2011年8月14日 聖霊降臨後第9主日 「隠された宝」

マタイによる福音書13章44〜52節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

マタイによる福音書13章44〜52節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、マタイ福音書13章に集められた「たとえ話集」の結びの部分です。きょう読む「たとえ」はすべて、福音書の小見出しの隣にカッコ書きで参照個所が挙げられていないことで分かりますように、マタイ福音書の特ダネ記事です。

きょうの「たとえ」も《天の国は次のようにたとえられる》で始まっています。「天」はマタイ特有の「神」を言い換えた言葉ですから、他の福音書では「神の国のたとえ」と言われます。しかし、学者たちによれば、静的に「神の国」と訳すよりは、動的に「神の支配」と訳す方が良いのだそうです。天の国あるいは天国というと、人が死んだあと行くところ、あの世のことになってしまいますが、このたとえでイエスさまが言おうとしていることは、この世における、つまり私たちの日常における、神の支配、すなわちイエスさまの言行を通して始まっている神の愛の働きを主題としているのです。

さて、きょう最初のたとえは、「畑に隠された宝」のたとえです。《天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》。

タンス預金という言葉があります。銀行などに預けないで現金をタンスの中などに持っていることを言います。欧米ではマットレスの下に隠す人が多いそうです。昔の人にとって、日本でもそうだったでしょうが、盗難の危険を防ぐために金品を壺に入れて土に埋めるのが一番確実な方法と考えられました。隠した場所が忘れられたり、戦争が起こったり、家が途絶えて、そこが畑になったりということもあったことでしょう。埋蔵金を発見というニュースは今でもたまに聞かれます。このたとえでは、事情はどうであれ、宝は畑の中に隠されていました。それを見つけた人は、小作人であって主人の畑で働いていたのでしょう。彼は大喜びで家に帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いとったという話です。

次のたとえは「高価な真珠」のたとえです。《また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》。

古代には真珠の養殖はありませんでしたから、天然の真珠です。滅多に採取できない貴重な宝石でした。ヨブ記28章18に「さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい」とあるように、さんごや水晶に比べ真珠がずっと高価であったことが分かります。そもそも「真珠」という言葉自体が「真の珠」、宝石の中の宝石を意味しています。古代の真珠の産地は、ペルシャ湾や紅海の沿岸でした。商人たちは、真珠を求めるために、イスラエルから遠く離れた場所へ行かなければなりませんでした。そして探していた一つのものを見つけると、やはり、持ち物をすっかり売り払って、それを買うという話です。

さて、これら二つのたとえで、「隠された宝」また「真珠」でたとえられている「天の国」とは、私たちの日常生活を支配しておられる神の愛の働きのことでした。それを農夫は汗して耕していた畑で、商人は遠い外国の仕事先で見つけました。どちらの人にとっても日常生活の中で彼らの宝を見つけ、《持ち物をすっかり売り払って》それを手に入れました。喜んで《持ち物をすっかり売り払って》、彼らが宝とするものを手に入れたのですから、彼らの人生はすっかり新しい、喜ばしいものに変わったことでしょう。宝を手に入れた生活とは、神が彼らを愛し、人生を共に歩いていてくださる、彼らの人生を支え、導いていてくださる生活です。人はこの神の愛の働きをイエスさまの言動をとおして見出すことができるのです。《このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです》(コロサイ2章3)。

ひるがえって、私たち自身にとって一番大切なもの・宝は何でしょうか。お金や宝石そのものでしょうか。マタイ6章21に《あなたの富(すなわち宝)のあるところに、あなたの心もある》とあるとおり、あなたの心が一番大切にしているもの、それがあなたにとっての「神」です。神と名付けられていなくても、一番大切にしているものがあなたの命なら、それがあなたの「神」です。家族が一番大切なものであるなら、あなたにとって家族があなたの「神」です。それがお金なら、お金があなたにとっての「神」です。たとえ自分は無宗教だ、無神論者だと主張するとしても、実は人は何かしら心に「神」を持っているというのが、聖書の人間観・宗教観です。

今もいつも神が私たちの味方として私たちと共にいてくださる、人生を共に歩んでくださるということこそが、地上における「天の国」であり、福音であり、何ものにもまさる宝です。古代キリスト教教父アウグスチヌスはこう言っています。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られたので、私の心はあなたのもとに憩うまで、安らぎを覚えることがありません」。このように、神の愛の働きに私たちの心の目が開かれることが、このたとえのねらいであり、イエスさまが言葉と行いで目指していたことだったのです。

 

「畑の中の宝」と「真珠」のたとえが示すことは、神さまの愛の働きを前提としていますが、神の愛は畑の中、または「アコヤ貝」の中のように人の目に隠されているので、人がその現実に対して心の目を開くこと、そしてその神の真実を見出したならば、それを自分のものとして体得すべく努力をしていくという、人間の反応が強調されています。

しかし、そのことは、天の国に入る条件として、全財産を捨てる覚悟が必要だとか、神の救いは代価を払って買い取ることができるものだなどと誤解してはいけません。聖書の中心は、あくまでも天の国すなわち神の愛の真実は恵みとして賜物として受け取るべきものだということです。私たちは、このことをきょう三番目の「網のたとえ」で聞くことができます。

《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める》。ここで漁をするのは神、集められる魚は人間でしょう。神はいろいろな魚を集められます。神の愛の支配を見つけた人も見つけてない人も招いておられますし、善人だけでなく、悪人をも漏らすことなく救いに招いておられます。神は、生真面目な兄をも放蕩に身を持ち崩した弟をも、分け隔てなく愛した父のように慈悲深いお方です。放蕩息子がまだ遠くにいるのに、もう駆け出していって抱きしめた父です。そう考えると、宝や真珠は神ではなく私たちのことで、《出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》農夫や商人が神のことだというふうにも読めてきます。神は私たちを救うためにすべてを犠牲にしてくださいました。実に、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16)。

このたとえの後半はこう続きます。《網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け》る。今はすべての人が招かれています。そしてそれと同時に人はその招きにふさわしい応答をすることを求められています。

自分の生活の中に神の働きを見ていない人の人生は、暗闇の中を歩いている人のようです。しかし、イエスさまは言います。《あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている》(マタイ13章11)。そしてこう尋ねます。《「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った》。私たちもまた、神の真実・神の愛による支配という「宝」が、日々私たちに臨んでいることにいつも気づき、また互いに分かち合うことができるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン