だからと言って翻訳はどうでもいいとはいえません。ですから、尊厳を持ち、読みやすい翻訳がなされます。私は昔若い頃、今の「新改訳聖書」の翻訳を手伝いました。旧約聖書の「詩編」の下訳で全て訳をしました。私の下訳を専門家が見て直していました。しかし、私が立教大学大学院「本文批評学」(ホンモンヒヒョウ学)を履修しました。それは紀元後2世紀以後の新約聖書の写本を研究して、原本を求める作業です。今では、現在の新約聖書の99パーセントは、原文・・著者が書いたもの・・と言われています。自筆原本を読んでいることになります。有名な外人教授がいましたが、私たちの「新改訳聖書」を「説教している訳」だと言いました。悪口です。みんなヘブル語、ギリシャ語を読めればいいのですが、翻訳は難しい。

聖書をどう見るかが教会内外で論議が盛んです。聖書を特別な書物でこの上もなく重要な書物・・神の言葉と見るか、人間の言葉であり、自由に批判し、分析して扱うことが出来るかで、大きな相違があります。去年の10月に「キリスト教成立の謎を解く」という本が出ました。教会員から、正月にお読みになったらということでしたので、読ませていただきました。聖書を人間の書物として扱い、いろんなテクニックを駆使して批判しておりました。著者のB.D.アーマンは、はじめ、聖書は神の言葉と信じ、すべては正しく、誤りはない(聖書無謬説・むびゅうせつ)を信じていましたが、聖書の矛盾や人生経験から、従来の信仰を捨てて聖書の分析に入りました。専門家でも解きにくい問題もありますし、視点を変えたらと思う点もあり、聖書は聖書で解釈すると言う原則を考えたらとか思います。ただ、今から2000年前ですし、時代の状況が現代と違いますし、多くの資料が存在しないので解釈次第だったり、前提が間違っていたりします。私はこういう問題は、初代教会で・・紀元3-5世紀にすでに起こっていたと感じました。今も姿形を変えて出ていると言えます。私は今の異端・誤った考えとかは、すでにその世紀に起きていたし、今はその亜流・まねをするだけで独創性のないこと・・だと思っています。

聖書の見方はキリスト教会・教団間でも違います。ですから多くの教派・教会・教団があります。さらに一つの教会の中でも違います。年を取った牧師と若い牧師とでも違います。同床異夢・同じ仲間うちでありながら、異なった考えを持つこと・と思うことあります。一つの教会は同じ聖書観、同じ信仰かと思うと、そうでないことが起きます。ルーテル教会は信条・信仰告白・信仰の箇条・堅く信じ守っている事柄を持つ教会ですが、時代で古いとか、合わないと言われます。信条集が本棚で塵をかぶっています。最近は、ポスト・モダン・post-modern・とかパラダイム・paradigm・の転換とかいって、古い考えを超えようとか、一時代の支配的な見方や思考の枠組を抜け出すことが主張されました。特に、人権・・男と女の権利が問題になりました。多分気がついているでしょうが、議長・司会は英語でChairmanでしたが、今はChairairpersonです。看護婦が看護師になりました。英語の書物でよく三人称を「She・he」と併記して書いているのを見ます。デリケートな問題です。教会でも女性の地位の向上を求めて、聖書の考えを否定することがあります。女性は牧師になれるか、なれないかという問題が起こりました。

聖書の読み方、理解の仕方で、論争しています。女性を認めないのは、男性上位の考えだとか、時代遅れの、恥ずかしい考えだとか聞きました。自分の教会の教えを恥ずかしいとは分かりません。ある責任ある牧師は教理は時代で変えることが出来ると発言していましたが、どんな聖書観をしているのか疑問でした。

特に、私は最近の不毛な論争を見ていて、もっと聖書を信徒の方々が読んで欲しいと思います。自分の教団・教会の聖書理解を知っているべきですし、自分の教会の教えをしっかりと持つべきです。牧師が間違ったら、信徒が正すべきです。きつい言葉ですが、知らな過ぎると言えます。そんなところに教勢の不振があると思いますが。自分の教会を愛する信徒になって欲しい。

今朝のイエスの言葉は、神の言葉である聖書を正しく語る者とそうでない者に注意を向けています。なぜなら正しくない教え・教理は誤った道に導き、神の備えている恵みと救いを失う危険があるからです。イエスは二つ見分け方を示しました。「偽預言者を警戒しなさい」とは言葉がきついですが、ですが、警戒するのは彼らが「羊の皮を身にまとって来る」からです。言葉を換えれば「天使の姿」をして来るからです。パウロは「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(二コリ 11:14)。

教会の中に巧言令色・言葉をかざり、顔色をうまくつくろって来るのです。こうしたら、教会は盛んになるとか、誠実で信徒ために深い心遣いなど・・隙を突いて来ます。イエス彼らは「その内側は貪欲な狼」だと。グリムの童話に「赤ずきんちゃん」とい童話がありますが、オオカミの甘い言葉にだまされて、オオカミに食べられます。水面に一滴垂らすと、波紋が広がりますが、いつの時代も教会は、混乱を招いています。

さらに、イエスは実・Fruitsで見分けよとも言います。その正体を見破ることですが、「実」とは何か。外形的姿・形なものですから、「教理・教え」LCMSは言いました。LCMSはアメリカのルーテル教会・ミゾーリー・シノッドですが、私たち日本のルーテル教団の母教会です。厳格な、保守的な教理を保持しています。よく「実」を見るために、私たちは聖書・神の言葉をしっかりと学びたいと思います。

「山上の説教・垂訓」も終わり・クライマックスに来ました。最後の6節ですが、「そこで」という言葉が示すように、この全体の説教のまとめとして話しています。この説教の最初の聞き手は、世の救い主の言葉を聞いて、うっとりとしていたと察します。イエスの説教は終わりますが、決して終わっていません。

ある教会でこんな会話がありました。礼拝が終わって帰り始めた信徒に、外にいた信徒が聞きました。「説教は終わったか」と聞いた。熱心な信徒は「いや、説教は終わっていない。始まったばかりだ!説教を私たちの日常生活の中に取り入れることが、私たちに期されているのだ。私たちの生命が終わるまで、この説教の言葉は終わらないのだ」と答えました。本当にそうです。聖書は時代に沿って訳されます。最良の翻訳を求めて、いろんな訳の聖書が出版されます。日本でもそうです。では、最上の聖書の翻訳はどれでしょうか。皆さんはどう思いますか。私のパソコンには世界の各国の翻訳が入っています。英語?日本語?フランス語ですか。私は一番最良の訳は、誰であろう、私やあなたなのです。自分の体で聖書を翻訳するのです。イエスは少し前でこんなこと言いました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。翻訳という言葉は英語ではTranslateですが、通訳する、解釈する、言い換えるなどです。イエスの言葉を心の中に保ち、それを日々のクリスチャン生活で、行為と行動で通訳し、翻訳する、言い換えるようにとのすすめです。その時に、堅固な永遠の建物を私たちは建てることが出来るのです。

結びの建物に関する譬えは有名です。聖書はクリスチャン・ライフ・生活をしばしば、建物・家について・・まだ未完成の・・しかし、完成に向かっている課程として言及しています。この意味は、私たちが神の国に入る(ゴールする)まで、信仰に、知識に、聖化に・・罪打ち勝って、神のみ心を行う、よい業に・・成長することです。

砂の上の家と岩の上の岩の譬えは説明はいりません。イエス自身が説明しています。「賢い人」「愚かな人」の対比があります。私は新潟地震(1964年)の時、その後、佐渡に行きましたが、6階建ての県営住宅が横転しているのを見ました。地盤が地震時に液体のようにふるまう液状化現象で倒れました。今でも欠陥住宅を見ます。地盤が弱い住宅です。最近のニュージーランドの地震でもありました。

イエスは言います。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と。反対に、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。私たちはどちらの中に入るでしょうか。「賢いひと」、「愚かなひと」ですが。イエスの言うように、彼らが建てた家は同じような天候似合います。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」のです。結果は大いに違います。これらの現象はなにを言うのでしょうか。私は同じような人生で出会う様々な出来事だと思います。二人は幸福や豊かさ、順調な生活をしていますが、人生にはしばしば起こる悩み、苦しみ、死への恐れや心配などがあります。あるいは死の時を迎えるときでしょうか。あなたの人生は何だったのかと問われる時でしょうか。そんな時に私たちは、立つべき、頼るべき保証・保証人・セキュリティを持っているかです。キリスト教信仰は確かな保証を与えてくれます。それはイエス・キリストです。キリストこそ、Rock of Ages 賛美歌では「岩なるイエス」・「代々の岩」と歌われます。その巌(いわお)の陰に守られるのです。だから私たちは試練や誘惑、恐れや悩み、悲しみ、死の恐れ、迫害などの嵐に、身支度出来るのです。

イエスは唯一の誤りのないカウンセラーです。イエスは、私たちの様々な問題に答えを与えてくれますし、その答えは正しいのです。イエスの説教が終わったときに、人々は、その教えに驚いたとありました。それはイエスが神の権威を持って語ったからです。このイエスを自分の主・岩にして、人生と歴史が変わるときを経験してください。アーメン