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2019年12月22日 降誕祭礼拝の説教 「光と共に」

「光と共に」ヨハネによる福音書1章1~14節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆様、クリスマスおめでとうございます。新しい元号である令和初のクリスマスを共に迎えることができたことを感謝いたします。新しい時代の幕開けとなりますこの時に、クリスマスの喜びと恵みを共に聖書の言葉、神様の言葉から聞いて、受け止めてまいりたいと願います。
 
 クリスマスは冬至の季節、すなわち一年間で最も夜の長い日に迎えます。ですから、クリスマスは暗さ、闇が最も極まる時でもあるのです。その極まった深い闇に、すべての人を照らす真の光である救い主イエスキリストが来られ、この光は暗闇の中で輝くのです。
 
 さて、今日の福音書の冒頭にはこう書いてあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「言」が繰り返されています。言から始まり、言葉の内に命、光があります。そして、1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるように、言は神であると言います。だから、神の言によってすべての命が造られ、すべての命を愛し、育む、神様の慈しみと憐れみに覆われた光が照らされているのです。
 
 言葉とはヘブル語で「ダーバール」と言い、そのダーバールには他に「出来事、事柄、行為」という意味もあります。言葉はただ発するだけでなく、出来事となる。だから、神の言葉とは、言ってみれば行動する神ご自身でもあるということです。この言葉によって万物が造られ、私たち人の命が造られた。造った者と、造られた者との結びつきを表しているのが、言葉なのです。
 
 旧約聖書の詩篇119編105節に、こういう言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」わたしの人生の歩み、道、その道案内と言いましょうか、ナビと言いましょうか、それは神様、あなたの言葉そのものですと言われるのです。わたしの歩みは楽しく、喜びに満ちているから光が照らされているのではなく、わたしの人生の全ての出来事の中に、あなたの言葉が及ばないところはない。あなたの言葉が照らすことができない闇などないと言わんばかりに、この作者はこのように告白するのです。この光がどのような私の人生の歩みも照らす共にある光であって、必ず目的地へと導き、自分を支えてくれる約束の光なのです。今日の福音書の9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあるように、世とは私たちの生きるこの地上の世界、私たちひとりひとりの歩みの只中と言えます。その中に来て、すべての人、ひとりひとりを照らし、この光からもれる者はないのだと言うのです。神のみ言葉は私たちの歩みの光、私たちの歩み、人生そのものが光であると言わんばかりに、この光は私たちと共にあるのです。
 
 神の言葉の光について、14節ではこのように言われています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」肉というのは、弱さやもろさを意味します。限りあるものです。それは現実に生きる人を意味します。言は肉となった。神様の出来事は肉において成ったのです。それは、神が人となったという出来事であり、クリスマスの本当の意味、クリスマスの出来事なのです。神がもろく、弱く、小さく、限りある人となった出来事。だから「わたしたちの間に宿られた。」と言うのです。私たちから遠く離れた別次元の世界で、人となったのではなく、私たちと同じ現実の歩みの中にある一人の人として宿られ、この世界にお生まれになったというのです。この肉となられた方がすべての人を照らす光、私たちと共におられるイエスキリストなのです。
 
 この神様が顕された栄光を私たちは見ている。目撃者であると言います。その栄光は恵みと真理とに満ちていた。と言います。言葉が肉となって、肉なる世界全体に恵みと真理とが満ち満ちている。すべての中に、肉なる方、主イエスによって真理と恵みに満たされている。私たちひとりひとりの歩み、命はその中にあって、ちゃんと養われているのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」。主イエスがわたしの道の光であり、命の道しるべです。主イエスご自身が「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)方なのです。
 
 さらに、マタイによる福音書で主イエスは言われます。「あなたがたは世の光である」(5:14)と。自分たちもその光を輝かせていく大切な存在であるとまで言われるのです。ですから、私たちはこの人となられた光にただあやかるだけでなく、この光を受け取って、光と共に生きていくものとされているのです。
 
 光は言から造られ、言は肉となった。そこに恵みと真理が満ちています。私たちと同じ人となられ、飼い葉桶にお生まれになられたイエスキリストが今日私たちに与えられ、すべての人を照らす光としてもたらされました。この光を心に灯して、クリスマスからのまた新しい一歩、令和の新しい時代を共に歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月3日 全聖徒主日の説教 「神の愛にとどまりなさい」

「神の愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆さん、本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝にようこそおいでくださいました。私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、1年に一回、このように皆で集まって、礼拝の時を持っております。そして、私たちは先に召された故人を供養し、故人の平安を求め祈るためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今この礼拝に招かれています。それはまた、生前のこの地上でのご生涯もまた、キリストと共にあって、神様の恵みの内に歩まれたことを思い起こす時であるからです。
 
 そこで今日の聖書の言葉では、このキリストに繋がっていなさいと、有名なぶどうの木のたとえ話を通して、私たちに教えています。5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、わたしたちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結び、生きることができる。木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。主イエスはこのたとえを通して、命のありかを私たちに示しておられます。ただ漠然と死と命の話をされているのではないのです。この私につながることにおける命のありかについて話されているのです。人の生死を握っているには、枝自身ではなく、木の幹であります。自分自身の死も命も、自分自身でコントロールすることはできませんから、この自分の命もまた、自分で得ることができるものではなく、与えられ、必要な養分を頂いて、命を生かしていくことができるのです。
 
 このたとえ話を含むヨハネ福音書の13章から16章までは主イエスの告別の説教だと言われています。弟子たちに語られた遺言です。冒頭の13章1節にはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」父のもとへ移るというのが、十字架にかかって死ぬことを示していますが、弟子たちを愛し抜いた、弟子たちへの愛を貫いたと言います。今日の福音書でも9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と主イエスは言われます。留まるというのも、繋がるということです。主イエスを愛して信じなさいと言われる前に、まずあなたがたを愛しているこの私の愛に留まりなさい、つながっていなさいと言われるのです。でも、この後弟子たちは、主イエスが捕まり、十字架にかけられてしまう時に、怖くなって、逃げ出してしまいます。裏切ってしまう弟子もいました。弟子たちの弱さという面も伺えますが、死を前にして、死が恐ろしくなった姿をそのままに表しているのだと思います。
 
 主イエスは死における私たちの弱さ、もろさを十分に知っています。わたしにつながっていれば大丈夫なのに、なぜあなたがたは離れていこうとするのか。なぜわからないのか。ダメな人たちだと思われていたのではないのです。むしろわかりきっていたことなのです。だから、弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。死の不安、死の出来事からは避けて通りたいというのが私たちの本音であるということを。しかし、主イエスの命を与える愛の約束の中には、十字架の死が含まれているのです。だから、私たちがいずれ迎える死の事実を明らかにしているのです。主イエスは死の事実を無視して、復活の命に目を向けなさいとは言われません。死の事実を通して、自分の死を覚えて、今の自分の命の歩みに目を向けなさいと示されるのです。この死と命の狭間に生きる私たちに主イエスは「わたしの愛に留まりなさい」と言われました。
 
 パウロはローマの信徒への手紙8章35節から39節でこういうことも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35~39)神の愛から引き離せないものの中に、死と命があります。生きている者も、先に召された者も、この神様の愛の下にある、愛のご支配の中にあるのです。強いて言えば、この愛の中に、先に召されたものも生きているということです。主の身許である天に生きているのです。
 
 それは神様の愛であるキリストご自身が、十字架に死に十字架の死から復活したからです。それはこのキリストも私たちと同じように死なれる方であるということ、そのご生涯を歩まれたということです。私たちと同じように、悲しみ、苦しみ、痛みを経験された方なのです。死の世界とは無縁の、理想郷に生き、そこから、復活の命を私たちに示しているのではないのです。先に召された召天者の方が生きて証ししてくださったように、このイエスキリストはそのように、私たちの人生の只中に来てくださり、私たちと共におられる方なのです。
 
 愛は決して、その人を忘れません。そして、神様の愛、それを顕しているイエスキリストは、召天者の生き様を、その愛をもってして、片時も離すことがなく、召天者の方と私たちと共におられる。それはこの地上での生涯を終えた後も続いているのです。
 
 このイエスキリストは十字架に死に、そして復活された方です。死を避けて、命を全うしたのではなく、死を受けて、死を突き破って、命を現したのです。誰よりも、死の悲しみを、死を前にした人間の弱さを知っておられる方です。だからこそ、命の喜びを知っておられる。私たちの命、人生を良いものとして、尊ばれている。その生き様を見つめておられるのです。この生き様は残る。主イエスが死で終わりではなく、命における新しさをもたらしてくださったからこそ、召天者の方々と私たちはこの神様の愛の中に生き続けるのです。
 
 死ですら、キリストの愛の支配下にあって、キリストの及ばないところはないからです。ひとりひとりの召天者がこのキリストの内に留まっていると信じて、この命を与えてくださるキリストに委ね、今を生きているわたしたちひとりひとりもまた、このキリストが与えてくださっている命に信頼して、生きてまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2019年6月9日 聖霊降臨祭の説教「壁を越えた助け」

「壁を越えた助け」ヨハネによる福音書16章4b ~11節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  みなさん、ペンテコステおめでとうございます。約束の聖霊が私たちに与えられました。感謝です。このペンテコステ、教会の始まり、または誕生日と言われますが、ただそのことだけを祝うのではなく、この聖霊の御力、お働きなくしては、私たちの教会の活動も歩みも全く意味をもたないということを、このペンテコステは私たちに伝えているのです。

第2日課である使徒言行録2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。

しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしている大切なことは、聖霊の形や音がどうだったかということ以上に、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。

今日の福音書の中でこの聖霊は「弁護者」と言われています。これはギリシア語でパラクレートスと言います。弁護人、助け手、慰め主と言った訳がありますが、元は「側に呼ばれた者、側に立つ者」という意味の言葉です。側にいてくださり、窮地に立たされた人の側に立って、弁護してくれる人のことを意味するのです。だから助け主とも言われます。主イエスは、弟子たちにこのパラクレートス、弁護者を送ると約束されました

彼らにとっての目に見える弁護者、それはもちろんイエスキリストです。主イエスは罪人の傍らに立ち、彼らの助けとなり、そして赦しをもたらすために十字架にかかられるのです。その神様の愛の御心を示された神様の御言葉を主イエスは語られ、ご自身の生涯をもってして、その御言葉を完成されるのです。その主イエスが弟子たちに、私たちに語ってくださった、示してくださったことすべてを私たちに思い起こさせ、わからせてくれるのが、目には見えない弁護者である聖霊なのです。それは主イエスご自身がヨハネによる福音書14章26節で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言っているとおりです。主イエスは、この聖霊の働きを通して、あなたがたは御言葉に聞き、御言葉に立って歩んで行きなさいと導かれるのです。

しかし、この弁護者は、主イエスがどんなに慰め深い方であったのかということを思い起こさせるだけではないのです。8節で主イエスはこう言われます。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」罪と義はそれぞれ神様との関係、関わりについてです。そして、裁きはその関わりにおける結果的なあり方です。義というのは、正しさということですが、要は神様に救われるという意味です。世の誤りを明らかにする、誤りとは神様の御心に反して、世が与える、または世が認識する罪と義と裁きについて、そこには救いがないということを聖霊は明らかにするのです。「世の誤りを明らかにする」という言葉は、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」と訳されています。世の人の目、すなわち私たち人間の目です。人間の目から見る罪と義と裁きです。それが聖霊によって、すなわち神様の言葉によって世の人の目が開かれるということは、世の人の目が見えていない、盲目であるということを告げているのでしょう。それを新共同訳は「誤り」だとはっきり言うのです。人間の目には誤りがあり、見えていない部分があると。それは、世に生きている私たちの目は本当に見えているのかということの神様からの問いかけでもあります。

山上の説教の中で、主イエスは人を裁くなと言われます。そしてこう言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:3~5)

その自分の目の丸太、盲目であるということを聖霊が明らかにするのです。神様の御言葉を聞くことによって、気づかされるのです。このことを主は弟子たちに言われました。この世に生きつつも、キリストに属するあなたがたは、もはや世の掟ではなく、キリストの掟によって、キリストの言葉に立って、キリストの言葉に生きなさいということを言っているのです。弟子たちもまた盲目になるからです。盲目になって罪を犯してしまう現実の中にあるからです。それは私たちも同じです。

しかし、その丸太に気づかせ、丸太を取り除いてくださるのが、この聖霊のみ力なのです。聖霊の働きを通して思い起こされる主イエスの十字架と復活の救いの御業なのです。その主イエスに信頼せよ、委ねよということを聖霊は私たちに告げます。

パウロはエフェソの信徒への手紙でこう言います。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:14~18)神の武具を身に着けなさいと言われます。私たちの人生における様々な苦難や困難との戦いが現実にあるからです。それは避けようがないものです。しかし、パウロはそのためにも「霊に助けられて祈り、願い求め」と言います。霊に、すなわち聖霊の助けによって、弁護してくださるかたの導きと支えの中にあって、自分ひとりで抗うのではなく、必ず私たちを助けてくださる方の存在を御言葉は告げています。それは自分の目の中にある丸太を取り除いてくださり、赦されて、そして相手を赦すために、他者と共に生きていく道を聖霊は備えてくださいます。そのためにも御言葉を剣とし、信仰を盾とし、救いを兜としてかぶる。その神様の信頼と平安の内に生きていくこと、一人一人の存在を弁護し、御言葉に生かされるようにと、聖霊は私たちを導き、弁護者と、側に立って私たちを助け、神様の恵みへと私たちの目を開かせてくださいます。

聖霊の導きによって、本日の礼拝の中で一人の姉妹が洗礼を受けられ、一人の姉妹が転入式を迎えます。短くも長くも、主によって備えられた求道の道を歩んでこられ、今日この日を迎えられました。喜びと感謝を抱きつつ、お二人のこの教会での信仰生活の歩みの始まりを祝福し、聖霊が彼女たちを励まし、支えてくださることを私たちは切に祈り願います。私たちも自身の洗礼を想起し、ここからまた聖霊の導きによって、新しく始められていく教会生活とその活動を覚えて、祈りつつ、「霊に助けられて祈り、願い求め」てまいりたいと願います。この六本木ルーテル教会の71年のこれまでの歩みに感謝し、聖霊のみ助けによって、共に歩んでまいります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年5月26日 復活後第5主日の説教「共に生きる平和」

「共に生きる平和」 ヨハネによる福音書14章23~29節 藤木 智広  牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日の福音書の中で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)と言われました。わたしの、すなわちキリストの平和と、世が与えるという平和、ふたつの平和ということを言います。平安とも訳せる言葉です。平和、平安、それは誰しもが望んでいることです。ただ、主イエスが与える平和とこの世がもたらす平和は根本的に違うのだと言うのです。

少し先のところで主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)と言われ、この世の彼らに対する迫害がいづれ起こるということを預言しています。このヨハネによる福音書が書かれた90年頃という時代は、教会がユダヤ教徒やローマ帝国といったこの世の支配層、権力者の迫害下にあり、その只中でこの福音書が記されたと言われています。弟子たちに「心を騒がせるな、おびえるな」と言われた主イエスの言葉は、福音書が書かれた時代の教会の人々の心にも深く浸透するものであったでしょう。また、世が与える平和という意味では、当時、キリスト教会の人々にローマ皇帝への皇帝崇拝を強要するということが行われていて、それは、ローマ帝国の皇帝こそ、この世に平和をもたらす偉大な君主であると讃えることが背景にありました。いわゆるローマの平和(パックスロマーナ)と言われるもので、強大なローマ帝国の軍事力における武力、その武力を背景とした力によってもたらされる平和であり、平和のための戦いが繰り広げられていたのです。

ローマの平和を背景に、厳しい迫害下の中にあった教会、キリスト者は逮捕され、殉死していきました。キリスト者、教会というだけで不当に逮捕され、その理不尽さの中で教会は歩んできました。現代の私たちは迫害と聞いても、過去の出来事として、リアルにそのことを受け止めることはできないかもしれませんが、迫害は外からの力であって、それは理不尽さをもたらすものではないでしょうか。キリスト者は何の罪もなく、逮捕され、殉死していったのです。自分には非がないはずなのに、なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか、そういう理不尽との戦いの中に私たちの歩みもあります。この理不尽さとは別のところに、理不尽とは無関係なところに、本当の平和、平安があるように思えるのです。理不尽さとは無関係なところで平安の内に生きていきたいという私たちの思いがあるかと思います。

しかし、主イエスは16章33節で弟子たちにこう言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」世に生きるあなたがたには現実の苦難(迫害)、理不尽さがあるが、その苦難ある世に私は勝っていると言われます。それが「あなたがたがわたしによって平和を得る」、主イエスが与える平和、キリストの平和だと言うのです。

今日の福音書の中で、主イエスは弟子たちに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)、また「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」と言われました。わたしの言葉というのは、神様の教えであり、具体的に言えばそれは先週の福音の中で聞いた「新しい掟」のことです。神様の教えである律法の本質を示された新しい掟、すなわち互いに愛し合いなさいという愛の掟です。この愛の掟に生きる人が、主を愛する人、それは愛の神様のもとに生きる人であります。神様の愛に信頼して生きていく人です。この神様の愛とは何か。この言葉を語られた時、弟子のユダの裏切りが明らかになりますが、ユダの裏切りによって、栄光が示されたと言います。また、後には弟子たちも主イエスのもとから離れ去り、主イエスを愛するどころか、心を騒がし、おびえ、逃げ去ってしまうのです。誰一人として、主イエスの十字架に従うことはできず、自身の弱さや小ささ、無力さが顕になりました。

主イエスの十字架の死の後、弟子たちはユダヤ人たちの目を気にして、鍵をかけて家に閉じこもってしまいます。いつ見つかるかわからないという不安と恐れの中にありました。しかし、そこに復活の主イエスが彼らの真ん中に顕れてこう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)。主イエスが与える平和、それは弟子たちの不安と恐れの真ん中、また彼らの弱さや小ささ、無力さといった闇深きところにもたらされた赦しと愛の平和でした。主イエスが与える平和は、苦難や理不尽さ極まる十字架の死を通って、その闇の只中からの復活の光であり、その平和は罪の最大の敵である死を突き抜けられた神様の平和なのです。弟子たちを裁かれず、見捨てず、その弱さをも受け止められた神様の愛からもたらされる平和なのです。弟子たちはここから立ち上がっていくのです。そして、彼らは、また私たちはそこから主の平和を告げ知らせる福音の使者として、新たな場所に出て行くのです。

「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスは力によってではなく、赦しと愛をもってして、ご自身の平和を私たちに与えてくださり、この平和に生きることを伝えています。「わたしは既に世に勝っている。」世を力で打ち倒して実現する神の平和ではなく、世を愛することにおいて、ひとりひとりの存在を愛し、尊重し、弱さ、みじめさを受け入れ、大切にしてくださる神様の慈しみによって、神の平和は実現し、世の平和に勝るのです。それは、同じヨハネによる福音書3章16節で「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」と主イエスが言ってくださっているところに、神の平和が明らかにされているのです。

だから、心を騒がせるな、おびえるな、主イエスはそう言われます。主イエスご自身の十字架と復活を通して、平和を与えてくださり、そして弟子たちがその平和を経験して、立ち上がることができたのです。キリストの平和の内に、本当の自分を取り戻し、平和によって示された愛の内に、自分の命を見出すことができたのです。私たちもそのように招かれているのです。この平和にある私たちの命、命のありかを希望の内に見出していきたい。その希望の内にあって、神の平和を求め、世に生きつつも、キリストに属して、キリストの言葉から平和について問い続け、歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。