「光と共に」ヨハネによる福音書1章1~14節 藤木 智広 牧師
「光と共に」ヨハネによる福音書1章1~14節 藤木 智広 牧師
「神の愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 藤木 智広 牧師
「壁を越えた助け」ヨハネによる福音書16章4b ~11節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
みなさん、ペンテコステおめでとうございます。約束の聖霊が私たちに与えられました。感謝です。このペンテコステ、教会の始まり、または誕生日と言われますが、ただそのことだけを祝うのではなく、この聖霊の御力、お働きなくしては、私たちの教会の活動も歩みも全く意味をもたないということを、このペンテコステは私たちに伝えているのです。
第2日課である使徒言行録2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。
しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしている大切なことは、聖霊の形や音がどうだったかということ以上に、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。
今日の福音書の中でこの聖霊は「弁護者」と言われています。これはギリシア語でパラクレートスと言います。弁護人、助け手、慰め主と言った訳がありますが、元は「側に呼ばれた者、側に立つ者」という意味の言葉です。側にいてくださり、窮地に立たされた人の側に立って、弁護してくれる人のことを意味するのです。だから助け主とも言われます。主イエスは、弟子たちにこのパラクレートス、弁護者を送ると約束されました
彼らにとっての目に見える弁護者、それはもちろんイエスキリストです。主イエスは罪人の傍らに立ち、彼らの助けとなり、そして赦しをもたらすために十字架にかかられるのです。その神様の愛の御心を示された神様の御言葉を主イエスは語られ、ご自身の生涯をもってして、その御言葉を完成されるのです。その主イエスが弟子たちに、私たちに語ってくださった、示してくださったことすべてを私たちに思い起こさせ、わからせてくれるのが、目には見えない弁護者である聖霊なのです。それは主イエスご自身がヨハネによる福音書14章26節で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言っているとおりです。主イエスは、この聖霊の働きを通して、あなたがたは御言葉に聞き、御言葉に立って歩んで行きなさいと導かれるのです。
しかし、この弁護者は、主イエスがどんなに慰め深い方であったのかということを思い起こさせるだけではないのです。8節で主イエスはこう言われます。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」罪と義はそれぞれ神様との関係、関わりについてです。そして、裁きはその関わりにおける結果的なあり方です。義というのは、正しさということですが、要は神様に救われるという意味です。世の誤りを明らかにする、誤りとは神様の御心に反して、世が与える、または世が認識する罪と義と裁きについて、そこには救いがないということを聖霊は明らかにするのです。「世の誤りを明らかにする」という言葉は、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」と訳されています。世の人の目、すなわち私たち人間の目です。人間の目から見る罪と義と裁きです。それが聖霊によって、すなわち神様の言葉によって世の人の目が開かれるということは、世の人の目が見えていない、盲目であるということを告げているのでしょう。それを新共同訳は「誤り」だとはっきり言うのです。人間の目には誤りがあり、見えていない部分があると。それは、世に生きている私たちの目は本当に見えているのかということの神様からの問いかけでもあります。
山上の説教の中で、主イエスは人を裁くなと言われます。そしてこう言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:3~5)
その自分の目の丸太、盲目であるということを聖霊が明らかにするのです。神様の御言葉を聞くことによって、気づかされるのです。このことを主は弟子たちに言われました。この世に生きつつも、キリストに属するあなたがたは、もはや世の掟ではなく、キリストの掟によって、キリストの言葉に立って、キリストの言葉に生きなさいということを言っているのです。弟子たちもまた盲目になるからです。盲目になって罪を犯してしまう現実の中にあるからです。それは私たちも同じです。
しかし、その丸太に気づかせ、丸太を取り除いてくださるのが、この聖霊のみ力なのです。聖霊の働きを通して思い起こされる主イエスの十字架と復活の救いの御業なのです。その主イエスに信頼せよ、委ねよということを聖霊は私たちに告げます。
パウロはエフェソの信徒への手紙でこう言います。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:14~18)神の武具を身に着けなさいと言われます。私たちの人生における様々な苦難や困難との戦いが現実にあるからです。それは避けようがないものです。しかし、パウロはそのためにも「霊に助けられて祈り、願い求め」と言います。霊に、すなわち聖霊の助けによって、弁護してくださるかたの導きと支えの中にあって、自分ひとりで抗うのではなく、必ず私たちを助けてくださる方の存在を御言葉は告げています。それは自分の目の中にある丸太を取り除いてくださり、赦されて、そして相手を赦すために、他者と共に生きていく道を聖霊は備えてくださいます。そのためにも御言葉を剣とし、信仰を盾とし、救いを兜としてかぶる。その神様の信頼と平安の内に生きていくこと、一人一人の存在を弁護し、御言葉に生かされるようにと、聖霊は私たちを導き、弁護者と、側に立って私たちを助け、神様の恵みへと私たちの目を開かせてくださいます。
聖霊の導きによって、本日の礼拝の中で一人の姉妹が洗礼を受けられ、一人の姉妹が転入式を迎えます。短くも長くも、主によって備えられた求道の道を歩んでこられ、今日この日を迎えられました。喜びと感謝を抱きつつ、お二人のこの教会での信仰生活の歩みの始まりを祝福し、聖霊が彼女たちを励まし、支えてくださることを私たちは切に祈り願います。私たちも自身の洗礼を想起し、ここからまた聖霊の導きによって、新しく始められていく教会生活とその活動を覚えて、祈りつつ、「霊に助けられて祈り、願い求め」てまいりたいと願います。この六本木ルーテル教会の71年のこれまでの歩みに感謝し、聖霊のみ助けによって、共に歩んでまいります。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
「共に生きる平和」 ヨハネによる福音書14章23~29節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音書の中で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)と言われました。わたしの、すなわちキリストの平和と、世が与えるという平和、ふたつの平和ということを言います。平安とも訳せる言葉です。平和、平安、それは誰しもが望んでいることです。ただ、主イエスが与える平和とこの世がもたらす平和は根本的に違うのだと言うのです。
少し先のところで主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)と言われ、この世の彼らに対する迫害がいづれ起こるということを預言しています。このヨハネによる福音書が書かれた90年頃という時代は、教会がユダヤ教徒やローマ帝国といったこの世の支配層、権力者の迫害下にあり、その只中でこの福音書が記されたと言われています。弟子たちに「心を騒がせるな、おびえるな」と言われた主イエスの言葉は、福音書が書かれた時代の教会の人々の心にも深く浸透するものであったでしょう。また、世が与える平和という意味では、当時、キリスト教会の人々にローマ皇帝への皇帝崇拝を強要するということが行われていて、それは、ローマ帝国の皇帝こそ、この世に平和をもたらす偉大な君主であると讃えることが背景にありました。いわゆるローマの平和(パックスロマーナ)と言われるもので、強大なローマ帝国の軍事力における武力、その武力を背景とした力によってもたらされる平和であり、平和のための戦いが繰り広げられていたのです。
ローマの平和を背景に、厳しい迫害下の中にあった教会、キリスト者は逮捕され、殉死していきました。キリスト者、教会というだけで不当に逮捕され、その理不尽さの中で教会は歩んできました。現代の私たちは迫害と聞いても、過去の出来事として、リアルにそのことを受け止めることはできないかもしれませんが、迫害は外からの力であって、それは理不尽さをもたらすものではないでしょうか。キリスト者は何の罪もなく、逮捕され、殉死していったのです。自分には非がないはずなのに、なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか、そういう理不尽との戦いの中に私たちの歩みもあります。この理不尽さとは別のところに、理不尽とは無関係なところに、本当の平和、平安があるように思えるのです。理不尽さとは無関係なところで平安の内に生きていきたいという私たちの思いがあるかと思います。
しかし、主イエスは16章33節で弟子たちにこう言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」世に生きるあなたがたには現実の苦難(迫害)、理不尽さがあるが、その苦難ある世に私は勝っていると言われます。それが「あなたがたがわたしによって平和を得る」、主イエスが与える平和、キリストの平和だと言うのです。
今日の福音書の中で、主イエスは弟子たちに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)、また「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」と言われました。わたしの言葉というのは、神様の教えであり、具体的に言えばそれは先週の福音の中で聞いた「新しい掟」のことです。神様の教えである律法の本質を示された新しい掟、すなわち互いに愛し合いなさいという愛の掟です。この愛の掟に生きる人が、主を愛する人、それは愛の神様のもとに生きる人であります。神様の愛に信頼して生きていく人です。この神様の愛とは何か。この言葉を語られた時、弟子のユダの裏切りが明らかになりますが、ユダの裏切りによって、栄光が示されたと言います。また、後には弟子たちも主イエスのもとから離れ去り、主イエスを愛するどころか、心を騒がし、おびえ、逃げ去ってしまうのです。誰一人として、主イエスの十字架に従うことはできず、自身の弱さや小ささ、無力さが顕になりました。
主イエスの十字架の死の後、弟子たちはユダヤ人たちの目を気にして、鍵をかけて家に閉じこもってしまいます。いつ見つかるかわからないという不安と恐れの中にありました。しかし、そこに復活の主イエスが彼らの真ん中に顕れてこう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)。主イエスが与える平和、それは弟子たちの不安と恐れの真ん中、また彼らの弱さや小ささ、無力さといった闇深きところにもたらされた赦しと愛の平和でした。主イエスが与える平和は、苦難や理不尽さ極まる十字架の死を通って、その闇の只中からの復活の光であり、その平和は罪の最大の敵である死を突き抜けられた神様の平和なのです。弟子たちを裁かれず、見捨てず、その弱さをも受け止められた神様の愛からもたらされる平和なのです。弟子たちはここから立ち上がっていくのです。そして、彼らは、また私たちはそこから主の平和を告げ知らせる福音の使者として、新たな場所に出て行くのです。
「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスは力によってではなく、赦しと愛をもってして、ご自身の平和を私たちに与えてくださり、この平和に生きることを伝えています。「わたしは既に世に勝っている。」世を力で打ち倒して実現する神の平和ではなく、世を愛することにおいて、ひとりひとりの存在を愛し、尊重し、弱さ、みじめさを受け入れ、大切にしてくださる神様の慈しみによって、神の平和は実現し、世の平和に勝るのです。それは、同じヨハネによる福音書3章16節で「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」と主イエスが言ってくださっているところに、神の平和が明らかにされているのです。
だから、心を騒がせるな、おびえるな、主イエスはそう言われます。主イエスご自身の十字架と復活を通して、平和を与えてくださり、そして弟子たちがその平和を経験して、立ち上がることができたのです。キリストの平和の内に、本当の自分を取り戻し、平和によって示された愛の内に、自分の命を見出すことができたのです。私たちもそのように招かれているのです。この平和にある私たちの命、命のありかを希望の内に見出していきたい。その希望の内にあって、神の平和を求め、世に生きつつも、キリストに属して、キリストの言葉から平和について問い続け、歩んでまいりたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。