2011年3月13日 四旬節第1主日 「誘惑をどうする・・・」

マタイによる福音書4章1〜11節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆誘惑を受ける

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書4章1〜11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

(今朝は、始めに東日本大地震のことを覚えています。TVで地震と津波による災害の大きさを見まして、災害に遭われた方がたを思い、心が痛んでいます。その方々の上に、平安があるようにと祈ります。

今日から教会の暦が「四旬節」にかわります。前には「受難節」と言いました。四旬とは40日の意味です。今日から復活祭の前日まで、主の受難・・十字架を覚えて過ごします。十字架の主を見上げて、悔い改めの生活を送ります。そしてキリストの「復活祭」を迎えます。教会のカラーは「紫」になります。祭壇、牧師のストールも紫です。紫は悔い改めを意味しています。

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悪魔・・もしいるとすれば、悪魔の最大の勝利は、人々が悪魔というものは存在しないと、悪魔の存在を否定したことと言えます。現代人は天使的存在を・・良いにつけ、悪いにつけ・・信じません。結婚式を挙げる方に私はオリエンテーションで「天使があなたがたと共にいますように」と祈りますといいますが、はじめきょとんとしています。無理もありません。で私は天使論を述べますが、皆さんはどうでしょうか。いると思いますか。天使の存在は信じるが、悪魔はどうもという人が多い。

でも、私は両方の存在を信じています。天使の働きを言うと、結婚する方は喜んでいました。一寸メルヘンチックですから、良い天使がいて二人のために働いているなんてです。悪魔という存在を私は信じます。そうとかしか思えないような事が起こるからです。犯罪ですが、想像を超えるような凶悪な犯罪があります。最近の犯罪には・・あげませんが、殺人事件で、人間のすることかというようなのがあります。バラバラにしたり、火をつけて殺傷したり、無差別に刃物で襲ったりです。裁判になると、弁護士はたいてい、心神耗弱とか心神喪失とかで責任能力ないと無罪を主張します。

しかし、やはり、何か異常な力が、悪魔的な力が働いているという感じは捨てきれません。聖書でもユダ・・イエスを裏切ったイスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、「銀30枚」でイエスを売るわけですが、悪魔は彼の中に入って、イエスを売ったと言われています。(マタイ、ヨハネ福音書から)。悪魔が入ると言いますが、そう思うことがあります。

人が悪魔に誘われるのは、どんな場合かをイエスは、今日の福音書から教えています。

人間はいろんな欲望を持っています。名誉欲、権力欲、金銭欲、所有欲、性欲などです。人間が死ぬまで無くさないものは、名誉欲と食欲と性欲だと言います。他にあるかもです。

誘惑とは人に罪を犯させるように仕向けることを指します。聖書はあくま・サタンがその原因です。誘惑の手段は「肉の欲,目の欲,暮らし向きの自慢」(ヨハネⅠ・2:16)だと警告しています。アダムとエバもそうですし、キリストもそうです。(創世記3:1-13、マタイ4:1-14)。しかし、キリストはその全てに勝利・克服しました。

私たちの周りには誘惑の手が伸びていますし、内には自分の中にも誘惑の種がありますから、私たちは日常でも、誘惑との戦いがあります。人間は楽なこと易しいことを求めますから、それに悪魔が乗じる事になります。エバは蛇・悪魔の耳によいささやきに負けました。

イエスが受けて誘惑は三つ(ルカとは順序が違っています)ですが、1,名誉欲、2,権力欲、3、自己顕示欲でしょうか。これ誰でもあります。イエスは洗礼を受けて、いよいよ自分の使命に進むのですが、適性検査を受けているようです。もちろん神からです。仕事の免許状を神から与えられるためのテストです。イエスは合格して、メシア・世の救い主、はっきり言えば「世の中の人を救う方」としての働きに立つのです。ある意味では、イエスが誘惑に負けていたら、イエスの十字架も復活もなくて、人々から拍手喝采で迎えられたと思います。イエスは悪魔にひれ伏したら、大きな権威、力を持つ王として、期待していたメシア・王として、ユダヤ人は迎えたでしょう。イエスが期待に反したから、殺されたのです。

イエスは誘惑にあったとき、一言でかたづけました。議論はしませんでした。エバのように。(創世記3:1以下)。神の言葉・聖書の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」、(申命記8:3)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、(申命記6:13)「あなたの神である主を試してはならない」(詩編91:11-12)です。

*「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記8:3)

*「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。(申命記6:13)

*「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。(詩編91:11-12)

このイエスの聖書の引用は旧約聖書の「申命記」と「詩編」です。読んでみると、二つの点が分かります。それは、神第一にして、その言葉を聞き、その神に信頼していることです。イエスはご自分の経験を示していると思います。イエスという方は別世界に済んだ方ではなく、人間と共にいる方でした。イエスは人間の弱さ、もろさ、悩み、苦しみ、強がりなどを知っている方です。イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練(誘惑)に遭われたのです」。(ヘブル4:15)。私は思いますが、そういうイエスだからこそ、イエスに聞くことが出来るのです。体験なしに言っているのではないからです。

パウロは教会の信者にこう言っています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と、続けて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と。「神の武具」とはパウロは続いて書いています。ナイト・騎士のスタイル・服装をあげています。彼の言葉で聞きましょう。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:11-18)。完全武装です。

私たちは完全装備をするほどの誘惑や罪に出会った事はないと言えます。初代教会でも「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。(ヘブル12:4)とありました。平和ですから誘惑なんかないと思っています。

いろいろとパウロは述べていますが、信仰・信頼と神の言葉と祈りになります。神は世界に介入して、創造の業をしているのです。神は悪と戦っているのです。

その戦場に私たちはいるのです。しかし、絶望はありません。なぜなら、その戦いの結末が分かっているからです。パウロはそれについて書いています。ローマの信徒にです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができません。・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(8:31-39)。

一体誰が私たちの将来を握っているのかを、私たちは知っています。だから、私たちは様々な出来事に遭っても、忍耐をし、戦うことが出来るのです。私の好きな聖句の一つですが「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください(口語訳)(詩編31:15)。新共同訳と違います。

注・「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、「あなたこそわたしの神」と申します。(新共同訳)

神のみ手の中にあるから、私たちは信仰の道を歩くことが出来るのです。

パウロはこんなすすめをフィリピの教会の信徒に勧めています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょ」。(フィリピ4:-7)。

ある先生は私たちは「祈ることで悪魔や誘惑から解放」言いました。はじめ私はよく理解できなかったのですが、それは自分が膝を屈めている相手・悪魔より強い、大きな力のある方・・神・キリストに向かっているし、必ず助けてくださるという安心があるからです。それは「虎の威を借る狐」ではなく、また、空元気ではなく、「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって」、歩くことが出来るからです。(エフェソ3:12)。また、神が私たちの中に計画したことは。必ず「その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しているからです。(フィリピ1:6)。

キリストはゲッセマネの園で弟子たちに言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」からと。(マタイ26:41)。また、ペトロも自分の経験からですが勧めています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。(ペトロ5:7-9)。悪魔が・・誘惑するものがほえ猛る獅子のようにとは大げさですが、悪魔がそんな姿で来たら構えて、用心しますが、美しい天使のようだと負けます。悪魔は天使の姿で来ると言いますからです。パウロも「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(コリントⅡ11:14)。

今日の説教は少し時代遅れの感があるように思いますが、神の良き国に抵抗する陰謀のようなものが存在していること、そして悪魔という人格を持った存在がいるということを意識して、信仰を全うしたいと思います。            アーメン