2001年1月21日 顕現節第3主日 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

第1日課   エレミヤ書1:4-8

主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに言われた。「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。

第2日課     コリント人への第1の手紙12:1-11

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じです。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって、知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって、病気を癒す力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

福音書   ルカによる福音書4:16-32

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いて会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には、人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

説教 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

ルカによる福音書の4章16節から32節のお言葉でございます。

今日、皆さんはイエス様が故郷に帰られて最初の説教をなさったことの記事を学ぶことになっております。

与えられた聖句は、イザヤ書の61章の1節と2節のお言葉でございます。その言葉をよく見ますと、イエス様を指しているように解釈が出来ます。神様が多くの人々のことを心配して、例えば貧しい人、そして、その人たちのために救い主に油を注がれたのです。油を注がれるということは、任命することです。イエス様について、「わたしを使わされたのは、捕らわれている人に開放を、眼の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、」イザヤのこの言葉はわたしたちにとっては、ちょっと想像しなければ理解できないようなことですが、「眼の見えない人に視力の回復を告げ」はわたしたちもそうですが、罪のためにわたしたちは今の状態、この世にいる状態では十分にものを理解出来ないのです。何が正しいか、また、何が真理であるかがよく見えないのです。神様が、聖霊がわたしたちを助けなければそれは分からないのです。パウロがこう説明しております。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17)なお、ヨハネがイエス様の仰ったことを引用して、「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20:29)との言葉をわたしたちは思い出します。

わたしたちは、いろいろ見たり、聞いたり、殊に最近の科学の発展、技術の発展、また、昔のことも掘り起こして勉強しているので、いろんな事を知っているつもりですが、本当にわたしたちは分かっているのでしょうか。このイザヤの言葉の『捕らわれている人に解放を』とは、昔の捕虜はひどく侮辱され、いじめられて、身体的にもかなり傷を負わされていたのです。そのように、無理やりに考えさせられたり、押し付けられている状態のことをいっている言葉でございませんでしょうか。わたしたちもそこまでではないですが、自分の思った通りにならない。わたしたちはもっと人が親切であったら良いなと思ったりするときもあるでしょう。或いは、わたしたちのすることもあんまり誉められるようなことではございません。やはり、罪人であること。そして、わたしたちに一番難しいことは、神様がわたしたちをどう思っていらっしゃるかということを学ぶ時、本当に殴られたような痛い思いをします。罪人であると。犯罪人であると。勿論、神様の法律を犯した者という意味でしょう。それで、わたしたちは罪に捕らわれている人で、救い主がわたしたちをそこから解放してくださるということです。

「圧迫されている人を自由にし。」という言葉は、わたしたちはいろんな苦労をして、場合によれば、身体的の病気で体が弱っていく、そればかりではなく、わたしたちの心もかなり疲れて弱っているところを意味して、そこからわたしたちが自由にされたということはイエスさまご自身が私たちの身代わりをなさって、十字架の上でわたしたちの罪を全部負われてそれを全部受けてくださったということが、聖書の教えです。神様がわたしたちにこれをしてもらいたいということです。昔の人たちは、旧約時代の信徒の人たちは、7年ごとに恵みの時があって、その時が7回続いて、49回の後の年には恵みの年、ヨベルという年があったのです。その時は、自分の手放した財産の権利が全部戻されたり、奴隷も解放されるのです。

50年目の年はそのように聖別されて、その一年は休息の年であるのです。人々はいつもの難しい仕事を休んで、ある物でその一年を過ごすのです。そのように、完全にその時の苦労から解放されると言うことを経験したのです。歴史をよく見ると、あんまりこれを守ることは出来なかったようです。ルールとしては聖書にあるのですが、実際には人間はそれを実行は出来なかったようです。そのようにイエス様が、神様がわたしたちの生活までも心配してくださって、わたしたちに安息の年を神様が工夫をしてくださっておられるのに、わたしたち人間はそれを上手に守れなかったように見えます。聖書を読むとそれが書かれています。レビの書物の中にモーゼが書いております。そこで、このような素晴らしい話をイエス様がナザレの人たちに話されて、彼らも感動していたようです。そして聖書にある救い主は何時来られるのでしょうかと考えていたところ、イエス様ご自身が「今日あなた方が耳にした時に実現した」、わたしがその救い主であるとはっきりと彼らに言われたのです。それを聞いて、皆喜んでいたようですが、ある人は「この人は村の大工さんの子供ではないか」と思っていたので、イエス様は彼らの考えていることを察しられて、「あなたがたは医者よ、自分自身を治せと言う諺で、郷里のここでもしてくれという。」と話されたのです。これを現代的に言うならば、それほど素晴らしいことをなさったのですが、わたしたちはうわさを聞いております。それでその素晴らしいことを実演してください。ここでそれをやってくれということです。結局、見世物にしたかったのでしょう。わたしたちの町からこんなに素晴らしい人が出て、病気を治したり、奇跡を行なったりしたということを自慢したかったのでしょう。イエス様はそれを断ったのです。さらに聖書を引用して、エリヤを助けたのはその国の人ではなく隣国のシドンのサレプタのやもめでした。また、その後に、エリシャの時代で、らい病が流行ったときに神様が癒した人は外人であったと、二つとも、イスラエルの人ではなく故郷の人ではなく他の国の人だったとイエス様は仰ったので、町の人たちは興奮してイエス様を崖から突き落とそうとしたのですが、イエス様はそこから逃れられたのです。

この例を見せられてわたしちもちょっと考えるところがあると思います。わたしたちの町、わたしたちの国、わたしたちの周りの人たちに良いことがあることは悪くないことですが、でもわたしたちだけののものとして考える欲望は、少しわたしたちにもあると思います。私もそうね。子供の頃の話で、例えば、昔は韓国の人たちを、朝鮮と言って、いい人ではないと言われたその一言葉が私の心に残って今でもちょっとそう感じることがあります。このように人間が差別をすることは自分が偉い、自分が一番よろしいとそう考えたいからです。自分を他の人と比較して、弱い人がいたら、自分の方が上だと思っていたいのです。本当はわたしたちは神様に愛された罪人ですから、もっと理解あるはずでしょう。わたしたちも本当は、神様のみ前でしたら困った者です。全然なっていないものです。罪人という恐ろしい言葉を聞かされているのです。もう何度も聞かされて欠点だらけだと自分で認めているのですが、それほどは悪いとは思っていない。みんな同じと思っています。みんな同じです。皆このままでしたら地獄へ行くほかはないのです。でも、神様がわたしたちを心配して、御独り子をこの世に送って、わたしたちの身代わりをさせたのです。そして、わたしたちは今十字架を飾っていますが、そのように主イエスさまはわたしたちが受けるべき刑罰を全部御自分で受けられて、完全な方が悪い者の代わりになってくださったのです。丁度、大昔アダムとエバが、最初の人々が罪を犯したからその後の人は皆罪の結果で、その報酬を受けているのです。ですからわたしたちは誰一人も完全な人はいません。そう思ってもいません。人間は欠点だらけな者です。弱みが結構あるのです。精神的だけではなく、身体的にも弱い。いずれは死ぬでしょう。寿命はどのくらいあるかは誰も断言できないのです。そう90歳以上、最近は100歳を越す人もいます。珍しくもないのです。人間は今それだけ長生きになったと誇ることができるでしょうが、でも僅か100年、神様の時間から考えれば、ほんの僅かな時です。歴史を見ても今年は2001年ですが、それを全部通してきた人は一人もいないのです。その僅かな一部分の100年を生きていた人もいるでしょう。でもわたしたちは本当は弱い者です。わたしたちは自分で生きること、永遠に生きる力は持っておりません。病気を治すそうとしてしばらくは、生きようとしますが、でも何時までも生きることはないのです。そこで神様が、わたしたちのことを心配してくださって、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。それは誰かがわたしたちの悪いところを全部補って、それを治して、新しい者にしてくださることがなければ、そこまでも考えることが出来ないのです。でも、神様がそうしてくださったのですから、わたしたちはあんまり良い者ではないのですが、丁度ナザレの町の人たちと同じように、自分が気に入らないことには反対して、あの人をなくそうというようなことを考えるのです。

聖書によりますと、イエス様はナザレを離れてそんなに遠くないところのカファルナウムというところへいらしてそこで仕事を続けられて多くの人に喜ばれたとあります。人々はイエス様の言葉の権威あるのに驚いています。そこまでわたしたちはイエス様のことを思っているのでしょうか。わたしたちはイエス様の有難さを真剣に考えたいことでございます。殊に今日は聖餐式に与るのです。イエス様を頂くという大切な、イエス様ご自身が工夫をしてくださった礼典です。それに与って、神様が、イエス様がわたしたちの中にいらっしゃると言うことも覚えるように工夫してくださって、わたしたち一人一人を強めようとしておられるのです。わたしたち一人一人にとっても大事なことでございます。それでわたしたちは今日も礼拝をして、み言葉を聞き礼典に与ることです。それをして頂いて、今日の良い日を喜んでおりましょう。

2001年1月14日 主の洗礼日 「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら」

第1日課   イザヤ書42:1-7

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは、島々は彼の教えを待ち望む。

主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第2日課   使徒書10:34-38

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって……この方こそ、すべての人の主です……平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです。」

福音書   ルカによる福音書  3:15-22

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうして、ヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

説教  「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら。」

ルカによる福音書の3章の15節から22節のお言葉でございます。

「民がメシアを待ち望んでいた」と。そこで、目の前に素晴らしい人が立っていたのです。ヨハネという人です。イエス様はヨハネを「女から生まれた人の中で一番優れた人」とおっしゃったことがございます。バプテスマのヨハネは人々の目に、深い感銘を与えるような人物でした。それで、人々は「もしかしたらこの方がメシアではないでしょうか。」と人間的に考えれば、そのような立派な方であったのです。声も大きい。背丈もいい。ちょっと服は珍しいものでしたが、でもそういうことは、人間を計るものではなく、人は実際に、正直にまた、正しく話したり判断している人物とヨハネを見て思っていたでしょう。ヨハネはとても気の強い人でした。当時の、パレスチナの一部を支配していたヘロデに対して、面と向かって、「あなたは悪い事をしている。弟の妻を取って、その人と一緒に暮らしている。」と言ったので、ヘロデとその奥さんも怒って、彼を牢屋へ入れてしまいます。ヘロデはヨハネを尊敬していたようで、時々話を聞いていたように見えますが、あるとき娘に騙されて、細君の指図で、ヨハネは殺されますが、これはその前の話です。

まだ、イエス様は人の前に現れていなかったのです。それで一部の人たちは「ヨハネが本当の約束された救い主でないでしょうか。」と思っていたのです。私たちがイエス様と比較してみますと、ヨハネは勇敢な人で、王様にも恐れずに、ちゃんと「これはいけない。」というような人であったのです。それに比べると、イエス様はただの人間のように見られたのです。そして、大人しい方。やさしい方。あんまり人の批判はしません。勿論、必要な時には正直に、話されたでしょう。その話し方は上手であって、それほど、ヨハネのように厳しくは響かなかったようです。この二人を目の前にしている人たちは、どちらが神様の約束の救い主かを考えていたのです。ヨハネはそれを察して、「わたしより優れたお方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)と。火は当時の人にも恐ろしいものでした。そして、旧約聖書のイザヤが「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。するとセラフィムの一人が、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏みで取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」(イザヤ6:5-6)と言っておられます。

また、新約聖書のペトロの言葉ですが、「あなたがたは、終わりの時に現れるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは。心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と栄光と誉れとをもたらすのです。」(第一ペトロ1:5-7)このように、わたしたちの目で見たらちょっとよく分からないのですが、その結果を見たら、確かにイエス様はわたしたちを救うお方であって、時々難しいことが起きるでしょう。試練があるでしょう。でも、その試練そのものも、わたしたちにとってその信仰が本物であるということの証拠でないでしょうかと、ペトロは言っているのです。

「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることが出来たのです。」(第一コリント5:21)これはパウロのコリント人への言葉です。

なお、イエス様ご自身が仰った言葉です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:49-50)

その洗礼というものは、イザヤが言うような火の洗礼ですか。あるいはパウロの言う難しいことでしょうか。考えますと、その洗礼は十字架上で受けられたイエス様のお苦しみです。わたしたちの身代わりとしてなさったこと、すなわち、わたしたちの罪を全部贖うために受けられたものでございます。

イエス様はバプテスマのヨハネによって洗礼を授けられます。ルカによる福音書の記事はマタイやマルコの記事と違って、最も簡単です。でも、大切なことだけが記されていることがよく分かります。「イエスがバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。』という声が天から聞こえました。」(ルカ3:21、22)これは天の神様のお声です。「わたしの愛する子。」と父親が自分の子供に対して、「わたしの心に適う者。」という言葉を追加されています。これはイエス様がその場だけではなく、その後も人々の助けをしたり、人々に神様の御心を話されたりして、最後にイエス様の十字架上のお姿を御覧になっても、それでも「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と、わたしの思っている通りにしてくれる者と父なる神様が仰ったのです。だから、わたしたちにとって、ただ見えるところでの判断は出来ないということを聞かされているところです。そう、リーダー格といったら、見えるところではヨハネは素晴らしい方です。力があって、声も叫んだりしているのですが、イエス様はイザヤの言葉の通りに叫ばない。大きな声を出さない。わたしたち一人一人のことを思い、わたしたちの身代わりになってくださるとイザヤは語っているのです。

そのようにわたしたちはイエス様がヨハネの言う通りに、優れたお方であると考えなければなりません。そう。わたしたちの考えと大分違ったところがありますね。どうして、イエス様という素晴らしいお方が神のお子さんがこのように苦労して、苦しんで、最後は犯罪人として、十字架にかけられるということを受けなければならないかったでしょうか。それをよくよく考えてみると、わたしたちのためにそれをなさった。こうでなければならなかったのです。罪を犯す者は罰を受ける者です。誰がその罰を受けて、全部の人の身代わりになることが出来るのでしょうか。ただ主イエスさまだけですね。ヨハネはその当時は素晴らしく見えたのですが、忘れられて行くのです。ということはどんな人間であっても、神様のみ前では小さい者です。罪人です。でも、わたしたちの聖書で、繰り返し語られることは、神様は罪人のわたしたちを愛して、子供にしてくださる。だから、前にも申しましたが、洗礼を受ける方は、神の子供であるという証拠と考えてもよろしい。いずれはわたしたちも、主イエス様と同じような者になって、天国の門をくぐって永遠に生きるのです。現在の社会で考えられる一番よろしいとの判断よりも、神様が教えてくださる、この救い主イエスさまを大事にして、彼の言葉を一つ一つ心に留めて、イエス様を真似するような生き方をしたいことでございませんでしょうか。神様は確かに、私というものを愛していてくださいます。私たち一人一人はそれを信じて、喜ぶべきことでございませんでしょうか。

2001年1月7日 顕現主日 「神様の愛することは、細かく考えることです」

第1日課   イザヤ書60:1-6

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは指し出でたるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すが良い。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富みはあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いラクダがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

第2日課   エフェソ人への手紙3:1-12

あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなた方は聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富みについて、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に解き明かしています。こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信を持って、大胆に神に近づくことができます。

福音書   マタイによる福音書2:1-12

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に留まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れてエジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」

説教  「神様の愛することは、細かく考えることです。」

マタイの福音書の2章、1節から12節までのお言葉でございます。

クリスマスのお話の中の、ラクダに乗って遠い国から博士たちが来たというお話を若い時から関心を持っておりました。今は、占星術の学者と言われておりますが、これは正確にそうであるかもわかりませんが、当時の博士とは何でも知っている人であったようです。いろんな学問をした人でした。最近は専門の一つをちゃんと勉強をしている人と知られていますが、この場合、昔風の博士とわたしは考えたいのです。また、博士が何人イエス様のところへ訪ねて来たかは、これも、黄金、乳香、没薬という三つの贈り物があったから、一人一人がそれを持ってきて、三人となっていますが、実際にはもっと大勢だったかも分かりません。あるいはもっと少なかったかも分かりません。これは何人とは聖書には書いてありません。もう一つ、クリスマスの話のところで、馬小屋でみんなが集まっているところに博士たちが来てイエス様を拝んでいる絵が、クリスマスカードに描かれているのをよく見ます。実際に聖書を見ますと、先週の説教で、男の子が生まれたら、四十日後に宮参りをするという習慣があったと話しましたが、イエス様もそのように、エルサレムの神殿に連れて行かれてそこでシメオンとアンナいう熱心な老人の信者と会ったのですね。このように、聖書では、博士がいらした時は、十一節にありますが、「家に入ってみると、幼子が母マリヤと共におられた。」と書いてあります。家と書いてあります。馬小屋ではないのです。ですから、しばらくは宿が無かったから仕方なく馬小屋を借りたのかもわかりません。それもはっきりと馬小屋とは書いて無いのですが、でも、飼い葉桶に寝かされたとありますので、馬小屋にあるものですので、それで、馬小屋であったでしょうとわたしたちは解釈しております。

この話しで、一番わたしたちが関心を持つことは、博士たちが遠い国から来たということです。彼らは当時の学問をよく分かっていて、恐らくユダヤ教ではこのようなことがあるということも知って、救い主の約束も知って。それを信じて、遠い国から来たというように考えてもよろしいと思います。少なくても四十日はかかった。二、三ヶ月はかかったでしょう。昔は飛行機は飛ばしていませんでしたから、そんなに早くどこへでも行けなかったのです。だからラクダに乗ってゆっくりと歩いて、恐らく砂漠も通り越して、エルサレムまで来たのでしょう。ということは、ベツレヘムの東側、ヨルダン川を渡ったらほとんど砂漠です。今でも、サウジアラビヤと言う国がそちらの方にあります。ですからラクダに乗ることは当然でしょう。でもここで大切なことは、わたしたちの関心を持っていることは、「よその国の人」ということです。どうしてあんな遠いところからイエスさまの誕生ということを思いながら、来たのかと言うことです。「よその国の人」とはユダヤ人にとっては、異邦人と言っていたのです。わたしたちの言葉では異邦人とは、ただの外国人を意味しますが、ユダヤでは異邦人と言えば宗教が違うことの意味が大きかったのです。その人たちには救いが無いとユダヤの教徒たちは解釈をしていたのです。仲間になるための特別な儀式も行っていたのです。その中に、洗礼式もあったのです。異邦人。外人。でも、考えてみたらわたしたちもみんな外人ですね。ユダヤ人で無いから、国籍としてはそうではないから、異邦人です。そのわたしたちにこの福音が伝わってきた。このことが一番わたしたちに大切なことでございませんでしょうか。遠い東の国はどこかは良くは分かりませんが、贈り物を見ますとアラビアの方に出来るもので、乳香や没薬は少しはイスラエルの国にも出来ると聞いておりますが、その贈り物によって、どこからいらっしゃったかということは分かりません。ただ、大切なことはそのような高価な贈り物を持ってきて、それをイエス様にささげたと言うことです。彼らはイエス様を救い主と信じて、遠い国からの旅でしたがそこまで来たのです。彼らは当然、国の主都である、そこにいる王様の子供でしょうと思って、ヘロデ王を訪ねて聞くのです。それが大変なことになるのです。ヘロデ王も知らない。調べてもらって、聖書学者を集めてそこで、ミカ書の聖句を引用してベツレヘムだということ、すぐ近くの小さい村ですね。そこに生まれるという預言があるのです。それを博士たちに教えました。でも、その話に当時の人たちは恐怖を持ちました。ヘロデ王がどうするか、と。ヘロデ王は有名人だったのです。自分の子供までも殺すような人でした。自分の愛する妻も殺したのです。彼らに対して疑いを持ったから殺してしまったという恐ろしい人でした。それで、エルサレムの人たちは不安を感じたのです。その通りに、その後、ヘロデはベツレヘムの二歳以下の子供を全部殺したのです。小さい村でしたからそんなに大勢では無かったかも分かりませんが、でも一人一人はその親にとっては大切な子供です。それを殺してしまったのです。何人であったかは、色々の説があるのですが、それほど大変なことになりそうだと、エルサレムの人たちは心配していたのです。神様は博士たちをベツレヘムへ行かせて、ヘロデが教えてくれるように頼んだのですが、その言葉を守るなと神様に教えられて、博士たちは違う道を通って自分たちの国へ帰ったと書いてあります。ヨセフもマリアも神様に知らされて、イエス様を抱いてエジプトへ逃げて行くのです。これは二章の十三節にございます。そのように、神様が細かくわたしたちのことを心配して、助けてくださる。守ってくださると言うことが見えるのです。きょうはその大切な一例です。実際はその後ヘロデ王は死にました。いろんな病気を患っていたようです。死んだ後、また国へ帰ろうと思っていたのです。よその国へ旅をすることは出来るでしょうが。ことに知らない土地へ行って、そこへ住むとしたらお金もかかるでしょう。それもちゃんと神様が準備してくださったのです。博士たちの黄金、乳香、没薬という贈り物で。エジプトでは乳香や没薬は彼らの宗教儀式に、殊に埋葬に使う大切な高価なものでした。彼らの欲しがっていたものでした。エジプトにはそのようなものがなかったので、神様が博士たちに持たせて、ヨセフとマリアに渡して、それを持ってエジプトへ逃げることが出来たのです。これも神様の色々工夫なさったことでした。このように、神様が思いがけないよその国の人をわざわざベツレヘムまで送られて、ベツレヘムでイエス様にお会い出来たことも嬉しいことですが、同時に神様は危険なこともよくご存知で、わたしたちの救い主を守ってくださったことをわたしたちは今日聞かされております。わたしたちは知らず知らず、博士たちと同じように、ヘロデという恐ろしい人があそこにいると知らずにいて、エルサレムをちょっと騒がせたことでしたが、彼らの信じる通りにベツレヘムまでお連れになって、帰り道も守られて、またヨセフとマリアも知らされて、イエスさまを連れてよその国へ行くようにして、そこの滞在の費用もちゃんと用意なさったというように考えられます。そのように神様はわたしたちのことも色々心配してくださるでしょう。時々わたしたちも本当に困っていてどうしょうかと思っている時に思いがけないことが起こってわたしたちが助かるということがたびたびございませんでしょうか。わたくしの一生においてもそういうことがあったとわたくしは思っております。中には全然気がついてないときもあるでしょう。神様がちゃんと心配してくださるのですが、わたしたちは頭がそれほど良くないのですから、気が付いてないところもあって、神様に見守られているとわたしたちはのんきにしているのです。それもあるでしょう。とにかく、神様は細かく、わたしたちのことを考えておられます。今日の話しの中でも、くりかえし。いろんな時、いろんな場所で、いろんな違う人をみ守っておられることが見えるのです。

神様は何時までもわたしたちを生かしてはおられません。良いところを準備しておられるのです。そしてその良いところへわたしたちが行かれるように救い主をこの世に送ってくださった。主イエス様がわたしたちの罪を贖ってくださって、わたしたちの足りないところを全部補って、わたしたちはそのときにならなければ分からないでしょうが、わたしたちも天国にいるのに相応しい者に代えてくださるのです。これがわたしたちの信じている信仰でございます。それで博士の話しも、このように神様のわたしたちに対する大きな愛というものを学びました。新しい年に向かって、大きな希望を持っていますが、よく考えれば、すべてがわたしたちの思うようになるとは考えられません。あるいは突然何かが起こって、わたしたちが困ることもあるでしょう。しかし、神様は全てをご存知であって、わたしたちに助けを考えていてくださることを、わたしたちは信じて良いと思います。だから、本当の喜びを持って、一日一日を生きていきましょう。神様に全てを任せて、わたしたちの出来ることはやっていましょう。