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2010年5月16日 昇天主日 「主の証人となる」

ルカによる福音書24章44-53節

聖書では「なぜ」と感じる事がたくさんあります。
同時に、聖書は自分の疑問に直接答えてくれない、と感じる事もあります。
たとえば、マグダラのマリヤはイエスの昇天後どうしたのか?
バラバは許されて後、どんな生活をしたのか?
カナでのワインの残りはあったのだろうか?
復活したイエスの肉体はどんな風だったのか?

ドアーを開けずに部屋に入り、エルサレムに現れたと思えばエリコの途上に 現れる。しかし、聖書はイエスの肉体の様子には少しも触れていません。 どうしてなのでしょうか?

聖書には書かれていない部分が多くあります。
何故、と思っても、書かれていないのですから。
それで、何故、かかれていないのかを考える他はありません。

師といわれる人は一体何をその弟子に求めるでしょうか?
一般的には忠誠を求めるのではないでしょうか。

主イエスキリストは、あの有名なエマオへの道で、ご自身を、聖餐の再現を示 して、証明されました。
それは、私達の受ける聖餐が私達の思いではなく、主の恵みとして与えられて いるからです。その聖餐により、私達は、聖霊の助けを受けて主を見る事が出来るようになるのです。

この出来事の後で師であるイエスが弟子に何を求められたのでしょうか?

それは忠誠ではなく、信仰です。信仰無くしては、許しも救いも無いからです しかも、主イエスはその信仰を弟子の中に認めておられるからこそ、全権をその弟子に委譲する事を明言されています。 復活の主イエスの証人となれ、これが主イエスが弟子に求められたことです。

24:44  イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書 いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒に    いたころ、言っておいたことである。」

予言の成就の意味は、ただそのことが起こり、成就するということにとどまりません。 主イエスは究極的には十字架において、また、その復活によって人々に救いをもたらして下さいます。それは 言い換えると、主イエスは人々に奉仕の業をされたと言うことです。この同じ意味での人々への奉仕の業が私たちにも求められています。

24:45  そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、聖書が予言している内容を、弟子達に、復活のイエスから示されました。

イエスの復活の経験に重なる出来事としての予言の成就です。復活の出来事の中で、復活の出来事の経験として、弟子達に悟らせて下さったのです。イエスは弟子たちに、当人として、または別人として現れて下さいました。見える、触れることの出来る弟子たちと共に居た、あのイエス(当人として)は、ご自身を肉体的に生きている者として弟子たちに証明されました。 同時に別人として、時間と空間から完全に独立した存在として、自然に束縛されず、超越している存在としても弟子たちに現れて下さいました。この別人としての イエスを聖書では 神の栄光に入る、神の本質に属する者として表現しています。聖書では、復活のイエスの新しい肉体の秘密をだれも語ってはいません。また関心も示してはいません。それは弟子たちに取り、十字架に付けられた主は、今私たちと共にここで生きておられる、という確信を与えられたこと、その確信で十分なのです。自分達の生きる意味をこの確信にかけたのが、当時の弟子達です。

この確信が与えられたことにより、ほかの要因や疑問は弟子たちにとり、何の意味も無いものとなってしまったのです。

同じように私たちも、主イエスの弟子として、主が求められる信仰に立ち復活の主イエスの、昇天の主イエスの証人になろうではありませんか。

2010年5月9日 復活節第5主日 「愛という借金を・・・」

ルカによる福音書 14章23-29節, ローマ人への手紙14章8節
五十嵐 誠  師

ヨハネ14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

ローマ13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安がとがあるように アーメン

このヨハネの言葉を書き残した弟子は普通、使徒ヨハネと言われています。母はサロメで、イエスの母マリアと姉妹といわれるので、イエスのいとこになります。ガリラヤ湖の漁師でしたが、イエスの使徒・弟子になりました。生涯はよく分かりませんが、晩年は小アジアのエフェソの市に住んでたという伝承があります。そして、教会の集会で語る時には「幼子たちよ,互いに愛し合いなさい」と言うのが口ぐせであったと伝えられています。で、愛の使徒」とも言います。ヨハネはひじょうな高齢まで生きていたと言われています。他の弟子たちが殉教していますが、彼だけが地上の生をおくったと言われます。

この言葉を書いたヨハネという弟子はイエスの遺言的な言葉を彼の福音書の13章から書いています。それは「最後の晩餐」の席のことです。十字架に付く前日のことです。18章の一節まで、相当長い話を記録しています。中には印象的な出来事や言葉がたくさんあります。イエスは「心を騒がせるな。おびえるな」と言う言葉を何回も言っていますが、今日読んだ所にもありました。それはイエスを取り巻く騒然たる動きを感じて、弟子たちが動揺し、不安でいるのを見て、弟子たちを励ますために、後のことを思い測って語られたものです。イエスが「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」ために話されたと言っていますようにです。 弟子たちの不安や動揺を静めるために、イエスは二つのことをこの遺言で強調しています。一つは弟子たちが「互いに愛し合うこと」です、二つは「弁護人」の約束です。弁護人とは原語では「助けるために側に立つもの・呼ばれたもの」です。いろいろな状況においても助け,守り,新しい勇気を与える方であることを示しています。で「弁護人」「助ける者」と訳されます。これについては後日します。5月23日の聖霊降臨祭です。

今朝は愛についてですが、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」を考えます。私を愛する人は、私に言葉を守る」です。イエスを愛する人は「私の言葉を守る」と言いましたが、私の言葉とは何かです。漠然とした内容ですから、 前後関係から私は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」だと考えます。(13:34)。新しい掟・命令です。そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネ13:35)。)

イエスが使う「愛」という単語は特別な意味を持っています。普通は「神の愛」と言います。神の愛とは聖書では「アガペー・ajgaph)というギリシャ語で言い表します。今日の聖書の「愛する」はそれです。それに対向する愛は「人間の愛」になります。それを「フィレア・filiva」と言います。意味は「友情」的な意味です。難しく言うと、ギリシャ語には四つの愛の単語があると言いますが。

私は二つで説明します。人間の愛はどちらからと言えば、お互いに好意を感じるという点にあります。お互いに好きである・好意を感じるから関係が成り立ちます。これを「好意の環流で成り立ちうる愛の関係」と言います。大体私たちはそうです。恋愛なんかいい例です。よく見ると、それは「価値判断」になります。ですから価値がなくなるとか、お互いに好意がなくなると離れることになります。友人とか恋愛中の男女間の破局はこれです。「みそこなった」「そんな人とは思わなかった」などです。

「神の愛」というと、普通、教会では「アガペー」と言います。お聞きになった人もいつと思います。キリスト教的な愛です。私は単なる好きとか好意があるでありません。私は率直に神の愛は「価値判断をしない愛」、「差別をしない愛」と定義をします。「相手のいかなる状態にも左右されない愛」です。神やイエス・キリストはそうでした。「わたしがあなたがたを愛したように」と言いますが、神やイエス・キリストは弟子たちをどのように愛されたのでしょうか。それは、イエスが弟子たちをありのままの姿において、受け入れていたとことを意味しています。イエスの愛が手本であるということです。

で、そのイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言います。 この愛の掟・戒めは私の経験からも難しいのです。「互いに愛し合う」、つまり他者を愛することです。教会の中でも難しいというと、信者さんでない方は不思議におもうかもですが。紀元2,3世紀のローマの教会は迫害の中で、非キリスト教の哲学者のケルソスは、キリスト教の悪口を沢山言いましたが、渋々ながら告白しました。「見よ、なんとクリスチャンたちが愛し合っていることか」と。私は牧師になった、初めの頃、人つき合いが悪くて、今でもそうですが、教会の婦人から「先生、もう少し、にっことしてください」なんて言われたことありました。現代は人間関係が薄くなりました。私は整形外科に週三回っていますが、先日、電気療法をうけていましたら、おばーチャンが、「昔と違って、最近はつき合いが薄くなり、話をしないね」なんて言っていました。教会もその影響でクリスチャンの交わりも表面的な気がします。

「互いに愛し合う」こと「他者を愛する」ことのために、何をなすべきでしょうか。教会で、あるいは共同体でです。三つほどあります。

1,ドイツ語にアウフヘーベン・Aufhebenと言うのがあります。哲学用語で「止揚」と言います。意味は、二つの対立する概念をより高い概念に発展させることです。「人間の愛」の場合、問題にぶつかったとき、感情ではなく、理性的な行動とってより高い愛に向けて努力するのです。私はこの人のために、どうあるべきかということをするのです。

2,自分の判断、好み、自意識という銃口を他者に向けないことです。自分の価値判断を押しつけるのです。その銃口を人に向ける前に、自分に問うて見る必要があります。私はこの人を愛し、助けようとしているのか、私はこの人を現在あるがままの状態で、尊重し、愛しているのかです。これは神が自分を・・あるがままの自分を・・愛して、うけいれくださったあことを思い起こす時、決して難しくないはずです。

3,旧約聖書に、また、イエスにも「隣人を自分のように愛しなさい」とい言葉があります。神を愛することと並んで大事な言葉です。「自分のように」とは、文字通りには「自分自身のように」です。他の人を愛するには、まず、自分自身を愛さなければならないのです。正しい意味での自己愛です。自分自身を愛せない者が、どうして他者を愛せるかです。悪い自己愛は他の人を犠牲にしてもかまわないのです。自分自身を愛するとは何か。それは自分を大事にする程の真剣さ切実さで愛しなさいの意味でしょう。また、ある先生は、それは自分自身をあるがままの姿で受け入れることだと言いました。自分自身をあるがままに受け入れるとき、他の人をありのままの姿で受け入れられるのだと。そう思います。
私たち信仰者は、神が私たちに・・この私に・・目を留めて愛してくださったことを、イエス・キリストの中に見いだし者です。イエスの十字架の愛が、私たちを動かして、愛に向かわせるのです。

ところで、皆さんはどんなローンを持っていますか。家のローン、車のローン、学費のローンなどあります。聖書は唯一の借金があると言います。パウロのローマ信徒への手紙の中でこう言います。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。(13:8)。ある英語の訳は意訳していいます。「借りがあれば、全部返しなさい。 ただし、他の人を愛するという・互いに愛し合うという「借り」だけは別です。 その「借り」だけは、いつまでも返し続けなさい」。
「愛は借金である」です。これを聞いてどんな感じを持ちますか。いい感じがしないと思う人もいます。解釈は2,3ありますが、私は「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」の愛は完済したときの「やったー、借金完済したぞ・0になった」という喝采の声をあげてはいけないと言うことです。英語の現代訳には「LOVE IS? ETERNAL」・「愛は永遠である」とありますが、「Debt・owe of Love? is  Eternal」です。この心は私たちを謙遜な者にします。

愛の説教をしますと、みんな反省をします。キリスト教が愛の宗教と言われると面映ゆい気がします。愛の少なさを感じるからです。説教している私もそうです。旧讃美歌(321)に「主イエスよ!ひたすら求む 愛をば 増させ給え」というのがありましたが、多くの人の祈りです。反省は謙遜に通じます。神の前に謙遜になって祈りたいと思います。

最後に覚えて置きたいと思います。それは「愛は名詞でなく、動詞であると言うことです。同じことを聖書はこう言います。「キリスト・イエスにあっては、・・・尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。

アーメン

2010年4月18日 復活節第2主日 「良い木は良い実を結ぶ」

ルカによる福音書 24章36-43節
安藤政泰 師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。
どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、 「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

「良い木は良い実を結ぶ」と言う聖書の言葉があります。マタイの7:17ですが。
自分は良い木でありたいと願うのは誰でもおなじです。または自分は良い木である信じられれば、それほど幸いなことはないかもしれません。私達の心には、良い事をしていれば、よい結果がある、と言う価値観があります。しかし、本当にこの世の中でそうでしょうか。私達は良い木になれるのでしょうか。

同じように人を善人と悪人と分けた場合自分は善人の方に入ると信じたい。
しかし、自分は本当に善人なのでしょうか。よくよく自分を見詰めて、自分は善人と言い切れる人が何人いるでしょうか。嘘をいわない、人の悪口を言わない、人を軽蔑しない、人の幸を妬ましく思わない、そのような人が、この世の中に居るでしょうか。自分の行い、考え言っている事をもし、全部VTRに取って見るとしたら、それを見る事に私達は堪えられるでしょうか。
今日は主の復活について考えたい。
主の蘇りと昇天については、理解するのがなかなか難しいと申し上げました。
主の受難はどちらかと言えば、理解しやすいが、主の復活とその後の昇天はなかなか理解出来しくのです。

これは、当時の弟子たちにしても同じであったわけです。
37節に弟子たちは霊をみている、と思っていたと記されています。
一人の男の人が無実でありながら、死刑になった。今でいえば、再審裁判を要求するところでしょう。 その男の人が復活した。これは新聞記事TVのニュースになるようなセンセーショナルな事件です。そのようなセンセーショナルな事件を現実のものとして信られるでしょうか。

主イエスの蘇りを信じるかどうかは、大切なことですし、この主の蘇りが信じられなければ、信仰に入ることも出来ません。しかしどのように私達は信じているのでしょうか。その実体はどうなのでしょうか。確かに信じているのです。しかしそれだけで良いのでしょうか。

「生きている言葉」と言う表現があります。これは言葉そのものが人間に行動を起こさせるような、そのような言葉の事です。聞いているが、柳に風と受け流してしまう、そのような言葉はその人達に取って生きている言葉とは言えません。

主イエスの蘇りが、この私にとってどのような意味があるか、を問う事が求められています。しかし、その前に、主はあなたの為だけにも十字架に懸かりたもう、と言う事を信じる事から考えはじめると、主の蘇りが自分にどのようにかかわるかを見る事が出来るのではないでしょうか。

自分に一番大切な事は何でしょうか。
そのために自分は何をしているのでしょうか。

始めに「良い木」の話をいたしました。 良い木になれる人間はいないのです。
聖書で言っている良い木とは主イエス・キリストの事です。

その良い木が結んだ良い実に預かる、これが私達です。その良い木が、本当に言われていた通りの良い木であった事は、主の復活が証明しているのです。

この主の復活に預かるのは、生きている者だけでなく、すでにみもとにある者も共に預かるのです。しかも、この良い木であるキリストのみ言葉を日々の糧
とする時に、私達は主の復活にあずかる栄光も受ける事ができるのです。

主は生きている者の主です。だから、先に召された者の主でもあるのです。
先に召された者がこの世での生命に生きた時、主は彼らの主でもあったのです。
主は時間を越えて、「良い木」として私達に働いておられます。
主よあなたの与えられる恵が時間を越えて働かれる事を感謝致します。

2010年4月11日 復活節第1主日 「イエスを信じて生きる・・・エマオの道から」

ルカによる福音書 24章13-35節
五十嵐 誠 師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教要旨)

先週はイエスの復活を祝う「復活祭・イースター」でした。それぞれ各自、その喜びを受けられたと思います。その復活の日の夕方の出来事を今日の福音書は伝えています。普通は「エマオへの途上で」というタイトルで知られています。二人の弟子の復活の日の夕暮れの失意と驚き、そして、喜びが書かれています。そこからの学びをしましょう。

この日の二人の道は悲しみと失意の歩みでした。彼らは一切の出来事を話し、論じていたのですが、それはイエスのこと、特に十字架と死、復活についてでした。でもそれは彼らにとっては分からないことでした。イエスに信頼して、希望と期待を寄せたが、失望に終わった。復活の出来事も・墓が空であったが、その意味を悟らなかった。

彼らが話しあっていると、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言いながらよってきた方がいました。二人は驚いています。あの大きな出来事を知らないなんて!二人は自分たちが話していたことを・とまどいと失望を語りました。するとその人は 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とその人、つまりイエスは言いました。

彼らはイエスの復活を話しながら、悲しそうな顔をしていたのです。イエスの復活が彼らにとって力にならなかったのです。自分と関係ないと出来事として、また理解できない出来事と話している時は、復活はなんの喜びにもなりません。信じることの出来ないそんな弟子たちをイエスは嘆いたのです。そしてイエスはなにが事柄の中心・核心かを、彼らが再確認するようにしています。イエスは十字架と復活こそ、まさしく救い主キリストの受難と栄光をあらわすものではないか、「聖書」(旧約聖書)に記されている内容そのままではないかと「説明された」のです。聖書は素晴らしい内容に満ちています。だけど自分とは関係ないという人は、悲しい顔をして立ち止まります。しかし、本気で信じる者には希望が与えられます。うれしい顔して踊り出す力になります。

私はイエスの十字架と復活の意味を初め理解しなかった弟子たちが、その意味を知り、その後、十字架と復活を、堂々と力強く述べ伝えていますが、その理由がここにあります。イエスは弟子たちに聖書・・旧約聖書からご自分のことを説明したのです。イエスは復活後、40日間地上におりましたから、その間弟子たちを教育された思いますし、弟子たちも旧約聖書やいエスの生前の言葉を思い起こして、イエスの意味を学んだと言えます。今はこう言えるのです。実に「新約聖書は旧約聖書に隠されており,旧約聖書は新約聖書に現されてい」という緊密不可分の関係にあるのです。ですから聖書は・・旧約と新約は共に、イエスキリストを証しするといえるのです。旧約聖書39冊がイエスを指し示すことを、弟子たちは知ったのですが、一方、新約聖書はその弟子たちが、その旧約聖書が示すキリストこそ、まことに神からのキリスト・メシア・救い主と言うことを示すために、証言するためにかかれたのです。

キリスト教とは何か。変な質問ですが、どう答えますか。それはこう言えます。「キリスト教とは、救い主・イエス・キリストにおいて、キリストを通して、神がいのち・命と救いを与えらるものです」。このいのち・命とは、今の肉体の命ではなく、それを超える命・いのち、普通には「永遠のいのち・命」です。現代は救いなどと言いますと、人気がありません。救いはいらないとか、そんなに弱くないとか言います。「救いとはなにか」ですが、ある先生は救いとは「変えることchange」と言いました。あなたをイエスは変えるのです。変えられるのです。ギリシャ語では救うという言葉は「変えるという意味があります。私たちはいろんな思い、悩み、恐れ、希望などで、心が揺れ、定まりません。そんな私たちを造り変えてくださるのです。イエス・キリストは・・死から復活して、その力があることを明白にしたのです。だから、復活祭・イースターは喜びなのです。聖書はその神・キリストの言葉です。

今日のエマオへの出来事に目を向けます。彼らはなにか引かれたのか、強いてイエスに一緒に泊まるようにお願いしました。イエスは泊まるために家に入りました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のでした。イエスの言葉か仕草かで彼らはイエスと悟った。道々語ったイエスの言葉が彼らの目を開いたと言えます。

それを彼らはこう表現しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。 聖書は私たちに、心が燃えるような思いをあえるのです。

イエスは今も私たちと共にいるし、歩いています。人生の歩みをしているとき、近付いてきて、一緒に歩いてくださる。聖書を通して、私たちの問題に解き明かして、私たちの内の心を燃えさせてくださるのです。今日は、今日の聖餐式でも私たちは、イエスが共にいて、祝福しくださるのを知るのです。イエスは約束を守られる方です、私たちの信頼に十二分にお答えくださるのです。

聖書はなにを書いているかですが、それは「イエスに出会った、キリストは生きています」ということを書いているのです。生ける主キリストに出会ったという証言・証しが聖書です。生けるイエスに出会いさえすれば、聖書は読めるし、分かります。その時、聖書が本当に分かったと言えます。そのキリストは今も生きていて、私たちに力を与えます。そのイエスに信頼して生きて生きなさい。そう勧めています。「イエスさま、あなたを信じて生きて生きます」と今朝も告白したい。