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☆ 9月夕礼拝のお知らせ ☆

☆ 9月夕礼拝のお知らせ ☆

今週木曜日(9/5)午後7時から。説教題「共に生きる
ルカによる福音書15章1ー10節(新約138ページ)

聖餐式もあります。

皆さまを、お待ちしております。

2019年9月1日 聖霊降臨後第12主日の説教 「神の慈しみの高さ」

「神の慈しみの高さ」 ルカによる福音書14章7~14節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日の福音の御言葉である14章7-14節は、14章1節で主イエスが安息日の日に、食事のためにファリサイ派の議員の家に招待された場面からの続きです。ファリサイ派の議員というのは、同じファリサイ派の人々の中でも、最高法院という宗教と政治を司る最高議会に所属している権力者たちのことを指します。そして、このファリサイ派の議員の人は、他のファリサイ派の人々の頭として、安息日に食事会を催し、彼らファリサイ派の人たちと主イエスを自分の家に招待したのでした。その食事会の席で、招待された彼らファリサイ派の人たちは、自分たちの座る場所を決めているのですが、彼らは上席といういい場所を選んでいます。彼らは、自分たちの権威に誇りを持ち、自分のほうが他の人よりも上席に座るのにふさわしい人物であるという自信があったのかも知れません。上席を巡って、彼らの間でのちょっとした権力闘争を見ていた主イエスは彼らにふたつの譬え話をされます。

一つ目は、自分から上席に座れば、自分よりも身分の高い人によって、末席に追いやられ恥をかき、逆に、自分から末席に座れば、招待された人によって上席へと招かれ面目を施すという内容です。私たちの日常生活でもこのようなことをよく経験していることかと思います。食事会、宴会などの席では、自分よりも偉い主人や上司に上座を譲り、自身は下座に着くという謙遜な態度をとることがあるかと思いますが、それは席上でのマナーとして、当然の認識として把握しているでしょう。だから、この譬え話は、私たちにとって、当然のことを語っている内容かと思えるかもしれませんが、実は単なる教訓として、謙遜な態度をとりなさいと主イエスは言っているのではないのです。なぜなら、11節で主イエスは『だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』と語っています。これは食事会での席のことに限ったことではなく、私たちの姿勢に向けられて語っていることでもあるからです。それはまさに今上席を選んでいるファリサイ派の人々に直接向けられている言葉であって、だれでも、すなわち私たちにも向けられている言葉なのです。上席を選ぶ彼らファリサイ派の人は、自分が上席に着くものにふさわしいと自身を誇り、高ぶっていました。その態度は、18章9―14節の、『ファリサイ派の人と徴税人』の譬え話の中でも見られます。ふたりが神殿の前で、すなわち神様の前で祈っている時、ファリサイ派の人は祈りの中で、横にいる徴税人よりも自分のほうが正しいことをしていて、全うな生活をしていることを誇っていますが、その一方で、罪人として悔い改め、神様の前にへりくだった徴税人のほうが義とされて高められたと主イエスは語り、14節で同じことを言っているのです。私たちは、他人に良く見られたい、思われたいという気持ちがどこかにあります。そして、神様の前ではなおさら自分を高くみせようと思いたくなるものです。そのために他人と比較して、自身を誇り、高ぶることだけにしか目がいかない姿がある。謙遜な態度も表面だけで、実際は自分をよくみせようとしているだけで、真の謙遜な態度を出さない自分が時々いるのではないでしょうか。

続く二つ目の譬え話も同じことが言われているように思えます。今度は招待をする主人に向けられて語っています。主イエスは次のように言います。宴会を催す時は、友人、兄弟、親類、近所の金持ちといった親しみのある人たち、または自分の偉大さ、誇りを見せられる人たち、お返しを期待できる人たちを招くのではなく、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人などの自分にとって親しみがなく、自身の偉大さや誇りを見せようがない、また、お返しが期待できない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだと。他者を歓迎するために宴会を催す準備をし、接待しつつも、内心ではやはり、これだけの宴会が開ける自身を誇示し、それに見合ったお返しを期待するために、招待する人も自分の都合がいい人を選ぶ。それは客が上席を選ぶかのように、主人もまた既に宴会が催される前の段階で、お返しという期待をする、そのような人間の高ぶる態度や気持ちを顕わにしているように受け取れるのです。

二つの譬え話を通して、彼らファリサイ派の人たちは、客としては宴会の席で上席を選び、自身を高ぶり誇るように、また招待する主人としては、誰を招き、そしてお返しされるという自身の偉大さ、誇りを示すことができるかということにこだわっているようです。しかし、11節の御言葉は、誰の手によって低くされ、高められるのかということを具体的に語ってはいませんが、ヤコブの手紙4章10節にはこう書かれています。『主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。』11節で主イエスが強調しているのは、主なる神様によって、低くもされ、高くもされるということではないでしょうか。ですから、主なる神様の御前でへりくだらない者は、いくら自分たちの誇れるものを誇示したところで、その人間的な価値によっては決して高められことがないということに気付かされます。ファリサイ派の人たちが誇りを示すことにこだわる姿勢は、まさに主なる神様の前にへりくだらずに、人間的な価値を追い求めて、自身を高ぶっているだけの姿を表しているのです。

そして、本日の第一日課であるエレミヤ書9章22-23節では次のように書いてあります。『主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。』人間の知恵、力、富、そういったものを誇るのではなく、そのような考えから目を覚まして、主を知ることこそが、本当の誇りとするものであると記されています。そういう意味でも、この目覚めるということは、主の前にへりくだることを言っているのではないでしょうか。自分自身の知恵や、力、富といったものをいくら誇っても、いづれは朽ち果ててしまうものなのです。その事から目を覚すのです。この地上で、真の慈しみと正義と恵みの御業を行われる神様は、今も私たちの内に働いているのです。この御業を通して、真の知恵、力、富が与えられるということを知るには、自分自身の誇りから目覚めて、へりくだって、そのような御業を行われる神様を知るということ。このことを本当の誇りとすることができるのです。

聖書はそのように、神様を知り、へりくだれることを真の誇りとして記していますが、しかし尚私たちは、自分の誇りを捨て切れず、自分だけの知恵、力、富に頼ろうとしてしまうのではないでしょうか。なぜなら、それはやはり他者と比較し、優位に立ちたいと願っている私たち自身の姿があるからです。私たちはなかなかそこから目覚めることができません。しかし、私たちがへりくだる以前に、私たちのためにこの地上に遣わされ、真の人間としてへりくだった神の御子主イエスの御姿が、今この聖餐という食事の席にあり、私たちを食卓に招いてくださるということを忘れてはなりません。ですから、主イエス自身が何よりも、私たちのお返しなど期待することなく、私たちを招待してくだる真の主人ではないでしょうか。主イエスはそのような幸いをもたらす方であり、へりくだる方でもあります。それはさらに十字架という最大のへりくだりによって示された罪の赦しという幸いではないでしょうか。私たちはそのことを知り、主イエスを信じるこということを誇りましょう。

神様を知り、信じる誇りは、自分だけに向けられたものではなく、他者への思いやりとなって、神様に喜ばれる奉仕へと変えられるのではないでしょうか。お返しを期待するということ以上の真の幸いがここに与えられているように思えるのです。そのことを求めて、人間の誇りから、私たちは目覚めて、主を知るという誇りへと変えられていきたいものです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年8月25日 聖霊降臨後第11主日の説教「時と所」

「時と所」ルカによる福音書13章22~30節 小杉 直克 兄

 

 今日の御言は「主よ、救われる者は、少ないのでしょうか」という、イエス様に問いかけることから始まります。イエス様はガリラヤから伝道を始められ、方々の町や村を巡り神の国について教えておられました、そうしてエルサレムへ向かって歩みを進めていた時の出来事でした。それは、また十字架へ繋がる旅でもあったのです。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」とイエス様に訊ねた人は、イエス様の弟子の一人なのか、それともイエス様に従って付いて来た人々の一人なのかは、ここでは判然(はんぜん)としません。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」という、この問いかけは、この人だけの問いかけでしょうか。
今に生きる私たちの内にもこのような問いかけを心の中で問いかけることはないでしょうか。
「救われる者」とは、どのような者なのでしょうか。それが自分自身にどのように関わっているのでしょう。私の心の中にも時として、このような思いが湧く時があります。 この問いかけは、弟子達だけではないでしょう、人々の心の中にもある問いかけではないでしょうか。
この問いかけは、イエス様の時代だけではありません。今日の私達の時代にも共通する事でもあります。
 
 イエス様は「救われる者」という問いかけに「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは、原語の訳では「門」という意味もあります。イエス様は譬話のなかで時折、ご自分を「門」に譬えられる事があります。
それは、ヨハネの福音書10章7節に「わたしは羊の門である」と言われ、自らを「門」に譬えておられるのです、この「戸口」即ち「門」とはイエス様ご自身の事を言われているのです。
 
 また、マタイ書の7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この御言は神の国について語られたものであり、主イエスがご自身について語られたものなのです。
 
 更に、「狭い戸口(門)」から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは立体的、物資的、即ち目に見えるものを意味しているのではありません。なぜならばそれは、主イエス御自身の事を言われているからです。
 
 「狭い戸口(門)」から入る」とは、主イエスを受け入れ、主イエスこそが救い主、その人であり、「戸口から入る」とは、主イエスに従うという事なのです。
 
 
 私は、この「狭い門」と聞いた時に、ある事を思い出しました、それは大学受験です。今から50数年前は、殆どの高校生が大学進学を目指しました。目指す大学に入入れるのは十分の一、二十分の一なのです、それは猛烈な勉強をしなくてはなりません、自分以外には全てが競争相手であり、味方ではありません。自分が合格するためには、それは正しく「狭き門」と言っていいでしょう。
主イエスが言われる「狭き戸」とはそのようなものではありません。それは、当時の律法学者やファリサイ派の人々の様に自分達は聖書に精通し、神の国に最も近い者と自負していました、しかし、その実態はそれとは全く反対方向を向いたものでした。それは思い上がった行動でした。「私は、聖書を読み、精通している、だから、主に従っているのだ」と思ったとしても。主の御言を実践しなければ、それは、主イエスに従っていると言えるでしょうか。思い上がりや、自負する事ではないのです。主イエスに従うとは、心の中心に主イエスがおられるという事なのです。「あなたの心の中心には何があるのですか」そうして「何に従っているのですか」という事ではないでしょうか。故に「戸口・門」は狭いと言われるのです。
 
 その様な時代に在って人々は主イエスをどのように受け入れたのでしょう、人によってはイエスは先生、預言者、大祭司だと理解していたのでしょう。ナザレに生まれ、大工の息子として育ったイエスを救い主であると信じることが出来たでしょうか。ですから主イエスは自ら神の国を人々に伝え自ら御自分が救い主であることを人々に伝えたのです。しかし、このような時代に在って、現在も同じかもしれませんが。イエス・キリストが救い主であると信じる人は少ないのではないでしょうか、即ち信仰を得るのは数少ない人達ではないでしょうか。
ですから、主イエスは「狭い戸口(門)から入るよう務めなさい」と言われるのです。
 
 この「狭い戸口」を入るにはどうすればよいのでしょう。
ヘブライ書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事柄を確認する事です」(11:1)とあります。イエス・キリスト、この方こそが救い主であることを確信する事であり、主イエスこそが、そこへ導いて下さるのです、そう確認する事です。
 
 救いに至る道は、主イエスという戸口以外に、入る戸口はないのです。主イエスの言葉を信じて従う人であり、そう努めることであります、そう導いて下さるのが、主イエスご自身なのです。主イエスは、招いておられるのです。ですから、主イエス・キリストその戸口から入る者となりなさいと。この門のほかには悔い改めて救いに至る道はないのです。
 
 
 更に、御言は続きます「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが、外に立って戸をたたき、『ご主人様、戸を開けてください』と言っても『お前たちが、どこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」この御言は厳しい御言にも聞こえます。
更に、『御一緒に食べたり、飲んだりしました』また『広場で教えを受けた』と言います。しかし答えは『どこのものか知らない』と言われます。ますます、厳しい御言です。
 
 今日の御言の少し前、ルカ12章35節から始まる、「目を覚ましている僕」のお話を覚えていると思いますが。婚礼に出かけた主人が帰ってきた時の譬話です。主人が真夜中に帰って来ても良いように、即ち、主人がいつどんな時に帰って来ても良いように目を覚まして主人の帰りを待っている僕の、話です。
神の国が何時どのような時に来ても良いように、常に用意をしておきなさいということです。
又、ガリラヤから始められた主イエスの宣教の数々を思い起してみましょう。多くの人々に神様について語られました、そうして多くの人々と食事を共にしました、空腹の五千人の人々に食事を与えた奇跡の話、その他色々な出来事を思い出してみましょう。
主イエスと親しく食事をしたとしても、主イエスの教えを熱心に聞いたとしても、それだけで何もしないならば、主イエスに従っているとはいえないと主は言われるのです。
 
 マタイ書の山上の説教のなかに「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主イエスは言われます。
 
 さて、今日の礼拝に参加するために、皆様も教会の入り口を入ってこられたと思います。その扉が、建設から約15年が経ち壊れてしまいました、毎日何人もの人が開け閉めするでしょう、それはかなりの数になると思います、ですから壊れるのも無理からぬことです。そこで業者に見てもらったら部品が壊れているため取り換える必要があるとのこと、さもないとドアーが動かず、開け閉めできなくなる、とのことでしたので、すぐに修理する事にしました。私は、今日の御言に接した時、この出来事と重なる思いを感じました。
私の心のドアーが壊れたら、あるいは悔い改めることを怠ったとしたら、それは「どこのものか知らない」と言われるでしょう。
 
 「礼拝に参加する」とは、自分自身が参加する様に思いますが、そうではないのです、それは神様が、主イエスが、私たちを礼拝に招いて下さるのです。そのように導いて下さるのが聖霊なのです。
主に従う者は、何時も心は何を見ているのかを。
 
 「戸を閉めてしまってからでは」とは、それは「時」を意味しています。主イエスにただただ付いて行くだけだは、主に従うとは、ただ漫然と過ごすという事ではないのです。それには「時」があるということです。その時は「今」という時なのです。
 
 主イエスはガリラヤの湖畔を歩いておられる時、二人の漁師、即ちペテロとその兄弟アンデレに「わたしに、ついてきなさい」と声を掛けられました。それに対してペテロ達はどう行動したでしょうか、二人は直ぐに網を捨てて、主に従いました。  声を掛けられたペテロは「直ちに」従いました。仕事を済ませたら、とか家族に事情を話してかとかではなく。ペテロは何も躊躇せずにすぐさま従ったのです。
主イエスに従うとは、このような事ではないでしょうか。このことが済んだらとかこのことが出来たらとかではないのです。それは今がその時なのです。
 
 神の国を知るとは、主イエスという戸口を通らなければ知ることは出来ません、この戸口以外にはないのです。そうして、主イエスが知らされた時が、悔い改めの時であり主に従う時なのです。
 
 私達が何かをするので無く。主イエスがいつでも私達を神様へ導いて下さるのです。
 
 在天の父なる神様、今、あなたの御言を聞くことが出来ましたことを感謝します。又、新しい週が始まります、どうか私たちを、守り、導いて下さい、御子主イエスの御名においてお願いします。アーメン