マタイによる福音書13章1〜9節
説教:高野 公雄 牧師
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書13章1〜9節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。
先週はマタイ福音書11章の結びの部分を読みました。そこでは、知恵ある者や賢い者はイエスさまを受け入れなかったけれども、幼子のような者がイエスさまの宣べ伝える神の国の福音を受け入れたこと、そしてそれはイエスさまの伝道の失敗ではなく、それが神さまのみ心であったのだということが語られました。今週の朗読個所はマタイ13章でして、12章が省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスさまの活動と、それに対する人々の反応が伝えられています。
きょうの13章はたとえ話集で、7つないし8つのたとえを収めていますが、イエスさまのメッセージが簡単には受け入れられなかった「今の時代」(マタイ11章16)の人々の現実の中で、それでも神の国は力強く成長している、神の働きは成果を必ず生み出すと語ります。
きょうの福音はその最初のたとえで、「種を蒔く人のたとえ」と呼ばれます。「種を蒔く人」と言えば、フランスの画家ミレーの作品が有名ですが、この絵を題材にした彫刻家・詩人の高村光太郎の銅版画が岩波文庫のシンボルマークとして使われています。
では、きょうの福音を聞いていきましょう。
《その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》。
13章に集められたたとえ話は、ガリラヤ湖の岸辺に集まった大勢の群衆に対して、漕ぎ出した舟の上から語られたものです。ここで群衆は立って聞き、イエスさまは座って語ったとありますが、教師が座って語り、学ぶ者たちは立って聞くというのが当時の普通の姿勢でした。
さて、種を蒔く人のたとえですが、種を蒔く人は、道端や石だらけの所や茨の茂った所にも種を蒔いたというのです。この農夫の蒔き方は奇妙です。日本のやり方なら、種が無駄にならないように、まず畑をよく耕して、石ころや雑草をとりのぞき、「良い土地」にしてから蒔くのが普通でしょう。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが、ふつうの種まきです。
ところが、聖書の学者たちによれば、パレスチナの農民の種まきは私たちになじみのそういうやり方ではありませんでした。彼らは耕す前に、まず土地一面に種を蒔いてしまい、そのあと土地を掘り起こすように耕していったそうです。蒔くときに、石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題にはならないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからなのだそうです。
《イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》とあるとおり、イエスさまは神の国の福音を人々に語るときに、聞く人になじみのあるたとえを用いて話されました。私たちには奇妙に見える種まきですが、イエスさまの聴衆にとっては身近な「たとえ話」だったわけです。
では、このたとえ話は何を伝えようとしているのでしょうか。農夫は麦が刈り取られたあと人の通り道になって固くなってしまった土地、石だらけの土地、茨の生えている土地にも種を蒔きました。次には深く耕されるはずなのですが、そうされなかったのでしょうか。土地それぞれの事情のゆえに実をつけるまでに育つことができませんでした。良い土地にまかれた種はさいわいです。100倍、60倍、30倍の実をつけました。悪い土地に落ちた種が実を結ばないように世の中には苦労に遭うばかりの不運な人もいれば、良い土地に落ちた種がたくさんの実りを産むように幸運な人もいる、と言っているのでしょうか。そんなことではないようです。このたとえ話のポイントはどこにあるのでしょうか。イエスさまは話の結びに、人々にこう言います。《耳のある者は聞きなさい》。まるで、イエスさまは「なぞなぞ」を話して、これを解いてみなさいと人々に問いかけているかのようです。
ここで、ちょっと立ち止まって、礼拝では読まれませんでしたが、このたとえに続くマタイ11章10以下に、イエスさまがなぜ「たとえ」を使って話すのか、その理由が語られていますので、そこで言われていることを見ておきましょう。そこでは、こういうことが言われています。イエスさまの言葉のうちに「天の国の秘密」(マタイ11章11)を見出した者には、「天の国の秘密」は次々に明かされ、「いよいよ豊かになる」けれども、そうでなければ閉じられたままとなるとあります。「天の国の秘密」とは、イエスさまの活動において神が最後的な支配を開始しておられるということであり、そのことを認識する特権を神はイエスさまの弟子たちに許されたのです。弟子たちはイエスさまに聞くことによって、このことが何を意味しているのかということに関する知識を、さらに深く悟ることになります。
つまり、イエスさまは弟子にも弟子以外の者にも同じように「たとえ」を語りますが、「天の国の秘密」に心を開いた弟子には、それは単なる「たとえ」ではなく、秘義を明かす真理の言葉となりますが、心を閉ざす者には「たとえ」にしかすぎません。結果として「だから、彼らにはたとえを用いて話す」(マタイ11章13)こととなるのだ、というのです。
実は、聖書で使われている「たとえ」という言葉は、「格言・比喩・なぞ」など広い意味を持つ言葉です。ここでは、「なぞ」の意味をも含んだ「たとえ」を指しています。「なぞ」とは隠しもするし明かしもするような謎のような言葉です。実話によって単純な考えを伝えるのではなく、「なぞ」は、心をじらすことで洞察へと至らせようとするのです。イエスさまの言葉は、弟子たちには「なぞ・たとえ」ではないが、弟子以外の者には「なぞ・たとえ」に終わってしまうのです。
では、あらためて、この「種を蒔く人のたとえ」が意味することに注目しましょう。
11章18以下にこのたとえの説明が書かれています。それによると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種を蒔く人のほうにあるようです。
4~7節は別々の事柄をたとえているのではなく、全体が種まきに伴う無駄の多さを強調しているのです。それに対比されるのが、実りの豊かさを述べる8節です。農夫は多くの種が無駄になるかもしれないと知っていても、あらゆる所に種を蒔き、実りを待ちます。そのように、イエスさまも人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けます。このたとえは、神は希望の持ちにくい所からも、見事な実りをもたらすことができる、ということを私たちに語っているのです。当時の麦畑は普通の出来が7.5倍、豊作で10倍だったそうです。100倍、60倍、30倍というのは、神さまの働きの力がそれだけ大きいことを示しています。
そしてまた、私たちは《艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま》いますし、《御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで》しまう者です。先週はコラジン・ベトサイダ・カファルナウムの人たちが、こうしたことで熱意を失ってしまったことで叱られたこと自戒の言葉として聞きましたが、この説明の言葉も私たちによくあてはまる事柄です。神のみ旨の確かさを信じましょう。そして、艱難に遭ったとき、誘惑に誘われたときにも、しっかりとイエスさまから手を離さず、しっかりとつかまっていましょう。
いま「しっかりとつかまっていましょう」と言いましたが、その真意は、「イエスさまが私たちをしっかりとつかまえていてくださることをいつも忘れないでください」ということです。イエスさまがしっかりと手を握っていてくださることを知るがゆえに、その応答として、感謝の心で、私も喜んでその手をしっかりと握り返すことができるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン