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2004年6月13日 聖霊降臨後第2主日 「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」

ルカ7章 1-10節

 
説教  「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」  大和 淳 師
 先週、わたしたちは詩編からみ言葉を聴きました。今日、再びルカ福音書に戻り、わたしどもは福音書の「百人隊長」の物語を通してみ言葉を聴くのですが、その書き出しは「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」(7章1節)、そのように始まります。以前に申したと思うのですが、福音書、とりわけルカは、大変注意深く、一つひとつの出来事、物語を伝えるのに言葉を使っておりました。とりわけ、こうして新しく物語るときは、こういう書き出しは大変大切にしているわけです。ですから、この「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えて・・・」ということ、そこにはルカ福音書にとって大きな意味がこめられているのです。そのことを念頭に置きながら、もう少し前置きみたいなことを述べたいのですが、それで、この物語の舞台となっているカファルナウムは国境の町で、関税を徴収する当時その地方の領主であったヘロデ・アンティパス王の取税所があり、そのヘロデ王の軍隊が常駐していました。つまり、この百人隊長は、ローマ兵ではなく、そのヘロデの傭兵で、歴史家によれば、ガリラヤ人以外に世界中からシリヤ人、トルコ人、ゲルマン人などがこのヘロデの傭兵となっていたそうで、この百人隊長も、何人であるか分からないけれど、そのような異邦人であったろうと言われます。聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではないという意味ではなく、言うなれば、神を信じない、あるいは神無き民、すなわち野蛮人というニュアンスを含んだ言葉です。

  さて、この無名の百人隊長のひとりの部下が重い病気、死にかかっていたと聖書は伝えます。彼はその部下を重んじていた、そう訳されていますが、単に部下として重んじていたというより、この百人隊長にとって、その部下はかけがえの無い者のひとり、いわば家族同然の者、我が子のような存在であった、そういう意味が込められた言葉が使われています。

  そして、主イエスが、その彼の住むカファルナウムにやって来たのは、この前の章、6章20節からのみ言葉、マタイ福音書では「山上の説教」として知られているみ言葉を、すっかり語り終えてからであった、とこの7章1節で言われています。「すべて話し終えてから」という描写には、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6章30節)、そう語り始め、そして、その神の国にわたしたちが今や生きている、み言葉となって、わたしたちのもとにある、その一切をことごとく、語るべきことをすべてお語りになった、そうしてカファルナウムの町に入られたのだ、ということです。今や、み言葉がすべて放たれた。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来たのです

  そうして、カファルナウムの町に入られた、やって来られた。既に夕暮れであったでしょう。日は傾き、やがて夜の帳が訪れるのです。そこに、その町に愛する者が死にかかっている、その死の床で、その夜の暗闇を迎えようとしているひとりの男がいた。異国の町で、愛する者が刻一刻と死に向かっていく、その傍らで、この人はどれほど孤独を感じていたことでしょう。その瀕死の彼の部下もまた、この百人隊長と同様、遠い異国からやって来たのでしょう。深い孤独が彼らを包んでいます。長い夜がやって来る、夜が近づいているのです。

  だが、そのとき、彼はイエスのことを聞いた。闇の中でただ一つ希望の光が差し込んできたのです。彼は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(3節)。イエスのもとに使い、使者を出す、なるほどそれは、「百人隊長」という地位にある人ならではの発想と言えるかも知れません。使いを出して癒してもらう、少なくとも福音書の中にはそのようなことは他に例はありません。しかも、その使いは「ユダヤ人の長老たち」でした。言うまでもなく「ユダヤ人の長老たち」は、彼の部下ではありません。この人がもっている権限、地位とは関わりなく、今やこの人は、ただ助けを必要としているひとりの人間、無力な人間なのです。ここに、わたしのもとに、愛する者のためにイエスに来ていただく、彼はこの異国の地でなし得る精一杯のことを考え、実行するのです。恐らく、その「ユダヤ人の長老たち」に、彼は丁寧に事情を話し、丁重にことを頼んだのでしょう。その長老たちがイエスに語ることから、そのことが伺えます。彼らは言います、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。もしも、この隊長が自らの地位と権限を嵩にして、彼らを呼びつけ、命じたのなら、あるいは「自ら会堂を建て」たことを恩に着せてのことなら、彼らは、たとえ「会堂を建ててくれた」人であったとしても、こうは言わないでしょう。しかし、彼らは、自分の言葉で、自分たちの思いを、つまり、まさしくそれはまた彼ら自身の心からの望み、意志であることを伝えるのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と。

  福音書において、この異邦人とユダヤ人との関係がどのようにあったかを思うとき、この彼らの言葉は心を打つものがあります。真に心が通い合っているのです。考えられないようなことがそこで起きているのです。主イエスがその日、すべて語られたことが、既にその夕暮れに起きているのです。そうです、この方が語られたこと、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい・・・・・」(6章27節以下)。そのように今や異邦人とユダヤ人、その垣根を越えて、彼らは一つなのです。ただ一つのことに心を合わせている、合わせることができたのです。もちろん、彼らは、いわばこの主の言葉を行おうとして、そうしたのではありません。そして、これらのことは、この隊長の人格、人柄、つまり恐らくは常日頃、この人は、本当に優しい眼の持ち主だった、それが他人を理解し、受け入れる力となっていったと言うことももちろんできるでしょう。
  しかし、わたしどもは、ここで忘れてならないのです。今や、その彼らの中心に、いわば、たった一人の死の床で苦しむひとりの人間のために、そのように心を一つにしているその人間の中心に、この方、主イエスがおられるのです。この方は既にすべての言葉を語られたのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」、ヨハネ福音書がそう語る、その言であるお方が来ておられるのです。

  そもそも愛とは、わたしは愛そう、愛さなければならない、あるいは、わたしは愛の行為をする、している、そうして行い得るものでしょうか?敵をも愛する愛とは、むしろ、この彼らのように、そうしているとは思わずして行っている、行わずにはいられないことなのではないでしょうか?彼らは、彼らがなし得ることを忠実に、心をこめて行ったに過ぎない、いや、せずにはいられなかったのです。愛の行為とは、わたしどもは知らずにそれをするのだ、させてもらうのだ、そう言ってもいいでしょう。大事なことは、わたしどもは知らなくてもいいのです。もし知れば、あるいはわたしが意識すればするほど、わたしどもは傲慢になります。自己満足に陥るでしょう。何より、知らず内にそこに、その彼らに、今や主イエスがおられるのです。あの「ユダヤ人の長老たち」を通して、主イエスが既に働かれているのです。

  さて、主イエスは、そのユダヤ人たちに伴われて、夕暮れの道を、彼の家へと辿ります。しかし、出来事は思いもよらぬ展開を迎えます。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき」(6節)、聖書はそう告げます。つまり、もうすぐそこまで主イエスは来ておられたのです。ところが、まことに不可思議なことに、この百人隊長は、再び使者を出して、この主イエスを制止したというのです。待っていれば、直ぐにもこの方は来られるのに、もう直ぐそこまで来ておられるというのに。わざわざ友人を遣わして引き止めたのです。一体何が起きているのでしょうか?

  わたしたちは、この友人の言葉に耳を傾けなくてはなりません。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6b、7節)。まず、友だちはそう伝えます。ここで気づくことがあります。先のユダヤ人の長老たちは、いわば自分たちの言葉でとりなすようにイエスに話しました。それはそのまま、彼ら自身の思い、真心でした。しかし、この友だちは、自分たちの言葉というより、この隊長の言葉をそのまま、自分たちの思い、考え、感情をはさまず伝えているのです。それが故に友人なのです。ここにも自らのなすべきを知り、忠実に果たす人々がいます。まさにそれ故に友だちなのです。ここで、彼らが隊長の、この人の代わりをつとめてしまってはならないのです。彼のためにできること、それは、彼の言葉をそのまま伝えることなのです。恐らく、友であれば、彼のために、できることなら、自分の知っている彼のことを伝え、どんなに彼がよい人なのか、どれほど大切な友なのか、伝えたかったでしょう。だが、自分のしたいことではなく、自らのなすべきことを果たす、できるだけ正確に友の言葉を、この主イエスに伝えようとする、ここにも、そのようにして一つ心を通い合わせている人間がいます。聖書は、まさに活きた人間のドラマを伝えているのです。これら一人ひとりが生きているのです。つまり、み言葉は生きて働いているのです。

  さて、先ほどの問いの戻りましょう、一体この人に何が起きのか?聖書は直接にそれについて語りません。ただ、わたしたちはこの百人隊長がその友人を通して語ること、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」そして、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」、そのように言っていることから考える以外にないでしょう。

  この人、この百人隊長は、その彼の愛する部下の枕もとで、恐らくは、彼は今か、今かと、まだ来ないのかとじりじりするような思いで主イエスを待っていたのかも知れません。尚、深い孤独の中に、彼もまたいたことでしょう。しかし、そのような推測以上に全く確かなことがあります。それはこの出来事は、一切、この主イエスが来られた、そうして、この百人隊長に迫って来られていた、その中での出来事だということです。

  それは、彼の部下が刻一刻と死に向かっていく、いや、むしろ真実は、死が彼らに刻一刻と近づいてくる、まさにその死の力に対して、何という無力、ちっぽけな取るに足らない者であるか、現実的にこの人はそれを味わい、心底そうであることを実感せざる得なかった、その中で、であります。彼は揺り動かされます。しかし、その死の力に抗して彼に迫るものが今や彼にある!それはこの方、このイエス!このイエス・キリストは大胆にその死の力の中へ、そして、このちっぽけな、取るに足らない、まさに何ものにも「ふさわしくない」わたしたちのもとへ今、あのわたしたちを脅かし、恐れさせる死の力、その力を押し返すように、近づいてこられる、この隊長、この人は、まさに死の中にありつつ、しかし、このイエスの近づき、イエスの迫り来る中に、生命の力の中にいたのです。主が一歩一歩、ひとりの人間の生の中に来られる! それが「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えた」ということなのです。聖書、みなさんが今聴いているみ言葉、そのみ言葉が引き起こす出来事なのです。パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1コリント1章18節)である、というみ言葉の力、神の力なのです!

  それ故この物語では、「ただ一言言ってください」という願いにもかかわらず、その一言が語られることはなく、ただ使者たちが帰ってみると、彼の部下は癒されていた、そのようにして終わるのです。今や、み言葉がすべて放たれているからです。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来ているからです。

  聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではない民族というだけではなく、神を信じない、あるいは神無き民のことである、最初にそう申しましたが、その神無き人、神から最も遠いその場所に今や真っ先に救いが訪れたのです。もう一度、この百人隊長が言うことに心を留めましょう。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。・・・」

  ともかう「ふさわしくない」、彼が徹底して言っていることはこのことです。キリスト、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間、「ふさわしくない」場所にこそ向かうのです。このルカ15章で語られるあのわたしたちがよく知っている主イエスの譬え ― 九十九匹を残して、迷子になった一匹、つまり「ふさわしくない」たった一人を捜し求める羊飼いのように、あるいは、父の財産を放蕩に使い果たし、挙げ句の果てに家畜同然となった、つまり父に「ふさわしくない」弟息子を、その父親は待ち続け、帰ってくると走り寄って迎えるように、キリストは、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間にこそ与えられのです。

  今、その「ふさわしくない」人間であることにどんなに苦しんでいる、苦しめられている人がいることでしょう。会社や仕事、学校で、いやそれどころか家庭、家族の中で「ふさわしくない」人間であることに・・・。そして、教会は、どうして、それらの人を素通りできるでしょうか。わたしたちは、それらの人びとに何を語り、何をしてあげることが出来るのか、隣人として、友人として。

  それ故、わたくしは、何よりみなさんにこう語らなければなりません。ここにいるみなさん一人ひとり、みなさん、あなたがたもまた何よりことごとくこの「ふさわしくない」人間なのだ、ということを。あなた方自身何より、全く頭の先からかかとまで、ことごとく神に、このキリストに、したがって、この場所に「ふさわしくない」、それがありのままのあなたであり、わたしなのです。しかし、そうであればあるほど、ふさわしくなければないほど、神は、主イエスは、み言葉を通してそのあなたに、わたしに近づいてくる。あの羊飼いのようにどこまでも捜し求めくださったのです。あの父親のように、あなたを抱きしめて接吻してやまないのです。それがこの神、イエス・キリストなのです。だからこそ、「ひと言おっしゃってください」、すなわち、み言葉をください、み言葉を信じる、いやみ言葉だけを信じる、それが教会なのです。だから、大胆にみ言葉を求め、信じていいのです。今や肝心なこと、そのみ言葉に突き動かされて、わたしども一人ひとり、知らずうちに隣人となり、友人となっていくのです。キリストは、わたしたちの知らぬ前に、知らずうちに既に働かれるからです。

  この主イエス・キリスト、すなわち、「十字架の言葉は」、いや「十字架の言葉」だけが「わたしたち救われる者には神の力」なのですから。

2001年11月11日 「信徒でまもる礼拝説教集1」

佐々木謙一兄

2001年11月11日ルカによる福音書 19:11~27

本日の聖書の個所は、「ルカの旅行記」といわれる第9章51節から、第19章27節の最後の個所に位置しています。これは、イエスがガリラヤからエルサレムにむけて旅をする個所であります。9章51節では「天にあげられる日がちかづいたので、エルサレムへ行こうと決心して」、エルサレムへの旅がはじまります。ここでこの旅はクライマックスをむかえ、「エルサレムに近づいて」こられたのです。この聖書の個所は、イエス様が、私たちのために命を捧げてくださる、そのエルサレムに近づいてこられていることが、契機となっているのです。

1節から13節にご注目ください。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために旅立った」とありますが、この「立派な家柄の人」とはイエス様をあらわしています。これはイエス様のエルサレムへの旅、そしてさらに十字架の死を遂げて、復活し、父なる神のみもとにおいて覆いを受けるという旅を表しています。
ここで主人は旅立ちに際し、10人の僕たちに1ムナというお金をプレゼントします。この10ムナはただプレゼントとして渡されただけでなく、この1ムナをもとに、もっと増やしなさいというメッセージがこめられています。つまり1ムナとは、単にお金を意味するのではなく、いろいろな賜物と解釈することができます。
それは神様が私たちに与えてくださった体力であったり、知力であったりと、その人の能力を意味しているかもしれません。そういった能力を生かしなさいという意味にもとることができるかもしれません。しかし、この世の現実をみるとき、みなさんは「全ての人に1ムナを与えられてはいない、それぞれ異なったムナを与えられている、この世は不公平、不平等ではないか」と思われるかもしれません。私たちに平等に与えられているこの1ムナとは何を表しているのでしょうか。
日野原重明という方の著書で「生の選択」という本がございます。この方はご存知のように様々な重い病にかかって苦しんでいる方々に接っするお仕事をなさり、人間の命の尊厳についてたくさんのことを教えてくれている方であります。この本のなかで氏は、次のようにいっています。
「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生のなかで、各人の「宝」を最高度に社会のなかで活かす、あるいは社会に還元する機会がすべての人に与えられている。言い換えると「どのようにして自己を活かすか」という自由とその機会が与えられているという意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」
10章42節では「無くてはならないものは、多くはない。いや。1つだけである」とイエスは教えておられます。これらのことを考えると、この1ムナとは、まさに「神のことば」であるとは考えられないでしょうか。そしてこの各人にあたえられた「神のことば」によって、弟子たちつまりは我々が「使徒的」な働きをすることをイエス様はのぞんでおられるのです。
15章で主人が帰ってきたとき、僕たちが呼ばれ、渡した1ムナをどのようにしたか、決算が始まります。そこで第一の僕は「あなたの1ムナは、10ムナをもうけました」といい、第二の僕も「あなたの1ムナは5ムナをつくりました」といいます。ここで主語が「私」ではなく「あなたの1ムナ」であることに注目していただきたいと思います。彼らが自分が労苦と努力を重ねた結果、もうけたのだとは言わず、また自分の業務について語ろうとはしません。ムナそのものが新しいムナを生み出したかのようにいっています。コリント人への手紙第一でパウロも「私に賜った神の恵みは無駄にはならず、むしろわたしは彼らのなかのだれよりも多く働いてきた。しかしそれは私自身ではなく、私と共にあった神の恵みである」といっています。私という小さな人間とその人生や活動を舞台にしてムナが生きて働く、人の思いを超えて働く神の力がおおきなものを生み出していくのです。そしてそれはムナを活かすものにのみ経験できる大きな驚きなのです。
私が社会人になりたてのころ、私はとても自分に自信があり、自分に力があるように感じていました。会社でも上下の関係にとらわれず、力のあるものがこの社会を勝ち抜いていくのだと信じて疑いませんでした。しかし自分の力に頼っている自分に次第に疲れを感じてきたように思います。私の仕事は営業ですので、毎月自分が売り上げていかなければならないノルマがあります。
ある日、私はあまりにも多くのノルマをかせられているように感じて、上司に文句をいったことがあります。ある一定のノルマを達成すると、さらに多くのノルマを与えられ、だんだんとやらなければならない仕事の量を増やされるのです。私はこれでは疲れきってしまう、みんなと同じくらいのノルマに戻して欲しいと訴えました。そのとき上司から「おまえからそれをとってしまったら何が残るのか」といわれました。これはひとつの例えですが、この話を自分の生活に置き換えて考えることがあります。私から教会生活をとってしまったら、一体なにが残るのだろうか。何故教会生活を私は続けているのだろうか?いや、何故続けられるのだろうかと。私たちはそのあたえられた役割や仕事、いってみればノルマによって自分らしさを保っていけるのではないかと感じることがあります。私たちにはそれぞれ神さまから与えられた「ムナ」があり、その恵みが私たちを生かしているのではないでしょうか。それを考えたときに、私の意志だけでここにいるのではないように思います。何かが私に働き、私を超えた力が働いて、自分がその道に進んでいるようにさえ感じられます。逆にいえば、私から信仰がなくなるということがあるのだろうかと思います。私を越えた何かがあるとすれば、それは何でしょうか。私にとって大切なムナとは信仰であると思います。私から信仰や教会生活をとってしまったら、私は私でなくなると思います。つまり、ただむなしく生きていくだけだと。神への仕事とは、牧師として働くということではなく、日々祈りの中で人を思うこと、自分を優先させず愛をもって人に接すること、これこそが一番大切な神への奉仕であると思います。なぜなら聖書にあるとおり、「神は愛である」からです。愛のあるところに、必ず神様がともにいてくださるからです。その反面、愛のないところにはサタンが存在し、我々を常に誘惑しようとしています。今年、世界では大変なテロ事件が相次ぎ、深い悲しみが私たちを支配しました。これもサタンの仕業であるかもしれません。その原因はタリバンという勢力とアメリカという勢力の間に生じた憎しみから起こったもので、愛とはかけ離れたものです。
22節で「善い僕」、「悪い僕」とでてきますが、この善い、悪いは主人のために役立つかどうか、その行いが問題とされます。よく私たちは善い、悪い、ときくと「欠点がある、ない」というように解釈しがちですが、ここでは失敗をおそれて何もしないことが良いのではないのです。何か行動を起こして、悪いことをすると罪が増し、罰が与えられると考えられがちですが、そうではないのです。イエスさまが生涯をかけて、受難と十字架において示した神の愛は、私たちを臆病にさせる恐怖の神ではありません。つまり、キリスト教の神とは、単なる物理的な創造者ではなく、また人間の生活や富の上にその摂理を働かせて、自分を崇拝するものに幸福を与えるにすぎない神でもありません。そういった神は私たちのために、十字架にかかって死んでくださった愛の神ではありません。異教徒の神です。私たちの愛する神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリストの神は愛となぐさめの神なのです。この神様はご自身のとらえたもう人々の魂とこころを満たしてくれる愛の神、我々が自分の力のなさ、惨めさを感じるときに、ご自身の限りない自愛を与え、それを身にしみて感じずにおれないようになさる神です。そして自らへりくだり、私たちと魂の奥底においてひとつとなってくださる神なのです。
我々が今ここに礼拝を守り、一週間安心して進むことができるのはこの神がいてくださるからです。キリスト者の神は希望の神です。神は十字架にかかり、復活し、天に昇られ、そして今日、私たちとともにいてくださいます。最後に次の言葉を紹介しておわりにします。J.Jルソーという人のことばです。「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。最も長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」私たちも慈悲深い神が生きて働いておられることを覚え、このような人生を体験する幸いを感謝して今日の日をすごしましょう。

2001年3月25日 四旬節第4主日

第1日課   イザヤ書12:1-6

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。

その日には、貴方たちは言うであろう。

「主に感謝し、御名を呼べ。諸国民の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

第2日課   コリント人への第1の手紙5:1-8

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行ないがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行ないで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。

それにもかかわらず、あなた方は高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって。あなた方とわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。僅かなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現在あなたがたはパン種がはいっていないものなのです。キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです。だから、古いパン種の悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実なパンで過ぎ越しを祝おうではありませんか。

福音書   ルカによる福音書15:11-32

イエスは言われた。「あるひとにむすこが二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日も立たないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物を暮れる人はだあれもいなかった。そこで、彼はわれにかえって言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にをしそうだ。ここを発ち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」 と。』 そして彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんがかえってこられました。無事な姿で迎えたと言うので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし、兄は父親に言った。『この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子やぎ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの心象を食い潰して帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしの物は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。」

2001年3月18日 四旬節第3主日 「神様は人間の目覚めるのを待っておられます」

第1日課   出エジプト記3:1-15

モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」 と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住むところへ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがエジプトから導き出しとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第2日課   コリント人への第1の手紙10:1-13

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中にある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った。」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたかたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。

福音書   ルカによる福音書13:1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

説教  「神様は人間の目覚めるのを待っておられます。」

ルカによる福音書十三章の一節から九節までのお言葉でございます。

今日の福音書の日課で、事件が起こったのです。エルサレムの神殿で、奉げ物をしようとしていたガリラヤの人たちが殺害されたのです。ピラトが軍を送り込んで彼らを殺したのです。それは、彼らがローマ帝国の支配に反対していたからです。人はそのような災害にあった人に対して、日本的に言えば罰が当たったと解釈をしていたようです。また、シロアムの塔が倒れて、十八人の人が下敷きになって死んだ事件が、その少し前にあったことも、彼らが悪い者であったから罰が当たったのでしょうと言っていました。

イエスさまはそうではないと言われて、次のたとえ話を仰ったのです。いちじくの木の畑に虫が来てもう三年も実がなるのを期待していたのですが、実がならないで楽しむことが出来なかったので、この木を処分しましょうと使っている人に言いました。その人はもう一年待ちましょう。私がもう少し上手に木の手入れをしますからと言ったのです。このたとえ話の意味は、神様はかなり忍耐強いお方です。三年ばかりではなく、あんまり役に立たない私たち人間を、神様の思われるほどの人間になっていないわたしたちを、神さまは忍耐強くもう少し、もう少し待とうと思ってくださるのです。これが今日のお話の大事なテーマでございます。

神様は相当忍耐強いお方です。 そこで旧約聖書に一つの例がございます。モーセという方を、イスラエル人のリーダーに神様が選びなさったのです。モーゼはどんな人でしょうか。イスラエル人でエジプトで生まれたのです。丁度、イスラエル人が迫害されていた頃です。男の子は生まれたら殺せと王様から言われて、大変な時でした。そこでモーセが生まれた時に親が川辺に隠したのです。そこへエジプトの王様の王女が来て、見つけてモーセを自分の子供としたのです。ですからモーセは最高の教育を受けていました。イスラエル人がいじめられて苦しめられているのを見かねて、ある時、そのエジプト人を殺してしまったので、モーセは国から逃げなければならなかったのです。察することは四十年くらいの間、エジプトの東にある余り地の肥えていない砂漠のようなところでしたが、家畜を飼っている人のところに縋ってモーセは暮らしていました。そこで、神様が彼を呼び出すのです。燃えているように見える柴が燃え尽きないでそのままでした。モーセは不思議に思って近くへ行って見ようとしたら、神さまが燃える柴の中から、モーセに話をされるのです。「エジプトへ戻って、イスラエル人をエジプトの奴隷生活から導き出すのだ」 と命令をなさるのです。勿論モーセは、口実を言いますが、神さまはそうするように言われるので、彼はエジプトへ行きます。聖書の中に出エジプトと言う一部がございます。それを読んで、私たちも如何に神さまが、モーセをリーダーとしてお救いなさって、守って、終には四十年後になりますが、約束の国へお連れなさった事がわかります。

その話をパウロがコリント人の手紙で聞かせています。コリントは随分商業の地として栄えて、立派な町でした。日本でしたら東京のようなところでした。政治はアテネでしたが、金儲け、その国の財産はみなコリントで作っていたのです。彼らはそれを自慢していたのです。どこにも負けないようなところと彼らはそれを誇っていました。その中にいるクリスチャンもその影響を受けていたでしょうと思えます。パウロがその世の中の人の真似をするなと、神様はちゃんと皆さんを心配しておられると言っております。そう言う世の中ですから、問題も起こり、ことに誘惑も多かったのです。彼らも同じように商売をして儲けたいのでしょう。楽な生活をすることを望んでいるのでしょう。でも、その誘惑に負けるなとパウロが言ったのです。そして、十章にある今日の聖句の終わりの言葉ですが、私たちはこれを良く覚えておきたいものです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れ道も備えてくださいます。」 と聞かせているのです。わたしたちもそのような事情や、試練に遭うこともあるでしょう。イエスさまの世の中でも事件が次々に起こって、彼らはちょっとこわくなっていたのでしょう。恐れ持っていたのです。そのためにこの世について行こうとも考えていたのでしょう。そこで、イエス様がいちじくのたとえを聞かせて、もう少し忍耐強く、これは神さまが忍耐をしてくださるのですが、その神さまのしてくださることを待ちましょうと、当時の人たちに聞かせておられます。

私たちも同じような事情にあることが時々あります。どうしょうか。困った。方法としてはちょっと不正なことですが不真面目なことですか、それをやったら助かると私たちは思いつくのですが、「その誘惑に私たちは決して負けてはいけません。」 とパウロは聞かせています。イエスさまのこのたとえも同じ意味です。神さまは忍耐強く私たちのことを思っておられます。本当を言えば、神さまは正しいお方ですから、悪いことは大嫌いです。そしてその大嫌いなことを私たちがやっていて神さまはどう思われるでしょうか。丁度、いちじくの木の持ち主のように、処分しましょうと思うのが普通でしょう。このたとえ話はわたしたちにとって大きな慰めとなります。神さまは忍耐強いのです。今すぐ処分するのではなく、しばらく待ってくださるのです。そして私たちをこの世の中からいずれは、お呼びなさるでしょう。その時まで私たちは耐えていましよう。

私たちは先日、会員の一人のお葬式に参加いたしました。その時聞かされたことは、神さまがわたしたちのために本当の将来を計画しておられて、その場所がよろしいだけではなく、そこに相応しいように私たちを変えて下さって、私たちは永遠に生きることを約束されております。それをわたしたちは信じておりましょう。それが私たちクリスチャンの信仰です。それを知らない人を私たちはかわいそうに思います。彼らにもぜひ知っていただきたい。神さまはそのような大きな愛を持っておられる方で、忍耐強いお方ですから、知らない方もそれを知って、信じていただきたい。 私たちが今生きていることは、その役割の一つがそこにはっきりと見えるのではないでしょうか。私たちのやるべきことは、大したことはできないですが、人に呼びかけてその人たちをある意味では導くことができるのです。それに応じない方もいるでしょうが、理屈ではそう考えられるのですが、神さまの力、神さまの愛、聖霊の仕事、お働きによってその人が導かれて私たちと同じような大きな将来の、永遠の希望を持つことが出来るでしょう。とにかく私たちがやらなければ何もない。今悪いから処分しょうということではなく、彼らはもう駄目だと言って何もしないことではなく、少しでも私たちに出来る僅かな事でも彼らのためにやってみましょう。