マタイによる福音書11章25〜30節
説教:高野 公雄 牧師
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章25〜30節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。
マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスさまを受け入れなかった人々のことが語られています。まず2~19節では、投獄されたヨハネが自分の弟子たちを遣わして、イエスさまに「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせます。イエスさまはその質問に対して直接には答えず、こう事実を指摘します。《行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである》(4~6節)。イエスさまが来て、こういう事態を作り出しているのに、人々はその意味を理解できずにいます。神に立ち帰り、神の国の福音を信じることをしません。そのような「今の時代」をイエスさまはとがめて、こう評しています。《今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』。ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(16~19節)。
それだけではありません。続く箇所では、イエスさまのガリラヤ伝道の中心地であった町々、コラジン・ベトサイダ・カファルナウムを名指しして、そのかたくなな態度を非難します。《それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」》。
ガリラヤ湖畔の町カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ湖の漁師であった兄弟のペトロとアンデレ、それともう一組の兄弟ヤコブとヨハネを最初の弟子として召した町であり、またイエスさま自身がガリラヤ伝道の拠点とされた町でもありました。この町の大多数もまた、病気の治療などの御利益(ごりやく)だけをありがたがり、自らの生き方を変えることはかたくなに拒む、といういつの時代の人々にも通じる宗教との付き合い方だったのです。
実際、イエスさまを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいました。しかも、受け入れない人の方が圧倒的な多数だったのでしょう。きょうの福音は、そのような状況の中でのイエスさまの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができます。
イエスさまはこう神さまをほめたたえて祈ります。《天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした》。「これらのこと」とは、イエスさまが言葉と業とで人々に告げ知らせた神の国の福音です。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを受け入れなかった。しかし、「幼子のような者」がイエスさまを受け入れた、と言われています。「知恵ある者や賢い者」とは、学のある人、当時においては、律法についての知識を持っている人のことでした。「幼子のような者」とは、貧しい無学な人のことです。つまり、当時、世間的な評価の高かった祭司長や律法学者たちは、自分たちの知識や力を頼みとし、そのためにイエスさまの福音を理解できなかったけれども、世の評価が低く、社会の片隅に追いやられていた人たちがかえって、イエスさまの福音を受け入れたのです。そして、そのことは神さまのみ心にかなうことなのだというのです。「知恵ある者や賢い者」が心を閉ざし信じないことも、「幼子のような者」、世間的な評価を受けない人々がかえって心を開いてイエスさまを迎え入れ、神に頼ることも、神のみ心であるとして、そういう神さまをほめたたえます。これは、イエスさまが神の国を宣べ伝えても聞かれない事態、人間的に見れば伝道の失敗ともいえる厳しい現実に直面して、深い祈りの中で聞き取った神さまのみ心だったのです。
イエスさまは、以上の賛美の言葉に続けて、祈りで得た確信をこう言い表します。《父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。ここで「子」とはもちろんイエスさま自身のことであり、「子が示そうと思う者」とは、前出の「幼子のような者」のことです。神のみ心と一致して、ご自分の思いもこれら社会の片隅に追いやられている人びとに向けられていることを言い表しています。
この確信にもとづいて、イエスさまは人々に対して大いなる招きの言葉を発します。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。なんと慰め深い呼びかけでしょう。一体、誰か疲れていない人、重荷を負っていない人がいるでしょうか。私たちは皆、どれほどこの招きの言葉を必要としていることでしょう。
当時の人々は、宗教指導者に重い荷を負わされ、疲れ果てていました。このことについて、イエスさまは後にこのように言っています。《律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。》(マタイ23章2~4)。当時の人々の負っていた重荷は、単なる仕事上の重荷ではないし、単なる罪の重荷のことでもありません。律法学者たちやファリサイ派の人たちが、人々に課した戒律という重荷です。人々は貧しい生活のゆえに彼らの課した戒律を守ることができず、劣った者と見なされ、社会の片隅に追いやられていたのです。《彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない》のでした。
しかし、イエスさまは律法学者たちとはちがいます。イエスさまは「あなたにわたしの手を貸しましょう。あなたの重荷をわたしが共に担いましょう」と言って呼びかけておられます。《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。
軛(くびき)とは、荷車や犂(すき=畑を耕す農具)を引かせるために、二頭の牛またはロバを横につなぐものです。「わたしの軛」も「わたしの荷」も、負うべき荷であることは変わりありません。宗教指導者たちの重荷を降ろしたとしても、今度はイエスさまの軛または荷を負うのであれば、同じことだと思うでしょうか。キリスト教に好意的と見られる人でも、よくこう言うのを聞きます。「キリスト教にもいろいろ戒律があるのでしょう?私はとうていそういう戒律を守れるような人間ではありません。私にはキリスト教は無理です」と。
そういう人たちは、この軛が二頭立てであることに気づいていないようです。この軛が二頭立てであることの意味合いについては、パウロがコリントの信徒への手紙で、こう書いていることが参考になります。《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか》(Ⅱコリント6章14)。これでお分かりのように、軛が二頭立てであるということは、自分と誰かが一対となって軛につながれるということです。そして、イエスさまが「わたしの軛」と言ったら、それは一つの軛に、イエスさまと私が一対となってつながれて重荷を引く、すなわちイエスさまが私の重荷を私と一緒になって担ってくださるということを意味しているのでした。ですから、イエスさまを拒み、自分はどんな軛からも自由でいたいという人は、決して重荷を負わずに「安らぎ」を得ている、ということにはならず、旧態依然として自分ひとりでは負いきれない過大な荷を負い続けるということになるのです。
《だれでもわたしのもとに来なさい》という招きに応えて、イエスさまにお願いして、私と一緒に歩んでもらいましょう。私の重荷を一緒にを担いでいただき、荷を軽くしていただき、安らぎを得させてもらいましょう。そして、《わたしの軛を負い、わたしに学びなさい》と言われているように、共に荷を負ってくださるイエスさまから、荷の負い方、人生の歩み方を学びましょう。イエスさま自らが《わたしは柔和で謙遜な者だ》とおっしゃっておられるように、荷も軽く柔和で謙遜な歩みをできますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン