マタイによる福音書9章9〜13節
説教:高野 公雄 牧師
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイによる福音書9章9〜13節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
聖霊降臨後の季節を迎え、きょうから聖卓の掛布も牧師のストラも緑色に変わりました。この緑の季節はきょうから11月の第3日曜まで丸5か月の間続きますが、この季節に、私たちは、イエスさまの言行、話された言葉や行われた業を通して、信仰と生活のあり方について学んでいくことになります。この季節の典礼色・緑は、教会と個々の信徒の「成長」を促す季節であること表すと共に、神にあって与えられる「希望」を表わしています。
本日与えられている福音は、マタイ9章9節から13節までですが、これから、この記事が私たちにとってどのような意味があるか、ご一緒に考えていきたいと思います。
マタイ福音9章ではまず、イエスさまが住んでおられた町、カファルナウムに戻られて後に、中風の人をいやすという出来事が語られます。そしてきょうの9節からの段落は、そこからふたたび旅立とうとした時に、《マタイという人が収税所に座っているのを見かけ》たことから始まります。徴税人マタイの出来事は、中風の人のいやしと同じく、そしてペトロやヨハネたちの召命のときと同じく、彼がまだ何も行動していないうちに、まずイエスさまがマタイに目を留め、マタイを招かれました。《私に従いなさい》。すると、マタイは立ち上がって、すぐにイエスさまに従ったということです。
マルコ福音2章13~17では、この徴税人はアルファイの子レビ、ルカ福音5章27~32では、ただレビとなっています。名前がふたつあったのでしょうか。マタイ10章3節では、十二弟子のなかに、《徴税人のマタイ》と出てきます。伝統的には、十二弟子の一人であるこのマタイが著者であると考えられて、マタイによる福音書は、その名が冠されています。
《収税所》というのは、主な街道に設けられていて、そこを通る人からローマ帝国の通行税を徴収する場でした。そこで収税業務を行う人が《徴税人》です。徴税人は直接にローマ帝国に雇われていたわけではなく、収税所で徴税する権利を買い取ったユダヤ人の「徴税人の頭」に雇われたのです。「徴税人の頭」の中には、ルカ19章のザアカイのように金持ちになった人もいたようですが、彼らに雇われた「徴税人」は、人々から徴収する通行税に自分の手数料を上乗せして収入を得る下積み労働者でした。ほかの仕事が見つからないから仕方なしにする仕事です。彼らは、一般に「不正な取立て」をしていると考えられていましたが、徴税人が「罪人(つみびと)」の代表のように言われる理由はそれだけではありません。神の国であるはずのイスラエルにローマ帝国が税を課すこと自体が神に反することであり、そのローマ帝国の徴税に加担していることが罪深いことだと見なされていたのです。彼らは、ユダヤ民族に対する裏切り者として同胞から嫌悪されていました。
このように見てくると、《わたしに従ってきなさい》というイエスさまの呼びかけが、マタイにとってどれほど大きな喜びであったかを感じるとることができるでしょう。「こんな私でも呼んでくださる」。イエスさまに招かれたことは、彼にとって重荷や負担ではなく、自分の存在に意味を見いだす大きな恵みの体験だったはずです。マタイはイエスさまへの感謝の思いから食事に招いたのでしょう。そこに《徴税人や罪人も大勢やって来》ます。
《ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と》非難します。イエスさまを非難してこういう見方をするファリサイ派とは、当時のユダヤ教の一派で、律法を細かく解釈し、厳格に守ろうとしていた人々でした。律法に熱心な彼らからすれば「律法を学びもせず、守ることもしていない人」は皆、「罪人」の部類に属しました。
さて、イエスさまはなぜ、罪人のレッテルを貼られている人たちと一緒に食事をするというような、当時のエリートたちの批判を招くような行動をとったのでしょうか。それが、きょうの福音のポイントです。
「一緒に食事をする」ということは、人々の絆を生み出し、その絆を確かめ合うという重要な意味を持っています。ユダヤ人にとって一緒に食事をすることは、さらに特別な意味を持っていました。地上で人間同士が共にする会食は、神のもとでの祝いの宴の先取りだと考えられました。地上で共に食事をする共同体は「神に救われる者の共同体」を表していたのです。ですから、ファリサイ派のような熱心なユダヤ人は決して罪人というレッテルを貼られた人とは食事をせず、イエスさまの行動につまずきます。マタイ11章19で、イエスさまは《見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ》とまで言われています。
一方のイエスさまは、だからこそ、罪人と一緒に食事をしたのです。非難に対して、まず、このように答えます。《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である》。イエスさまは「罪人」を「病人」にたとえます。「罪人は救われないダメな人間だ」と見るのではなく、「罪人こそ、救いといやしを必要としている人だ」という見方です。ですから、付け加えて、こうも言います。《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。「正しい人」とは、「自分は律法に忠実に生きていて、神の前に落ち度がない、当然救いにあずかれる人間だ」と自負している人、「罪人」とは、神からも人からも断ち切られ、救いにあずかる資格はないと感じている人のことでしょう。神はそういう人をも祝宴に招待したいのです。
ところで、イエスさまの二つの格言のような言葉にはさまった13節前半の《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》という言葉は、先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書の日課、ホセア書6章6からの引用です。新共同訳ではこうなっています。《わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない》。このように、旧約聖書そのものと新約聖書のおける旧約聖書の引用は、しばしば一致しません。それは、新約聖書が書かれた時代の人々は、ヘブライ語で書かれた原語の聖書ではなく、当時の世界共通語であったギリシア語に翻訳された旧約聖書を用いていたために、言葉に多少のずれが生じているのです。
さて、本題に戻ります。イエスさまは、後に18章10~14で、神にとって「イスラエルの家の失われた羊」がいかに大事かを、「迷い出た羊」のたとえで語っています。羊飼いは迷子になった一匹を救い出すために、九十九匹を野に残して捜し回ります。このたとえは、《そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない》と締めくくられます。私たちの天の《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》方なのです(5章45)。
ルカ福音書でも15章で、罪人との食事の意味を三つのたとえで説明しています。マタイ18章と同じ「見失った羊」のたとえと、「無くした銀貨」のたとえと、ご存じの「放蕩息子」のたとえです。良い羊飼いであるイエスさまは、忠実な残りの者だけではなく、群れ全体のことを配慮してくださるのです。
イエスさまは神の憐れみを言葉で表現するだけでなく、行動でもって実演して見せました。それによって、すべての人々に神の愛を告げたのです。聖書は、永遠の神のみことばです。みことばを読みましょう。書かれた文字の背後から、神は、そしてイエスさまは、あなたに直接に語りかけてきます。そのとき、時間空間を越えて活けるイエスさまがあなたの味方として、あなたと共にいることを実感するでしょう。いま、私たちもまた、罪人を招かれたこのイエスさまの招きを、自分に向けられた招きとして、喜んで受け入れたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン