2011年6月12日 聖霊降臨祭 「聖霊が降る」

ヨハネによる福音書7章37〜39節
説教:高野 公雄 牧師

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

ヨハネによる福音書7章37〜39節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうはキリスト教の三大祭りの一つ、聖霊降臨祭です。この日を記念して、皆さまには赤いものを身につけて礼拝に集っていただきました。ちなみに、他の二つの祭りは、復活祭と降誕祭です。教会の暦では、この三つにだけ「祭」という字がつきます。他の祝日や記念日は「昇天主日」とか「宗教改革記念日」といいうように呼ばれるだけです。

聖霊降臨の出来事は、使徒言行録2章1~4にこう記されています。《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。

二千年前のこの日、イエスさまの直弟子たちが集まっていると、突然に激しく吹く風の音と共に、聖霊が舌の形をした炎の姿で弟子たちひとり一人の上にくだりました。赤いものを身につける習慣は、この日の出来事を覚え、私たちもまた聖霊の火の降臨を願い求め、また感謝する心を表しているのです。

「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」と言い、本来、「風」や「息」を意味する言葉です。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されますが、使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれで。なお「舌」のギリシア語は「グロッサ」で、これは6節《だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

ところで、聖霊の力を得た弟子たちは公然とキリストの福音を宣べ伝え始め、その日、新たに三千人が洗礼を受けたといいます(2章41)。聖霊降臨の日は教会の誕生日でもあります。

聖霊降臨は五旬祭の日に起こりました。「五旬祭」は旧約聖書では「七週の祭り」とも呼ばれていますが、この祭りが過越祭の翌日から数えて50日目に行われるために、五旬とか七週という名が付けられたのです。キリスト教ではこの日を聖霊降臨祭という名で呼びますが、それは日本語に限ったことで、ヨーロッパの国々では、旧約の祭りも新約の祭りもどちらも「ペンテコステ」と呼びます。これは、ギリシア語で50番目を意味する言葉をそのまま外来語として取り入れた呼び名です。

ところで、五旬祭(ペンテコステ)は、もともとは小麦の収穫を祝う祭りでしたので、旧約では「刈り入れの祭り」とも呼ばれました。私のストラを見てください。赤い地に実った麦の穂の模様がついています。しかし、この祭りは後に宗教的意味づけとして、エジプトから脱出したのちにシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

一方、ヨハネ福音書7章では、仮庵祭(かりいおさい)にエルサレムに上った際にイエスさまが大声で呼ばわった言葉を伝えています。仮庵祭は9~10月に祝われますが、元来はぶどう・イチジク・オリーブなどの果物を収穫した後の祭りで、「取り入れの祭り」と呼ばれていたものが、後に、宗教的にエジプトからの解放と沙漠の彷徨を記念する祭りとなり、その記念のために一週間、家の庭先や町はずれに仮の庵を建ててそこで暮らすので、仮庵祭と呼ばれるようになりました。ユダヤ教では最も華やかで楽しいお祭りです。

《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日》に、大祭司はシロアムの池から金の器で2リットルほど水を汲み、ラッパが鳴る中、ぶどう酒と共に祭壇に捧げます。水は命のシンボルであるとともに、聖霊の象徴でした。イスラエルの人々は、終わりの日に、神がエルサレム神殿に降り立ち、全世界を支配される、そのときには、エルサレムが世界の中心となり、そこから命の水が四方を潤す川となって流れ出す、と信じていました。大祭司による祭壇への水注ぎの儀式は、そうした信仰を表すものだったのです。

ところが、まさにそのとき、イエスさまは立ち上がり、大声で叫んで言われました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。「渇いている人」とは、命の水すなわち聖霊を求める人、永遠の命を求める人のことです。そういう人は誰でも《わたしのところに来て飲みなさい》とイエスさまは呼びかけます。つまり、イエスさまは、命の水の源は自分だ、と宣言します。これは、ユダヤ教の終わり、新しいキリスト教の始まりを告げる言葉にほかなりません。

私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天を信じるとともに、そのイエス・キリストが神の右の座からの私たちに聖霊を派遣してくださることをも、今を生きる力として信じ、また待望する者とされたのです。

さきほど交読した詩編104編では、すべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われていました。《み顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹きを取り上げられると彼らは息絶え、元の塵に帰る。あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の表を新たにされる》。神の霊こそが人を生かす力であり、私たちは神からの力なしには生きていけないのです。この神について、私たちはニケア信条で「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます」と唱えるのです。私たちのうちに住まわれる神、それが聖霊なる神です。聖霊は、私たちのうちに住むだけではなく、私たちを拠点として、そこから出てゆき、私たちの活動をとおして、他の人にも働きかけます。

それでは、聖霊は何をするのでしょうか。聖霊は、人間の心の奥に触れられるのです。聖霊は、福音が聞かれることを通してキリストと私たちとの接触を打ち立てます。絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それは神の働きによる、または神の憐れみによるとしか言いようがないことです。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。

聖霊はこのように働かれます。私たちは聖霊を通してキリストのものとされたことを、神の子とされたことを信仰をとおして確信させます。しかし、聖霊の働きは、聖霊が私たちの心に入ることで初めて始まるのではありません。それはイスラエルに対する、また神の教会に対する、そしてこの世界に対する神の救いのみ業、すなわちイエス・キリストの言葉と業の全体の中に始まっています。そして、そこから、その教会におけるみことばと聖礼典を通して、聖霊は個人的に私たちの中にも入ってきます。教会はまさしく聖霊から神のことばを通して生まれたのです。そして、教会はある意味でキリスト者である私たちすべての者の母であって、そこで私たちは聖霊を通して神の子に造られ、また生み出されるのです。

聖霊が心の深みに触れた後には、私たちは神に仕えて生きることを始めます。誰もが自分にすでに与えられており、また与えられるであろうさまざまな聖霊の賜物に従って自分の持ち場で仕事にかかるのです。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めようとするときに聖霊が降ったように、また、ペンテコステの出来事でも、最後までイエスについていけなかった弱い弟子たちが福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降ったように、私たちも神からの使命に生きるために、繰り返し聖霊の働きを祈り求めましょう。

聖霊について人間は頭で理解しようとしますが、とても難しいです。聖霊の働きは、そもそも人間の考えを超えた神の働きであって、理解しがたいのです。大切なのは、聖霊を理解しようとすることよりも、私たちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン