2011年8月21日 聖霊降臨後第10主日 「パンを増やす」

マタイによる福音書14章13〜21節
説教:高野 公雄 牧師

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

マタイによる福音書14章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音、聖書の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と題された出来事です。小見出しの隣のカッコ書きで書かれた対照個所で分かるように、この記事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書すべてに共通して伝えられています。しかも、四福音書にそろって記されている唯一の記事なのです。きょうの福音は、初代教会のキリスト者がこの信仰に立ち、励まされて、さまざまな迫害や困難の中をくぐり抜けていった物語です。

《イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた》、という言葉から始まります。「これを聞くと」の「これ」とは、この個所の前の段落を指しています。前の段落は「洗礼者ヨハネ、殺される」と小見出しにありますように、イエスさまの先駆けである洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに首をはねられて殺されたことが記されています。イエスさまは洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたことを聞いて、ひとり人里離れた所に退かれたのです。

《しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた》。イエスさまは自分にも危険が及びそうな状況を見て、身を隠そうとされたのではないでしょうか。ところが、そんなさびしいところまで、人々はイエスさまを慕い求めてやってきました。そういう群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれたゆえに、この出来事は起きたのです。

この「深く憐れむ」と訳された言葉は、「はらわた(腸)」を動詞化したもので、「目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む」ことを意味します。これは、聖書では大事な言葉です。たとえば、「善きサマリア人」のたとえです。旅の途中、追いはぎに襲われて半殺しにされ、道端にうずくまっている人がいました。《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した》(ルカ10章33~34)。ここでは「憐れに思う」と訳されていますが、元の言葉は同じです。

また、「放蕩息子」のたとえでも使われています。放蕩に身を持ち崩した息子が帰ってきたとき、《ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した》(ルカ15章14)。ここでも「憐れに思う」と訳されています。

また、「仲間を赦さない家来」のたとえにも表れます。王に莫大な借金をした家来が返済を迫られるが、返せないのでしきりに待ってくださいと頼みます。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》(マタイ18章27)。この「憐れに思う」も同じ言葉です。

これらのたとえで、善きサマリア人も慈悲深い父も柔和な王も、神を象徴しています。そして今日の福音ではメシアであるイエスさまの心を表す言葉として使われています。イエスさまが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動なのです。

《夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」》。人々はイエスさまの跡を追って、人里離れたところに来ています。イエスさまの話しを聞き、なさることを見ている間に夕暮れになりました。弟子たちはイエスさまに進言します。もう群衆を解散させて、各自が村で食べ物を手に入れるようにさせましょう。これは良い考えではないでしょうか。

ところが、《イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」》。イエスさまは人々に買いに行かせるのではなくて、人々の食事を心配しているあなたがた自身が与えなさいと答えます。《食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》とありますから、女と子供を入れると二万人ほどにもなったでしょう。マルコ福音によると、《弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と》(6章37)イエスさまに反問しています。そんな大金は持っていないし、持っていたとしても、そもそもそんなに大量のパンは売っていないでしょう。ですから、《弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」》。イエスさまは「あなたがたが与えなさい」とおっしゃるけれど、弟子たちの手にあるのは、五つのパンと二匹の魚だけです。こんなわずかなものが何の役に立つだろうか。東日本大震災また福島の原発事故の報道を見聞きして、私たちもこの弟子たちと同じ思いにとらわれるのではないでしょう。問題の大きさに比べて、私たちの持てる能力・手段はあまりにも小さいのです。

《イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した》。イエスさまは、どんなに少しのものでも、それをここ、イエスさまのところに持って来なさいとおっしゃいます。そして、それを手に取って、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られました。イエスさまのみ手の中で、そのパンを用いた奇跡が起こり、人々の必要が満たされました。

この出来事から学ぶことは、第一に、「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」という祈りは必ず聞かれるということです。この物語は、その昔、荒野において神がナマを与えられたことをも思い起こされます(出エジプト16章)。ここにはぶどう酒や肉のごちそうは出てきませんが、いま必要最小限のものはすべての者に満たしてくださる神さまの深い憐れみが表されています。イエスさまが天を仰いで賛美するのは、このパンが神から与えられたものであることを強く意識するからです。

第二に、イエスさまは「あなたたちが食べ物を与えなさい」と言われ、ここで弟子たちは給仕役として働いています。この弟子たちの姿は、古代のキリスト者にだけでなく、私たちにも、人々の必要のために働く神の道具として召されていることに気づかされます。「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」と祈り、その祈りの聞かれることを望む者は、その祈りに積極的に関わることが求められているのです。

第三に、たとえ小さなパン五つと魚二匹しかないとしても、神はそれを用いられました。神の国のみわざのために、自分たちの持てる小さなものを提供するよう励ましておられます。「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とあるますが、「パンを裂く」のは、自分ひとりで食べるためではなく、他人と分かち合うためです。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスさまの食事の豊かさです。

第四に、この物語は、《そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》ということで締め括られます。パンは五千人または二万人に配られたことを思うと、裂かれたパンの残りが十二籠であったことは、「足りないかと心配したけど、何とか全員に配ることができた。良かった、良かった」と安堵する、その程度のぎりぎりの余りです。ヨハネ福音では、《人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた》(6章12)とも書かれています。「無駄を出すな。もったいないことをするな」ということです。さもないと、その分だけ誰かが飢えたままでいることになるのです。

聖書は、神の恵みを伝えると共に、私たちが神と出会うことを通して、神が私たちの人生の主となり、私たちの人生を掬い上げてくださることを教えています。