2011年3月6日 変容主日(顕現節最終主日) 「人はみかけによるのでしょうか」

マタイによる福音書17章1〜9節
説教:安藤 政泰 牧師

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書17章1〜9節


私たちの日常生活は小さな出来事の繰り返しです。そして、その小さな出来事につまずきます。風邪がなおらないと何か悪い病気にかかっているのではないかと考えます。特にある年令に達しているとよけいそうです。

主はこうした日常生活の中にいつでも来ておられることを思い出してください。
日常生活の中で私たちがあまり意識してない行動や言動を主は、聖なるものと結びつけて下さるのです。私たちは同じ行動や言動でも、それを否定的に受け止める時も、肯定的に受け止める時もあります。

教職や信徒は誰によって養育されるのでしょうか。それは、もちろん神により導かれ育てられます。具体的には人を通して実際には行われることがあります。
教会を通して、信徒を通して、教職も信徒も養育されます。相互に養育しあう関係です。人がそれを行うのではなく、神が介在して行われます。

さて、主の変容は私達に隠れた主の姿を見させてくださいます。この主イエス・キリストの姿は私達には顔覆いで隠されているのではなく、主イエス・キリストの受難によって隠されているものです。
16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

主はご自身の受難について弟子たちに明らかにされていますが、弟子はそれと理解することはできない。しかし、この主の変容で弟子達は主の蘇りの姿を知る事ができたはずです。しかし、本当に弟子たちは理解したのでしょうか
残念ながら聖書を読む限りそのようには読み取れません。
17章9節で「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。」

主はこの事を秘密にするように弟子に命じています。何故イエス・キリストはこの事を秘密にされたのでしょうか。私達にとって日常的な事と非日常的な事があります。主イエス・キリストの変容の出来事はこの両方を持っています。それゆえに、人は誤解をする可能性があります。外見によって判断したり、自分の解釈で不思議、不可思議な事を解釈してしまう危険性があるからです。
弟子たちも同じようにこの変容の出来事を本当に理解できたのでしょうか。
ペテロの言動を見ても、決して本当に理解したとは考えにくいです。その時起こった現象に目を奪われてその背後の真実を見ることが出来ないのが通常です。

いわば現象に目を奪われてしまい、真実を見ることが出来ないのです。見かけで判断してしまうのです。
「人は見掛けによらない」と言います。このことの本当の意味は「人は見掛けによる」と言うことです。見掛けで人を判断するのがこの世の中の常です。

この外見で、見掛けで判断する事の危険は、自分のイメージでその人を判断することです。特に外見から判断してしまいがちになることです。自分の中にあるパターンにその人を照らし合わせて、判断するのです。自分の過去の経験を照らし合わせて 理解しようとします。
変容の現状に立ち会った弟子たちがそうであったようです。旧約の記述、自分の見聞、経験などを 尺度に考え判断してしまします。

しかし、こうした誘惑を乗り越えて本当の姿を見ることが出来るようになるのは信仰の目 聖霊の導きにより開かれた目でしか見ることができません。

変容日主の真実は 復活の主の姿 昇天の主の姿です。
それを 主のご受難の前に示された神の恩寵を私たちは知るべきです。
しかも 日常生活の中で、聖霊の導きになりのみ神の恩寵を受けられます。