2011年3月20日 四旬節第2主日 「上昇志向」

マタイによる福音書20章17〜28節
説教:安藤 政泰 牧師

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20章17〜28節


この世の価値観と聖書の価値観

春は人の出入りが多くあります。 転勤の季節でもあるからです。栄転、左遷とその人々により受け取りかたは様々です。都会に転勤になれば、栄転で地方に転勤になれば左遷と単純に人は考えるようです。

この世の価値観です。

この世の価値観を否定したり 悲観的に考えたり、自分の現状を厳密に考え、自分の罪を、自分の業の深さに悩む、それは、この世の価値観に捉われることになります。

自分が否定的に感じたり、自分のマイナスと感じることを、肯定的に、積極的に向き合うことが出来ると時、それを 乗り越えたこたとになります。

それに 捉われ悩むとき、私達はこの世の価値観の支配下にあります。

先日女優の大竹しのぶの話をテレビで見ました

父が教職で アシシの聖フランシスを日本に紹介し、彼を尊敬し清貧生きた方との事でした。

貧しい事を誇る生き方、物にこだわらない生き方をされたそうです。

彼女がある神父と話した時に、この世的な「欲望が無いのですが」「嫌いな人はいないのですが」と尋ねたそうです。そのとき尋ねられた神父は「欲望はありますが」それを「希望」と呼びます。「嫌いな人もいますが」それは その人の「個性」ですと答えたそうです。

一般的に「欲望」はそれを満たした段階で次の欲望が生まれます。

しかし それを得たいと望んでいるときが最も良い時ではないでしょうか。

その人は「自分とは全く違う個性の人」と考えるときに、嫌いな人と向き合うこともできるかもしれません。

聖書ではイエスと共に生活した直接の弟子も又、その弟子の家族も、この世的な価値観をもっていたことを記しています。ゼベダイの子の母は自分の息子の出世を考えてイエスに特別にお願いしています。この願いは私達に取ってみたらば、天国でその指定席をイエスに予約するようなもの、と受け止められます。

宮殿ではなく馬小屋で、都会エルサレムではなくナザレの田舎で、栄光の王座ではなく、罪人を罰する十字架で、これがイエスが身をもって示された道です。イエスは本当に尊い方は仕えられる者ではなく、仕える者であるとしめしておられます。

この母のイエスへの願は、イエスを自分なりに信じ、確信したからこその願であり、子を思う母の願でもあったのでしょう。

自分なりに信じ、それを イエスにぶつけ、願っても良いのです。

それが 唯一のイエスに従う道ではないでしょうか。

「給仕する」と言う言葉のギリシャ語はディアコネオです。

このディアコネオは「塵」コニアと通ってディア、塵にまみれる行為、です。

愛はけっして奇麗事では済みません。塵にまみれ、身を汚す事もしばしばあるはずです。それは、イエスの受難がその事を語っています。

聖書の教える、ひとに仕えると言う事とこの世にしきたりとの間には。ある場合には大きな襞たりがあります。

しかし、私たちはこの世の価値観を否定するのではなく、その向こうに主が示しておられる道を見ようとするとき、私たちはこの世の価値観を超えることができます。

受難の主を裏切った弟子たちは、その現実の向こうに主が希望を示してくださいました。

それが 復活の主であり、昇天の主です。