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2009年5月10日 復活後第4主日 「豊かに実を結ぶ」

ヨハネ15章1~10節

 
説教  「豊かに実を結ぶ」  大和 淳 師
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。
わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した.わたしの愛の中に住んでいなさい。
あなたがたがわたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。

   「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、そう主イエスは、言葉を切り出します。今日のこの御言葉において、父なる神が農夫としてたとえられていることは、しばしば見過ごしにされるのですが、父なる神は、ここではぶどう園の主人ではなく、あえて働く農夫にたとえられています。そして、「あなたがたは、その枝である」。
 

 そして、わたしたちは、ここでもう一つ、父、神は主人ではなく農夫であることと並んで、しばしば見過ごしにしてしまうのですが、ここで主イエスはまず、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃっているのであって、ただ「わたしはぶどうの木」であると言われていないのです。「まことのぶどうの木」なのです。、このイエスが「まことのぶどうの木」であるのは、まさに父である「まことの」農夫がおられるからなのです。この父、「まことの」農夫があっての「まことの」ぶどうの木、そして、その「まことの」ぶどうの木あっての実なのです。そして、「わたしにつながっていなさい」、キリストはここでわたしたちにそうお命じになっています。この「つながっている」ということが繰り返し何度も語られま
す。それがここで主イエスが語ろうとされている中心に関わっていると言っていいでしょう。すなわち、5節「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。

 「まことの木」である「わたしにつながっていなさい」。命令なのです。枝であるあなたがたは木であるわたしにつながっている、という現在形、単なる状態だけを語るのではなく、尚わざわざつながっていろという命令、呼びかけ、勧告、訴えがなされます。もし、この農夫の存在を忘れると、それは実に奇妙なことをイエスは言っておられるに過ぎなくなります。つまり、そもそも、わたしたちが枝であると言われているのですから、あらためて、その枝に向かって「わたしにつながっていなさい」と言うのは奇妙です。

  しかし、ここで大事なことは、このぶどうの木には、父、真の農夫がおられるということ、このぶどうの木を通して慈しみ、丹精こめて働いてくださる父、その父である神が、他のどれでもない、このイエスという「まことのぶどうの木」の農夫であるということなのです。この父にこそ、わたしたちはつながっていなければならないからなのです。つまり、このぶどうの木につながってさえいれば、あとは放って置いても、わたしたちは実を結ぶのだというのではないからです。このイエスというまことのぶどうの木には父と言うまことの農夫が働くからなのです。つまり、この枝がこのぶどうの木につながっている、わたしたちがこのキリストを信ずる、信じていることができる、いや、こうして生きているのは、それは枝であるわたしたちの業ではなく、実にこの農夫の業があるということ。イエスは、その父の働きがあるからこそ、ご自身、「まことのぶどうの木」であり、わたしたちは実をむすぶのだから、「わたしにつながっていなさい」と言うのです。ですから、枝が木につながっているのは当たり前のことなのに、その当たり前のことが当たり前でなくなっているのだ、それがわたしたちなのだ、そう言っていいでしょう。「まことの木」である「わたしにつながっていない枝は、そのまことの木から離れれば、最早枝ではなく、枯れ木、薪にするしかない存在になってしまう、ということです。つまり、木から離れても枝はしばらくは生きているかも知れない。だがやがて枯れて死んでいくのです。そこにあるのは死の世界、それがわたしたちの言う当たり前の世界なのです。あるいは、こう言い換えていいかも知れません。わたした
ちは、やがて枯れて枝にすぎないのに、あたかも、自分がぶどうの木そのものであるかのように錯覚しているのだ、と。

  ですから、「わたしにつながっていなさい」、そう命じられているイエスは悲しみに満ちておっしゃっているのかも知れません。何故、命から離れて平気でいるのだ、命に帰れ!命から離れるな、父に帰れ!悲痛な思いで叫んでおられる、そう考えていいのではないでしょうか。それ故にの命令形なのです。いえ、それだけではありません。むしろ、このことこそ、わたしたちがここで見なければならないこと、知らなければならないことですが、この「わたしにつながっていなさい」という主の命令、そしてここでただそれだけを命じてい給うこの命令は、何より、このぶどうの木につながっている、否、あの農夫がこのぶどうの木から成長させ、手入れしてくださっている、このわたしたちを、このまことのぶどうの木、主イエス・キリストから引き離そうとする力があるからです。このぶどうの木につながっていても、尚、そのような力、この世の力、死の力、その世界にわたしたちがあることをご存知であり、そして今や、この方ご自身,その力と戦い、勝利され給うからです。それ故、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)、そう言われるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、これは強い言葉です。何も、です。

  ことごとく、一切なのです、Nothing!なのです。言うまでもなくそれが死、その力です!それがキリストから離れたところの世界なのです。 今、ここにいるみなさまの中に、この教会の群れにも、病や苦難を通して今まさにそのような死の力が襲ってきている、そして、その死の力と闘っている兄弟姉妹がおられのです。あるいは、肉親、ご家族がその最中にいて、共に苦しみ、闘っておられる兄弟姉妹がおられるのです。主はそれ故命じ給うのです、「わたしにつながっていなさい!」そして、わたしたち自身誰も、その力がこの肉体を、そして何よりわたしたち自身の心を蝕んでいこうとしているのを知っています。体が弱るとき、心も弱るのです。しかし、「わたしにつながっていなさい!」今やわたしたちが、それ故耳を傾けるのは、見上げるのは、そのように命じ給う方です。あなたがたは既にわたしにつながっている。父である農夫がおられるのだから。しかし、わたしはあえてあなたがたに言う、「わたしにつながっていなさい!」、命、目に見える死の力ではなく、命、わたし自身を見なさい!わたしは十字架にかかる、だがわたしは命、復活!農夫は最早農夫自身のためにあるのではなく、そのぶどうの木のためにあるように、今そのぶどうの木であるわたしが、その枝であるあなたがたのためにある。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11章25節)。わたしだけが復活であり、命なのではない。復活とは、あなたが生きることなのだ!あなたがわたしと共に、そしてそれ故、父と共に!「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15章5節)。

  「わたしにつながっていなさい!」、これは命の言葉なのです。何故なら既につながれているからです!たとえどれほど死の力がわたしたちを襲い来るとしても、それ故、「豊かに実を結ぶ」。命を結ぶ!今日、復活後第四主日、それは伝統的にはラテン語でCantate、「歌え」の主日。Cantate、「歌え」、それは詩篇98篇1節「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」のみ言葉からきています。そうです、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」からこそ、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」のです。先ほど、体が弱るとき、心も弱ると申しました。しかし、わたしたちは今は体が弱ればこそ、心を躍らせ、新しい歌を主に向かっていきましょう、この主につながっている一人ひとりの人生の、一人ひとりの命の歌を、主に向かって!「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」!

2009年5月3日 復活後第3主日 「Jubilate! たとえ悲しくても、喜べ!」

ヨハネ21章15~19節
大和 淳 師

彼らが朝食を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれら以上にわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの小羊を養いなさい」。
イエスはまた二度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロはイエスが三度目も自分に、「あなたはわたしを愛するか?」と言われたので、悲しんだ。そして彼はイエスに言った、「主よ、あなたはすべての事をご存じです.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた.しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」。
イエスはこう言って、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示されたのである。こう言ってイエスは彼に、「わたしに従って来なさい」と言われた。

今日、復活後第3主日は、古くは「喜べ Jubilate」と呼ばれた主日です。「喜べ」、イースターを迎えたわたしたちは今日そのように呼びかけられています。しかし、今日ご一緒に聴く福音書に登場するペトロにとって、キリストの復活と「喜び」、それは決して、当然のことではありません。何より、彼は、復活の主を前にして決しておおよそ喜べる人間ではなく、むしろ、それどころか、悲しんだ、悲しみに目を真っ赤にしている人間なのです。その「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しくなった」と訳されているこの動詞のもともとの言葉は、強い心の痛みを表わす言葉です。たとえば、この言葉は、こういうところところで使われています。

マタイが記す、イエスが十字架にかかる直前、最後の晩餐のときのことです。主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」、そうおっしゃった、そのとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マタイ26:21-22)。その「非常に心を痛めて」と同じ言葉なのです。それは、いわば、良心の咎めによって引き起こされた心の痛みです。そして、まさにその時と同じ様に、ペトロは心を痛めているのです。しかし、その十字架の前のときの悲しみと、今ここでのの悲しみについて、決定的な違いがあります。今ここでのペトロの悲しみは、まさに復活のキリストの前での悲しみであるということです。すなわち、「わたしを愛しているか」、端的に愛のゆえに、愛によって引き起こされた悲しみであるということです。パウロは、この悲しみについてこう記しています、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)。「神の御心に適った悲しみ」、その復活の主の御前での悲しみは、Jubilate「喜べ」と呼びかけられる悲しみなのです。

そもそもペトロは何故悲しんでいる、何を心に痛めているのでしょうか。それはただ単に二度ならずも三度まで「愛するか」と問われた、それ故「主は、自分の主への愛を信じてくださらない、・・・自分の言葉を、わたしを信じてくださらない」、そう思ってのことでしょうか。もしそうだとしたら、それは、むしろ傲慢な思いがそこに潜んでいると言わなくてはならないでしょう。つまり「わたしは愛している、それなのに、自分を信じてくださらない・・・」、結局は自分の正しさに固執していることになるでしょう。もちろん、ペトロは、主イエスのこの「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」に対して、また彼もまた率直に「はい」と答えているように、他の誰よりもイエスを愛していると言えるのです。それは、このヨハネ福音書6章に記されていることからも確認できます。それはこの主イエスから「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)ときのことです。そもそも主を愛するとは、旧約聖書を含めて、聖書では信ずることと同じですが、いわば、その代表として、あなたがたもわたしから離れ去りたいかと問われたのに対し、ペトロは直ぐさま「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えたのです。そして更に、主が、ご自身の受難、十字架の死を予告されたとき、即座に「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言ったのもペトロです。ペトロは、その時ただ自ら命がけに愛する、そのことを誓ったのです。全く激しい誓い、誰にも負けない愛であったのです。しかし、その結末は、何より、その時、主ご自身が「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、そのように言われた、そのとおりになったのです。

他ならないこの主ご自身の言葉、「鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、その主イエスが今あらためて三度、「わたしを愛するか」と問うた時、それはまた同時にこの「あなたは、三度わたしのことを知らないと言う」、その主の言葉が重なってペトロを揺り動かしているのです。それは、ペトロがただ単にあの夜の自分のしたことだけを思い起こして、ただそれを悲しんでいるのではありません。そうだとしたら、ペトロは「わたしを愛するか」という主の問いに直ぐに「はい」とは答えられなかったし、むしろ、「いいえ、そんな自信はわたしにはありません」としか答えられなかったでしょう。

三度キリストのことを知らないと言ったペトロ、しかし、今彼は三度、「あなたはご存じです」と答えるのです。彼は、たとえ悲しくても「はい、あなたはご存じです」と答えるのです。つまり、ペトロの悲しみは、ここでこういうことを語っているのです。〈主よ、他の誰でもない、あなたが、あなただけがご存知でした、わたしのすべてを。あなたはすべてを知っておられ、それでもあなたは、わたしを見捨てず、わたしから離れず、こうして今、わたしと相対してくださっています。主よ、わたしは誰にも負けないほどあなたを愛します。・・・。しかし、悲しく情けないことにわたしはあなたから離れてしまいました。でも、わたしは今分かります、わたしがあなたを愛したからではなく、あなたがわたしを最初に愛してくださったことを。あなたはご自身、そんなわたしの愛を少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるでわたしの愛がなければならないかのように、わたしの愛を、わたしを求めてくださっています。主よ、あなたが一切をご存知です、わたしがあなたを愛していることを!主よ、あなたが知ってくださっている、それだけで十分です!主よ、あの夜のわたしであるからこそ、わたしはあなたを愛さずにはおれない、あなたと共に生きていきます!〉そのようにペトロは、たとえ悲しくても、ジュビリターテ「喜べ」の人間となったのです。復活の主と向き合って、主の愛に捉えられて生きていくのです。

それゆえ、このペトロが、ここで主イエスによって「わたしを羊を飼いなさい」、そのように立てられるのは、このペトロ自身の自らの後悔に由来するのではないのです。そうではなくて、まさにこの復活の主、キリストととの出会いだからこそである、そうヨハネ福音書は語る、このペトロの涙を、この復活の主との出会いの喜びの中で記す、わたしたちの心に刻み付けるのです。悲しみを抱く者よ、心に痛みを持ち続ける者よ、この主のみ前で泣け、思いっきり泣くが良い、そして「喜べ」、その復活者の招きを伝えるのです。
ですから、復活の主と向き合って生きる、それは、最早これまで熱心さがどれほど足りなかったかを主は問うのではなく、また、わたしたちがどれほどこれから勇気が必要か、どれほど信仰が強くなければならないかでもないのです。むしろ、おおよそ、逆なのです。そのようなわたしたちがなし得るかなし得ないか、もっと言えば、わたしがそのために死ねるか死ねないか、にあるのではないのです。むしろ、そのとき主から離れた人間 ― つまり、かつての彼自身に過ぎないのです。

要するに、キリスト教信仰とは、わたしたちが思いつめて、いちかばちかのようなことではありません。思いつめれば、いや思い詰めればこそ人間は愛するもののために死ねるでしょう。あのかつての特攻隊の若者たちは本当に真剣に、祖国のために、いや、実際はそうではなく、彼らは親や兄弟、妻や恋人、家族のために、少なくともそう信じて死んでいった、まったく純粋に!その純粋さは本当に心を打ちます!しかし、わたしたちの思う純粋さ、熱心さとは、またあの十字架の夜、ペトロのその愛が剣を抜いたように、他者の命まで奪うということもある、そのような悲しさを伴っているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)、パウロの言葉を思い起こさずにはいられないのですが、わたしたちの純粋さ、熱心さはしばしば、わたしたちを思いつめさせ、思い込みへと駆り立てる、その時、人はそこでどれほど非人間的になるのかを、わたしたちは経験します。昨今、耳にするどうしてこうも簡単に人が人の命を奪うことも出来るのか。そして他人事ではありません。わたしの日常生活の中で、いや、教会の中でも、自分の思いつめ、思い込みから逃れられず問題が起こる、自分に対してのみならず、家族に、他者に、非人間的にふるまってしまう。だが、それは一見強いように思えても、ペトロがあの夜身をもって体験したように日常性の中では音もなく倒れ、崩れ落ちていくのです。死、罪の力とは、そのようにわたしたちに忍び寄って来るのです。

そのような人間の純粋さがここで求められているのではないのです。実際、ここでの主イエスのペトロへの問いが、あたかもそのような純粋な殉教への招きとして解されたりします。確かに、ここには、このペトロ自身の殉教の死まで暗示されているからです。しかし、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」!そうです、「あなたは、わたしに従いなさい」、ただ従う、導く方に従う、問題はただそのことだけなのです。

今日の福音書は、先週の日課でありましたが、直前の21章1節以下の出来事と密接に結びついています。そこで復活の主は、そこでペトロたちにまず第一に、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われたのです。すると彼らは、「ありません」と答えざる得なかった。何もない、「ありません」とペトロたちは、この方に告白しなければならなかったのです、わたしたちは何も持っていません、と。つまり、ペトロは最早、あるかのようにふるまう必要はなかったし、ないことを隠す必要もない、役に立たないものであることを隠す必要はないのです。すべてはそこから始まるのです。わたしたちの無力、貧しさ、しかし、それは、「主の慈しみ」のもとにある無力であり、貧しさであり、無能さに過ぎません。そのようにして、わたしたちは、この復活の主、そのあふれる豊かさ、栄光の方の前に立っているのです。そして、ここでも同様にペトロを通して、わたしたちは更に深く主のみ前に立っています。ペトロはまた改めて、この主のみ前に今度は一対一で、まさに裸で、何もないままに立つのです。そして、できないことに思いつめてではなく、また出来ることに思い込んででもなく、まさにそのように、何もないわたし自身のままに!

そして、この前の出来事では「シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(7節)ことが記されています。そして、今日のここでは「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と主は言われます。この「帯を締め」るという言葉は、もともとの言葉では、実は先の7節の「上着をまとって」と同じ言葉なのです。すなわち、彼は、今まで自ら「上着をまとって」「帯を締め」て今主の前に立っていました。しかし、主は言われます、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。他の人、すなわち、主イエス自らが、今何もない、裸になった彼の「帯を締め」、彼を携えていくのです。

それを実に不自由な生き方と想像するとすれば、それは違います。これは、むしろ、解放の言葉です。自由へとペトロは召されているということです。彼の行きたいところに行こうとした時、彼はキリストを三度も否んでしまったからです。わたしたちも自分の行きたいところにいけることが自由だと思っていないでしょうか。しかし、どんな勇気も、豪胆さも崩れ落ちていく。本当の自由とは、出来ない、何もない自分を受け入れるところにあるのです。否、正確に言えば、そんなわたしが、それにも関わらず受け入れられているところから生まれるのです。あなたも、わたしも、このあるがままで!わたしたちは、このペトロに命じられた主の言葉に驚かずにはいられません。「わたしの羊を飼いなさい」。このペトロを、今やご自身の代わりに主は牧者として立てられるのです。主は、その彼を用い、必要とし続けてくださるのです。この主はどこまでも人間と共にあろうとされ、人間を愛し、求める神、それが故に死を乗越え、勝利された方であり給うからです。

このペトロと同様、主はあなたのすべてをご存知です。主イエスはすべてを知っておられ、それでも、あなたを見捨てず、あなたから離れず、あなたと相対してくださっています。この方はご自身、あなたの愛を本来少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるであなたがいなければならないかのように、わたしを、あなたの愛を求めてくださっています。主が一切をご存知です、あなたが主を愛していることを、いや、主が一切をご存知である、それだけで十分なのです!だから、わたしたちは、この主を愛さずにはおれない、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか!」tp。

たとえこのわたし自身は悲しくても、いえ、今は悲しいからこそ、「喜べ(Jubilate)」の人間、この復活の主の愛に捉えられて、わたしたちは生きていけるのです!

2001年10月7日 「シャローム・レーケム」

“シャローム・レーケム”

(ヨハネによる福音書14:27;16:33;20:19,21)

  シャローム―――ご存知のように、ヘブライ語の中でも最も美しいことばの一つであります。旧約聖書の中でもそうでありますし、現代ヘブライ語でも同じといえましょう。 今日、最も争いの絶えることのないあのパレスチナにおいて人々は、“シャローム・アレイへム(こんにちは、さようなら)”――“アレイへム・シャローム”と挨拶を交わしているのであります。

  シャローム―――聖書では、平和、平安と訳されます。 戦争と平和といえば、戦争の反対が平和のように考えられるかも知れませんが、シャロームというときの平和は、ただ戦争や紛争の無い状態のことではありません。 なるほど平和を破壊する最大のものは戦争でしょう。 しかし、戦争はあくまでも平和を破壊するものの一つに過ぎません。 平和を壊す最大のものといえますが、そのうちの一つにすぎないことには変わりないのです。 シャロームの敵には、戦争の他に、身近なところから挙げれば、病気と死、事故、盗みと殺人、災害と環境破壊などがあります。 これらによって平和はいつも脅かされています。

  ですから、平和の反対語を強いて挙げれば、それは世界の混乱、つまりカオスとなります。 ある方の定義によりますと、シャロームという言葉は、「全体が統合された状況、つまり、神と他者と自然とに調和して生きる状態を指し示す」 のだと言います。 神と人との関係だけでなく、自然との関係を問題にするところは、極めて今日的な見解といえるでしょう。

  さて、ヨハネによる福音書のことばにご注目ください。 この福音書では、平和という言葉が意外と少ないのに驚かされます。 まるでこの言葉を惜しみながら、大切そうに使っているようにさえみられます。いちばん大事なときにだけ使いたいとでもおもっているのでしょうか。 ではどんなところに平和という言葉でてくるでしょうか。 “平和”と訳されている個所が4箇所ございます。 いずれも現代ヘブライ語訳の新約聖書をみますと“シャローム”と訳されています。

  そのうち2箇所は、14章から16章に及ぶイエスさまの告別説教と呼ばれる二つの説教のそれぞれの結びのところ、すなわち、14章27節と16章33節に出てきます。お読みいたしましょう:

   「平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。 おびえるな。」(14:27)

   「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気をだしなさい。 わたしはすでに世に勝っている。」(16:33)

あとの2箇所は、20章19節と21節、すなわち、復活のイエスが弟子たちのところに現れたときの挨拶のことばとして出てくるのです。 次のように記されています。 お聴きください:  

   その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」 と言われた(19) イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21)
 
  つまり、こういうことになります:イエスさまは、十字架の死の前に、別れの説教で弟子たちに 「平和を与える」 と約束されたとおり、復活されたとき、まず、死と復活をとおして自ら平和の主として現れてくださったというのです。 なんという見事な一致でありましょう。

  14章27節: 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 とあります。 「世が与えるように与えるのではない」、「この世が与える平和」 と 「イエスさまの与える平和」 とでは、その“平和の与え方”が違うというのです。 新約聖書時代のことなら、当時は、“パックス・ロマーナ”、「ローマの平和」 といわれた時代です。 しかし、それは表向きのこと、その裏舞台は、血で血を洗う権力抗争の歴史でもありました。 一般市民にとっては戦争の火の粉が直接降りかかることはありませんでしたが、決して自由とはいえない奴隷制社会であり、また皇帝礼拝の強要される社会でした。 さらには、重い税金に苦しみつつやっと保たれた平和にすぎなかったのです。 だからといって、本当の自由を得るために戦わなければならないといって戦争が正当化されてはなりません。 最初にも言いましたが、戦争は平和を破壊する最大の敵です。 戦争は人間の魂と肉体を絶滅させ、神さまの啓示を見えなくしてしまうからです。今年は56回目の8月15日を迎えたわけでありますが、平和の共同体として神さまからこの世に遣わされているキリストの教会に連なるわたしたちは、改めてこのこと―――戦争を繰り返してはならない―――ということを自らも自覚し、戦争の悲惨さを風化させてはならないと思います。

  マタイ福音書5章の有名な 「山上の説教」 の初めに、八つの祝福が語られていますが、ご存知のとおり、その一つに 「平和を実現する人々は、さいわいである」 とあります。 キリスト者にとって、「平和を実現する人々」 とは何をする人のいことでしょうか。 何か旗を振って、平和運動のような行動を起こすことを求められているのでしょうか。 そこで問題は、ここでいう平和とは何かということです。 聖書でいう平和、神のシャロームはどのように実現されたかということです。

  ローマの信徒への手紙5章のはじめに、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」 とありますように、またエフェソの信徒への手紙2章14節に 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 と告白されていますように、人間にとって根元的な平和は、創造の主である神さまとの間に築かれた平和、それはイエス・キリストの十字架の死による赦しと復活の命によってもたらされたものであります。 ですから、復活のイエスは、はじめて弟子たちのもとを訪れたとき、“シャローム・レーケム(平和があなたがたにあるように)”と宣言され、自ら弟子たちに約束されていたとおり、その実現として平和をもたらされたのでした。

  これがキリストの平和(パックス・クリスティ)の与え方です。 この世の平和は、多くの場合、人々の犠牲の上にかろうじて保たれる平和ではないでしょうか。 広島、長崎の何十万人の尊い生命が失われてはじめてあの戦争が終結したことを忘れることはできません。 しかし、キリストの平和はどうでしょう。 キリストご自身の犠牲によってもたらされたのです。 なんという大きな違いでしょう。

  イエス・キリストにおける神の平和、神のシャローム、聖書によれば、それは、あくまでも神さまの側からの働きかけ、つまり、ヨハネ福音書3章16節の有名なことばにあるとおり、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛され」、自ら人間になられたこと、人間はそのように神さまから目をかけられ、神さまの下に生きる被造物であるということです。  聖書によればまた、神と人間との間に越えがたい、深い溝が存在します。 罪によるさけめです。 遠藤周作氏の言い方を借りるなら、人間の「狂える心」、その奥底にひそむ 「罪の母胎の影」 の存在であります。 ところが、今や、人間の側からどうしても越えられないこの溝が越えられ、克服できないこの影が克服されたというのです。 あの十字架において、それは実現しました。 人間の側からではりません。 神と人間との両方からというのでもないのです。 ただ神さまの側からだけ越えて来られました。 和解、平和とは、実にこのような神さまの一方的な恵みによる救いなのです。 イエス・キリストにおける神さまの愛と力による働きかけです。 わたしたちは、今朝も新しくこの福音を、わたしたちに語られている福音として聴くのです。

  ですから、「平和を実現する」 とは、実に、このイエス・キリストの十字架とその平和を証しすること、そしてその証しをとおして、このイエス・キリストが真の主として、人々のあいだに支配者となることであり、キリストの平和の御国が実現することにほかなりません。
マザー・テレサのことばに:
    沈黙の実は祈りであり、祈りの実は信仰であり、
    信仰の実は愛であり、愛の実は奉仕であり、
    奉仕の実は平和である。
とあります。
「奉仕の実は平和である」。 ご自身のすべてを与え尽くされて神との平和を実現してくださったイエス・キリストに従う者の奉仕によって、平和が実を結ぶというのです。 奉仕する人と奉仕を受ける人との間に神の平和を分かち合うことが生まれるのだとマザー・テレサはいいます。 これこそ平和の実現以外の何でありましょう。 こうして、彼女たちのグループにとって、最も大切な祈りは、あのアッシジの聖フランシスコが祈ったといわれる 「平和の祈り」 だそうです:
    わたしをあなたの平和の道具としてお使いください、
    憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、
    分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
    誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
    闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。
    慰められるよりは慰めることを、
    理解されることよりは理解することを、
    愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
    わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
    自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

  今、世界の人々が最も必要としている祈りは、これではないでしょうか。 ご自身の生涯と死と復活をとおして、平和を実現してくださった主イエスは、復活者として、最初に弟子たちに現れたとき、こうおっしゃいました: 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」 と。 そうです:キリストの教会は、こうして世に遣わされた 「平和の使者」 なのです。

  私たちキリストに従う者は、平和を“与えられている、持っている”だけではありません。 それと同時に、平和を“実現する”者と言われています。そして、それはまずわたしたち一人一人が 「平和の祈り」 を祈ることから始まるのではないでしょうか。

  どうか今週も問題の多い世の中に生かされてはおりますが、家庭にあって、職場において、あるいは学校にあって、人々と出会うとき、キリストの平和に生かされた者として、その平和がわたしたちの人間関係において互いに分かち合うものとなりますように!祈りましょう: