2011年7月3日 聖霊降臨後第3主日 「弟子を派遣する」

マタイによる福音書9章35〜10章15節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

マタイによる福音書9章35〜10章15節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》という、要約記事から始まります。ところで、これと同じような言葉は4章23にもあって、そこでは《イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた》と書かれています。マタイによる福音書の5章~7章では山上の説教と呼ばれるイエスさまの教えの言葉がまとめて集められており、8章~9章ではイエスさまが行ったさまざまな奇跡や癒しの業がまとめて書かれているのですが、4章の言葉は、これから語られるイエスさまの言行を導入する言葉として置かれており、きょうの9章の言葉は、5章から9章まで語られてきたイエスさまの言葉と業のまとめの言葉として置かれているのです。

イエスさまが町々村々を巡り歩いて、福音を解き明かし、民衆をいやしたのは、《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》ためでした。群衆が弱り果て、打ちひしがれている様子を《飼い主のいない羊のよう》と言い表していますが、このような比喩は、福音書を書いたマタイの独創ではなくて、旧約聖書の時代の預言者たち以来の伝統的表現なのです。たとえばエゼキエル書34章です。預言者エゼキエルの時代、ユダヤ人は今のイラクに栄えたバビロニア帝国と戦って敗れ、エルサレム神殿は廃墟と化し、バビロン捕囚と呼ばれますが、多くのユダヤ人が帝国の都バビロンに捕虜として引かれていったのです。

《人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない》(エゼキエル34章2~6)。

つまりエゼキエルは、一方で、指導者たちが良い羊飼いではなく、本来なすべき務めを果たさなかったから、このような災いが起きたのだと責めますが、他方で、悲惨な状況におかれて弱り果てている羊の群れ、すなわち民衆を主なる神は憐れんでくださると預言します。

《わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る》(エゼキエル34章23~24)。

神さまが将来良い羊飼いとしてダビデを立ててくださると言うのですが、歴史上のダビデ王自身は預言者エゼキエルよりも300年も前の人です。では、ここで言われている「わが僕ダビデ」とは誰のことでしょう。マタイは、イエスさまが《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》と書いています。つまり、マタイはイエスさまこそが「わが僕ダビデ」として神から立てられた、イスラエルの待望したメシア、良い羊飼いであると言っているのです。ここに、私たちはイエスさまが旧約聖書のメシア預言を成就されるお方であることを見ておきたいと思います。

《そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」》。

5章~9章でイエスさまの言葉と行いによる福音宣教が描かれた後、10章に移ると、いよいよ弟子たちもまた宣教活動に送り出されることになります。これから、イスラエルの12部族を象徴する12人の弟子を福音を宣べ伝える者として送り出そうとしている場面で、その弟子たちに《働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》と命じるのは、不自然な感じがしないでもありません。しかしここでマタイは、イエスさまが弟子たちを派遣したという過去の歴史を記録するだけでなく、これを読む自分たちの教会の人々への呼びかけをも意図しているのです。21世紀のいま、日本ルーテル教団だけでなく、世界中の教会が司祭や牧師のなり手が少なくて、牧者のいない教会が増えている実情があります。私たちの教会では、礼拝の終わりに祈る「教会の祈り」の中で、月の第一日曜には必ず「牧師・宣教師を召し出してください」と祈っています。私たち自身がイエスさまの弟子として招かれ、派遣されるにあたって、自分たちの数も力も足りないことを痛感しながらこう祈るのです。イエスさまが目の当たりにしている群衆も、そしてこの教会に集う私たちも、無力で価値がないように見えるかもしれませんが、「飼い主」と「収穫のための働き手」がいれば、豊かないのちを得、大きな実りとなるはずなのです。

《十二使徒の名は次のとおりである》と、ここで初めて「弟子」ではなくて「使徒」という言葉が出て来ました。使徒という言葉は、イエスさまの生前には使われていなかったのですが、初代のキリスト教会の指導者に対して与えられた称号となりました。ギリシア語ではアポストロスですが、特別な使命を委託され、代表者として「派遣された者」とい意味です。イエスさまの十二人の弟子たちのほか、パウロやバルナバまた主の兄弟ヤコブが使徒と呼ばれています。

ここで十二人の名が二人一組で挙げられているのは、《(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた》(マルコ6章7)ということが背景にあるのでしょう。皆さまもエホバの証人の戸別訪問とかモルモン教会の伝道者たちが二人組で活動しているのに出会ったことがあると思います。十戒の中に《隣人に関して偽証してはならない》(出エジプト20章16)という戒めがありますが、公正を期するために、証人は必ず2人以上でなければならないと定められていました(民数記35章30、申命記19章15)。

《イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい》。

イエスさまご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15章24)と言われますから、地上のイエスさまの目は、まず第一にユダヤ人同胞に向けられていました。この限定は、復活後の派遣命令《あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい》(28章19)で取り払われます。マタイは救いの段階を考えていました。福音はまずイスラエルに宣べ伝えられるけれども、彼らはイエスさまを否定する。そのあとで異邦人への宣教が開始されるとしています。8章11~12にこうあります。《言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう》。

神の憐れみは、それを心から受け入れる器を求めて、ユダヤの村から遠く地の果てまで歩き回っています。教会は自分たちのためにではなく、全世界のためにあるのです。「失われた羊」は群れから離れ、孤立してしまっている人と言ってもいいでしょう。わたしたちのごく身近にも「失われた羊」がいるのではないでしょうか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン