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2004年7月11日 聖霊降臨後第6主日 「先立つのは愛」

ルカ9章51~62節
大和 淳 師

今日の日課は「サマリア人の村」での出来事、そして「別の村」での出来事の二つの物語を一緒に読むのですが、まずその書き出しは「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)、そのように始まっています。この新共同訳聖書は丁寧に意訳されているのですが、ちなみに原文は直訳しますと、「彼が取り去られる日が近づいたとき、彼は、エルサレムに行くために彼の顔を向けた」、つまり、主イエスは、ご自身の十字架の日が近づいたことを意識され、それ故、「彼の顔をエルサレムに向けた」、顔を向ける、というのは、新共同訳が訳したとおり決意を固める、エルサレムに行く固い決心をしたことを意味する、実は大変強いヘブル語的表現なのですが、この「彼の顔」という言葉がこの後の文章でも繰り返されます。52節の「そして、先に使いの者を出された」も直訳すると、「彼の顔の前に使者を遣わした」であり、53節「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」は、「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」。つまり、そうしてルカ福音書は、どれほどイエスがここで固い決心をされているかを読者に知らせているわけです。並々ならぬ決意だということ。だから、この最初の物語において、「サマリア人から歓迎されない」、新共同訳にはそう言う標題、小見出しがついていますが、ルカは、ここで、サマリア人がイエスが村にはいるのを拒んだのだけれど、それは「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」だ、エルサレムに向かう決心、ご自身の死、十字架への固い決心をされていたからだ、そういうことを強調しています。つまり、サマリア人が拒んだのは、エルサレムに向かう、この主イエスの決心の故であったということ。そのことから、54から56節の弟子たちの発言が起きてくるのです。あらためて読みますと、「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」(54-56節)

それでこの弟子たちが、ここでそういう風に主イエスに提案したということ、これは大変びっくりするような提案と言えます。ある意味で、この弟子たちは実に敬虔とも言えるほど、単純に神の、主イエスの力を信じています。イエスが望めば、自分たちは、こんな村の一つや二つ、滅び尽くすことが出来るんだ、と言うわけです。それで、この新共同訳聖書でははっきりしないのですが、原文を直訳しますと、ぎこちない文章になりますが「天からの火を降らせて、彼らを燃やし尽くすことをわたしたちが言うのを、それをあなたは望みますか?」、つまり、ここで弟子たちは「あなたは望みますか」とそのように主イエスの意志を問うているのです。

最初に申しましたように、ここで主イエスのお顔がエルサレムに向けられたということ、やがてはっきりするのですけれど、弟子たちは、それは主イエスがメシアとしてエルサレムで何か栄光の座に着く、その決心をされた、そういう風に思い込んでいたということでしょう。だから、それを阻む、拒んだこのけしからぬサマリヤの村、それは焼き滅ぼされてもいいのではないか、そういうことでしょう。ともかく、それがあなたのご意志でしょう、弟子たちはそう問うているわけです。しかし、主イエスはその提案を拒否します。55節「イエスは振り向いて二人を戒められた。」この「戒められた」という言葉も大変強い言葉で、叱りつけたと、実に厳しく戒められたという。つまり、ここでイエスの怒りは、サマリヤ人ではなく、この弟子たちに向けられたのです。

ともかく、サマリヤ人は非がある、悪である、弟子たちはをそう思っていたわけですが、しかし、主イエスはサマリヤ人を裁かない、サマリヤ人を悪としなかった、むしろ、他者を裁くご自分の弟子たちを悪としたということ。福音書は、それが、主イエスのご意志である、そのことが明らかにされます。わたしたちは、さしあたってここで正義ということを考えさせられると言っていいでしょう。そして、主イエスはわたしたちの持つ拠り所、その「正義」としてあらわれるものを厳しく戒められる、放棄することが求めているのです。何故でしょうか?

今日、丁度今日参議院選挙の日ですけれど、連日、新聞マスコミが取り上げる政治経済の混乱、無秩序、まさに正義の失われた社会のように言われます。そのこの国を救うものは一体何なのか。正しいことが正しいとされ、悪が悪として裁かれる、そのように私たちの間で正義が行なわれることである、多くの人がそう思っていると言っていいでしょう。それがない故に、わたしたちは怒り、憤る、あるいは、救いようのなさに絶望したり、また諦めたりしているだ、と。実に悪人が栄え、正しい者が見棄てられるかのように、この現実を感じてしまうわけです。悪を放置していいのか、ここで、弟子たちが提案していること、それは、まさしくそういう問題であると言えるでしょう。

そもそもそのような私たちの拠り所としている「正義」とは何か。私たちが、現実に、先のように、社会悪や不正に対して、悪に対して、正義を考える、そこでは、実は、正義を結局力の原理によって考えていると言えます。まさにこの弟子たちの提案、それは少々極端な提案ではありますが、実に、わたしたちは、正義を力の原理によってしか考えられない、そういうことを語っていると言えます。
ともかく、この弟子たちの提案が背景にしているのは、その極端さはともかく、力をもって報いるということに他なりません。主イエスよ、あなたはその力をもっているでないか、ということ。神の力の支配を望む。しかし主イエスは力に対して、力をもって報わなかった。それがイエスの固い決意であった。

正義とは、わたしどもにとってはそのように第一に力の問題となるのです。わたしどもが現実に感じている、悪に対する、正義に対する焦躁感、それは、悪を悪として裁く力に対する、正義を正義とする力に対する期待、待望です。力の原理によって考え、頼っているということ。この選挙でも、そう言う論理が、生き方がまさにむき出しになっています、あたかもそれだけが政治であるという風に。
そもそも、わたしの子ども時代のヒーローであったのは月光仮面ですが、月光仮面や鉄腕アトムから始まって、昔からあるこどものヒーロー、正義の味方は、端的に力でした。最近は、どんどんそのテレビなどのいわゆる「正義の味方」の力はエスカレートして、どっちが、悪だか正義たか分からないほど残虐な場面が展開されることがしばしばですが、それは、悪が、単に弱い悪であっては、現実にはこどもたちに訴えるものがないからでしょう。それ故、悪がますます力をつけていく、それに従って、当然、その悪を克服する正義も、それ以上に力を持たなければならない、そういう意味では、子ども番組というのは、大人社会のいわば縮図ですから、そうして正義が、より力を持つもの、力の権化と化していくわけです。つまり、正義と悪は、結局力の優劣の問題であるが故に、結局、最終的には、見分けがつかなくなるまで、エスカレートしていくわけです。だからそれは何も子どもの番組だけに限らない。時代劇とか、あるいは、いわゆる刑事を主人公とした大人の番組でも同様です。何故そうなるのか。もちろん、社会的な、われわれの時代の価値観の変容とか、そうした時代の反映と言えるのだけれども、しかし、いずれにしても、結局は、いつの時代も変わらないのは、悪も正義も、それは力の原理、本質的に、そこにあるということです。いつの時代も、この世はこの力の原理によってきたと言えます。力のない、無力な正義は考えられないのです。そのような現実主義。テレビの水戸黄門の印篭が端的に象徴するように、正義とは権力、力でなければならない。安心できないのです。もちろん、そのようなわたしたちも愛すること、互いに信頼し合い、愛することの大切さは知っています。しかし、悪に対してまず排除、裁き、それが先立たねばならない、そう考えるのです。それで非を認める、悔い改めるなら許してやっていい、と。力が先立つ正義です。

それで、一歩踏み込んで、このイエスの出来事を通して明らかにすることは、わたしたちは、今や、この聖書の前で、そのような力の原理ではなく、全く力の原理以外のものによって生きる、そのような生き方があるということです。イエスの決意とは、今や、そのような力の原理とは全く異なるものであるということ。しかし、私たちの眼からは、すなわち、力の原理によって考え、力の原理を拠り所として生きる私たちからは、このイエスの道は、まったく無力な、従って、愚かな、役に立たないものに見えるのです。
そのイエスの道 ― 力の原理によって生きる人間が、役に立たない、愚かしいものとして、侮り、見棄てたもの、それが、キリストの十字架です。聖書は十字架こそ、神の義であることを明らかにするのです。主イエスは、今やそこだけにはっきりとお顔を向けられているのだ、福音書はそう語るのです。

確かに、正しいことと悪とは、全く厳密に区別されなければならないし、裁かれなければならないでしょう。それ故に、キリストは、その悪を、御自分に担い、十字架において、人間の代わりに裁かれ給うのです。神は、十字架において正しさと悪を峻厳に区別し、悪を裁き給うのです。しかし、神は、十字架において最早正しい人間と悪き人間とを区別し給わないのです。何故なら、あの力の論理、力の原理は、決して人間を、正しいことをなす人間も、悪を行なう人間も救わないからです。力による正義は、決して人間を救わないのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)のです。先立つのは、力、裁きではなく、愛、愛すること。そのようにして悪に打ち勝つ方、それがキリスト、わたしたちの神。

何より主イエスご自身、その力ある方であり給うのに、最早、その力の原理によって、人間に臨まれないのです。それ故、主イエスは、この世からみれば、もっとも無力と、最も愚かになり給う。そのように力を放棄する力、それが端的にこのイエス・キリスト、すなわち愛なのです。この愛だけが、人間を悪から救い、罪から救うのです。
力としての正義を超える正義、神の義、それはただ愛のみなのです。イエスは愛によって悪に打ち勝ち給うのです。そして、それ故にこそ、この力の原理にでしなく、その力の原理以外の義、愛によってそ生きることを、イエスは促し給うのです。それは、私たちがいわば「正しい人間」になろうとすることではありません。そのような敬虔な人間になることではない、そう言っていいでしょう。と言うのも、実にあのヤコブとヨハネ、この二人は敬虔に、そして自分たちこそ「正しい人間」であるとして、そのように神の力、イエスの力を信じているからです。

1999年の春に、コロラド州カロンバイン高校、デンバー郊外のカロンバイン高校で起こった、2人の高校生が学校に爆弾を仕掛け、自動小銃などで生徒と先生13人を殺害し、自分たちも自殺をした事件が起き、全米のみならず、世界中に衝撃を与えました。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・カロンバイン」のきっかけとなった事件ですが、その犠牲者の一人にレイチェル・スコットという女の子がいました。彼らの事件前に作成したビデオの中で、レイチェルは既に名指しで殺したい相手に挙げられていたということですが、それは彼女がクリスチャンであったからと言います。ある日、その2人がフィルムのクラスで学校でみんなが殺されるという内容の映画を作ろうと言い出した時、先生も、だれもそれを止めようとしなかったそうですが、彼女がただ一人穏やかに、しかしはっきりとした態度で、彼らを止めようとしたのだそうです。そして、彼女は彼らの怒りの犠牲となったのです。3発の銃弾が彼女の急所をはずした後、犯人の一人が彼女の髪の毛をつかんで、「これでもおまえは神なんか信じるのか?」と聞いたそうです。しかし、彼女は”You know that I do”と答えた瞬間、犯人は最後の一発を彼女の頭に撃ち込んだのです。

それで生前彼女は「わたしの倫理基準」という題でエッセイの宿題を書いていた。その中で彼女は自分の倫理基準を「正直であり、人の痛みがわかり、すべての人の中によいものを見出す」といっています。そしてこう書いています。「私の基準はみんなのとは全く違うかもしれない。私の基準なんて絶対に実現しないおとぎ話みたいなもんだと思えるかもしれない、けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」その彼女の言葉どおり彼女は自分の死を通して人々に大きな影響を与えました。そして、今、彼女の両親をはじめ、彼女の教会の牧師や信徒の方々のみならず、そしてたくさんの人々が彼女のメッセージを携えて全米の中学高校を回っているそうです。

ここで今日の後半の物語を駆け足で見ていきたいのですが、デートリッヒ・ボンヘッファーは、ここについて、大事なことは、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならないともあなたは従えないともおっしゃっていないということだと言っています。そしてもっと言えば、ルカは、ここに出てきた三人の人々が結局従ったのか、従わなかったのか、その結果も記していないと。ただここで主イエスは今わたしが持つ、拠り所としているものをまず放棄することを求めているのです。主イエスに従う、それは自分を拠り所としては判断し得ないのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)、この三人に共通していることは、そういうことです。しかし、単にそれだけなら、たとえば「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9章22節)、主イエスは誰に対してもそう答えればよかったのです。もちろん、結局は「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」いく、そのことが求められていると言っていいでしょう。しかし、主イエスはここでその一人ひとりに違った答え方をされます。それはそれぞれ一人ひとり、違ったイエスへの服従、従っていく道があるということ。何故なら、また人それぞれ違った葛藤を持つからです。力を求め、力のもとに生きている限り、イエスに従っていくことはわたしたちに常に葛藤をもたらすものです。しかし、もう一度繰り返せば、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならない、あるいは従えない、とはおっしゃっていない。むしろ、そういう葛藤の中で、イエスはわたしたち一人ひとりを召し出す。ご自身のchain reactionに召し出す。自分のこと、この世のこと、その狭間にぶつかるわたしたちに声をかけて下さると言うこと。ということは、わたしたちもまた葛藤の中で召し出されている。葛藤があるから従えないのではない、葛藤があるからこそ、イエスはエルサレムへと進み、そしてわたしたちを召し出すのです。レイチェルさんの言葉を借りれば、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」ということ。

それ故、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、この主イエスの言葉は、何より常に、わたしたちの葛藤、苦しみがこの地上にあるからです。わたしたちが苦しんでいる、悩んでいる、不安に脅えているからです。そこでまた、わたしたちが尚力の原理により頼もうとするから、まず裁きを、そう考え、行動するからです。言い換えれば、思うようにならない生をわたしたちは生きている、そのことを主イエスはよくご存じだ、ということです。したがって、思うようにならない人生を勇気をもって生きる。思うようにならない、そこにわたしたちの苦しみや悲しみがあります。つまり、わたしたちは、この世にある限り、つまりこうして生きている限り、眼に見えるものに縛られている、どうしても手放せないでいる。でも、それが本当にわたしを支えるか、確かなものなのか?
それ故「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」 ― それはこの方の行く道はただ単に十字架の道、苦難の道だというのではないのです。それは、この方は、この地上では、まさに復活の主であり給うということです。誰もが、それぞれに十字架の道、苦難の道を歩む、自分の生の分だけ重荷があるのです。だが、それはただ単に、わたしどもは苦しみを負えばいい、重荷を負うのだ、ただ単にそれだけのことではないのです。そのわたしの苦しみ、重荷がある、そこで、いやそこでこそ復活、この復活の主イエス・キリストに出会うのです。そこでこそ、この方の復活が、わたしの命となってくださるのです。

わたしたちが悲しみにあうのは、あるいは苦しむのは、今まで確かだと思っていた、あるいは、そういう風に頼りにしていたもの、先に正義ということで考えましたが、それだけでなく、たとえば健康であれ、財産であれ、また家族であれ、そういうものが確かではなくなるからです。本当に信じられるものではない、そのことがはっきりしてくるからです。だから、そこで苦しむ、怖れ、不安にかられる、憤ったり、諦めたりする。しかし、わたしたちは、そこでこそこの方と出会っているのです。復活の主、永遠の生命である方の声を聴くのです。何より、その苦しみ、怖れ、不安を、悲しみを、傷みをこの方自身が担われ給うからです。復活、キリストの復活、それは、そのあなたを神は決して見捨て給わない、ということです。この弟子たちのように、何一つ信じることのできないままに、何の条件もなく、そのままに担われてい給うのです。使徒ヨハネは言います、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4章18節)。だから、こんなわたしが従えるのか、もうそう考える必要はないのです。パウロも言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)と。勘定は、ちゃんと私の方でする、だから、お前は私だけを見よ、と。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」それは、わたしたちが、この主イエスによって伴われる生であり続ける約束なのです。だから、勇気をもって、このわたしの生を受け入れていきましょう。そう、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」。

最後に、先日、北朝鮮による拉致家族の曽我ひとみさんが、ジャカルタで、北朝鮮に残された家族と再会されたことに触れたいのですが、あの再会の瞬間、家族を抱きしめる曽我さんがどんなに深く、夫を子どもを愛しているか、誰もが深く心打たれたと思います。わたしも涙を禁じ得ませんでした。一方でテレビ、マスコミは、それを引き起こした北朝鮮への憎悪をかき立てるかのように、ニュースを伝えます。でも、わたしは曽我さんが妻として、母として示してくれた、何ものにも消せない深い愛情、それこそ、いつか北朝鮮の人々の心をも動かす、いつか、この国と和解し得るのは、そのような行動だけである、そういうことを曽我さんは本当に教えてくれたと思うのです。愛とは勇気です。制裁、対抗、そのような力の論理が両国だけでなく、世界中に蔓延しています。でも、いつも静かに人を動かし、そして、人を救うのは・・・。みなさん、わたしが、あなたが「一つのchain reaction“連鎖”をはじめる」ために、このお方が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もなく」今わたしの中で、あなたの中で生きておられるのです。

2004年6月27日 聖霊降臨後第4主日 「涙の意味」

ルカ7章36~50節

 
説教  「涙の意味」  大和 淳 師
 今日の福音書が、何よりこの物語を通して語ろうとしていること、わたしたちに伝えようとしていること、それは「罪の赦し」です。「罪の赦し」、それがイエス・キリストの福音であり、もっと言えば「罪の赦し」とはイエス・キリスト、イエス・キリストが罪の赦しそのもの、そう言ってもいいでしょう。この女性、「罪深い女」と呼ばれているこの人、恐らくは娼婦であったと推定されているこの人は、そのようにイエス・キリストが「罪の赦し」であるが故に、この方のもとに近づいていったのです。

 ところで聖書が「罪」、そして、その「赦し」を語るとき、わたしどもは注意しなくてはならないことがあります。「罪」、そして、その「赦し」とは、まったく<わたし>の罪、そして、<わたし>の「罪の赦し」なのだ、ということです。つまり、わたしどもは、「罪」というとき、ほとんどそれは「他人」のそれなのです。あるいは自分についてであっても、全くどこか他人事のようにそれを考える自分がいるのです。このファリサイ派のシモンがこの方から離れて立って「これを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った」(39節)と言う、そのようにわたしどもは、他人の罪にはまったく敏感です。まったく他人の罪はよく見える、そう言っていいかもしれません。そうして必要以上に他人を裁いてしまうのです。

 離れて立って。もちろん、自分の罪に真剣に悩む人もいる、いやそういうときがある。どうしようもない重荷、自分の罪をかかえて生きている、そのことに苦しむ。しかし、ここにも危険があるのです。それは、いわば必要以上に自分を裁いてしまう罪、あまりに深刻に捉えてしまう罪です。

 いずれにせよ、わたしたちの中には、しばしばこの深刻である、そのことが判断、行動のいわば基準となってしまうのです。だが、問題が深刻であるということと真剣であるということは必ずしも同じではありません。深刻であるというのは、問題の重大さに心が深くとらわれているということです。このあるシモンのように。その彼の思ったということ、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、それは、主イエスが、この女の罪をまったく深刻に考えていない、そういう風に言っていると言い換えていいでしょう。この女の罪がどれほど深刻か、この人はそれが分からない、だから預言者ではない、と。こういうことは皆さんも経験があるのではないでしょうか。

 たとえば、大体夫婦喧嘩などは、わたしがこれほど深刻に悩んでいるのに、この人はちっともそれが分かっていない、そう非難を始めるわけです。でも、たとえば夫婦揃って、本当に何かの問題に深刻になってしまったら、恐らく解決は見つからないかもしれない。誰かが、やはり冷静に考え判断できなければ、それこそ一家心中というような悲劇となってしまうでしょう。それは極端だとしても、しかし、この深刻になるとき、わたしたちは、いわばそういう風に深刻になっているということに、いわば酔ったように、それだけ自分は正しく判断しているんだ、まともなんだ、そう思い込んで、他人を裁いているわけです。だから、深刻に振る舞わない人を裁く。しかし、むしろわたしたちは問題を負おうとしない、逃げ出したいからこそ、深刻になるのだ、とそう言えるかも知れません。本当に問題を負っているなら、深刻になる先に、既に行動している、その方が真剣である、そう言えるかも知れません。この女のように。あるいは、そこで本当に自分とは違う意見、理解に、このシモンのように腹を立てたり、非難することなく真剣に耳を傾けることができるのです。

 それで、先ほどのファリサイ派の人、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、そう思った、それは「これを見て」、そう思ったと書かれていることに注意したいのです。その「これを見て」というのは、この「罪深い」と呼ばれてるこの人の主イエスへの行動、態度を見てということですが、しかし、主イエスは、後で、その彼にこう言う訳です、「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか・・・・・・・・』」(44節)。「この人を見ないか」と。これは大変不自然です。主イエスは「女の方を振り向いて、シモンに言われた」、つまり、主イエスご自身はこの女を見つめて、しかし、その言葉はシモンに、しかも「この人を見ないか」と言われたのだ、と。それはシモンは、この人を見ていないのだ、ということと同時に、この方はまたこのシモンそのもの、ありのままを見ておられるのだ、ということです。と言うのも、この主イエスが、そのシモンに語られた言葉を見てみますと、大変具体的に事細かに繰り返し「あなたは・・してくれなかったが、この人は・・してくれた」と言われています。主イエスは、この人、この罪深いという女だけではなく、このシモンという人、この人にもまたそのもの、ありのままを見ておられるのです。つまり、しばしばわたしたちは誤解してしまうのですが、主イエスは、決して一方的にこの女の人の側に立っているのではないのです。言うなれば、この女の人の方が、シモンより深刻なんだ、そういう風に同情を寄せているわけではないということです。実は、あたかも、主イエスはシモンよりこの女の味方なんだ、そんな風にわたしどもが思ってしまうのは、ちょうど、このシモンが、この女の人を「罪深い女」なのに、そういう風に見ている、それと同じように、今度はわたしたちが、「この人はファリサイ派の人なんだ」、とそういう眼で見ている、つまり、やはり、わたしたちも「この人」そのままを見ていないわけです。しかし、本当に、誰であれ主イエスはありのままに見て、そして、ありのままに受け入れておられるのだ、そう言うことが出来るわけです。本当に誰に対しても真剣に関わるお方なのです。

 けれども、問題は、そのありのままということ、主イエスがありのままに見てくれているということです。そのありのままのわたしたちとは?そのことがここで主イエスは譬えで語られる訳です。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンの借金があった。そういうところからこの譬えは始まっています。わたしどもは、この額の大きさにどうしても注意がいきがちです。やはり、五百デナリオン、その方が深刻である、と。そして、更になるほど、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」、この問いに「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」、そうシモンは答えると、主は「そのとおりだ」と言われているからです。

 けれども、まず第一に、この主イエスの問いは、すでに「二人のうち、どちらが多く罪があるか」、そうは決して問うていません。そうではなく「どちらが多く愛するか」、そう問うておられる。そして、もっと肝心なこと、それはこの譬えの中心は、「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」、ここにあるということです。つまり、五百デナリオンであれ五十デナリオンであれ、ともかく、二人ともそれは返せなかったのだ、ということ。いわば、金貸しの立場から言えば、どちらも借金を返せない、つまりどちらも罪を負っているわけです。しかし、この金貸しは、何と驚くことに、二人とも「返すことが出来ない」、ただそれ故、帳消しにしてやったのだ、というのです。わたしどもは、比べれば、五百デナリオンの借金のある人の方がよほど深刻だ、つまり、五十デナリオンの借金の人よりよほど貧しい人間のように思ってしまうわけですけれども、「二人には返す金がなかった」、これが事実である限り、この金貸しから見るなら、むしろ、五十デナリオンの借金の人の方が、何と言っても額が少ないのだから、本当なら五百デナリオンの人間より返し易いはずなのですから、それなのに返せないということは、むしろ五十デナリオンの借金の人の方が五百デナリオンの人間よりもっと貧しいとも言えるわけです。つまり、どっちが深刻かで言えば、どちらも劣らずそうだけれど、その五百デナリオンから比べれば、その十分の一の五十デナリオンも返せない人間の方が今、この今よっぽど深刻な状態にいるのだ、と言えるかも知れない。しかし、主イエスはそういうことは一切問わない。ひたすら、どちらも返せなかった人間、そして、しかし、それが故に、赦されている人間として、つまり、まさにそれがありのままのわたしであるということ、そしてその罪、欠けもひっくるめて、いやむしろその欠けのゆえに自分を愛してくれる、そのようなお方としておられるのです。  だから、この女の人、だから、この主イエスのそばに近づこうとした。近くにいることを願い、それがかなって泣いた。この主イエスの傍らで自分自身である悦びを味わったのです。「生きる力」は、生きる喜びからしか得られません。そして生きる喜びは、自分自身である悦びなしに味わうことはできないのです。そして、生きる喜びとは、結局のところたった一つ、愛することができる悦びです。「この人を見ないか」とは、シモンへのその喜びへの招きなのです。

 星野富広さんのこんな詩があります。「いのちが 一番大切だと/思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった。」短い詩ですが、改めて読みますとまず「いのちが 一番大切だと/思っていたころ」という一言にはっとさせられます。「いのちが 一番大切だと思っていた」、当たり前のように、日々そう生きようとしている自分がいるからです。そして、「いのちより大切なものが/あると知った日」、「いのちより大切なものがある」、このことが更にまたハッとさせられるのです。「いのちより大切なものがある」、わたしどものこの日々、「いのちより大切なものがある」、「いのちより大切なものがあると知った」、星野さんはそう歌います。わたしは本当にそのこと、いのちより大切なものがあることを知っているだろうか、と。しかし、それよりもっと大事なのは星野さんは「いのちが 一番大切だと思っていたころ」、それは「生きるのが苦しかった」と言っていることです。だが、「いのちより大切なものがあると知った日」「生きているのが嬉しかった」。星野さんのこの詩は「生きるのが苦しかった」、そして「生きているのが嬉しかった」、「生きる」と「生きている」と言葉が変わるのです。それは自分の命が一番大切だと、自分で生きていると思っていたとき、生きることは苦しかった、しかし、「生きている」、「いのちより大切なもの」によって生かされている、そのことを知ったとき、その傷だらけの自分、一人で生きているのではないその自分が「生きているのが嬉しかった」、そういう思いが伝わってきます。これが、この女の人の涙の意味なのです。わたしにいのちより大切なものがある、既にある、それによって、あなたが既に生かされている、喜びがある。

 もう一つ、「この人を見ないか」とシモンに言われておられること、そこで見逃してはならないもう一点があります。それは、この女のしたことにしろ、そしてまた、シモンのしなかったことにしろ、そこで挙げられているのは、「わたしにしてくれた」「わたしにしてくれなかった」こと、つまり、ともかく一切、この方、主イエス・キリストに対してしたこと、またしなかったであるということです。したことにしろ、しなかったことにしろ、そのわたしたちの一切はことごとくこの方にしたこと、しなかったこと、そのようにわたしに相対しておられる方なのです。そうだとすれば、どんな小さなことでも、この主イエスの感謝として、悦びつつしていく、わたしたちのこの人生、生活に一切無駄なものはないのです。主が必要としてくださるのです。

 主イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる・・・」、そう言われています。主イエスを愛する、それはまことに「いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった」ということ、つまり、主を愛するとは、また自分に対して希望を持つことだ、そう言えるでしょう。今自分たちが置かれているまわりの状況がよいから生きているのが嬉しいのではない、希望を持つのではない。それは良いときも悪いときもある。いや、実際にはいつもそれが混在している、そう言えるでしょう。暗さもあれば明るさもある。「いのちより大切なものが/ある」、つまり、わたしはこれほどに赦されている、愛されている、その信仰を欠いたとき、いつも暗さだけを感じる夕方の生活となる、「生きるのが苦し」くなる。しかし、「いのちより大切なものが/ある」、わたしは赦されている、愛されている、その信仰に立てば、朝、まだ暗い、しかし光があるように、朝のように生きる。主を愛するとは、そういうことです。それで、最初に、問題を深刻に、必要以上に深刻に考えてしまうということを少し申しましたけれど、このことから言えば、それは実はわたしたちにとって申告なのは問題の大きさというより、結局は信仰の、いや不信仰の大きさの問題である、そう言い換えていいでしょう。

 主イエスは最後にこの女に、「『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」と言います。宮沢賢治が、死ぬ10日前に友だちへの手紙に残したというこんな言葉を思い起こすのです。彼はこう言うのです、「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか、月々働いたものの中から五円だけ(これは大正時代の五円ですが)家族を助けるとか、このようなことは、できる人にとってはなんでもないことのように思われるでしょうが、すでにそれができなくなった人間にとっては、神わざのように思われます。そういうことがわからないようでは、人生がわかったとは言えません。どうかあなたの生活をたいせつにしてください」。  赦されていることを知るとは「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか・・・」、そういう何でもないことができるということに涙が出るほど、本当に大切に思える、そういう風に自分の生活をたいせつにしていく。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」、それは、あなたにはこれからも良いときも悪いときもある。いつもそれが混在している。暗さもあれば明るさもある。嬉しいこともあれば腹の立つこともある。けれど、何よりまずあなた自身がこれほどに赦され、愛されている、だから安心して、どうかあなたの生活をたいせつにして行きなさい、そういうわたしたちへの約束なのです。自分の生活をそのように大切にできる人間こそが、また他者を愛する、たいせつにできるのです。あの人もこの人も、額の違いはあれ、でも等しくただ返すことができないが故に愛されている、赦されているのですから。

2004年6月20日 聖霊降臨後第3主日 「もう泣かなくても」

ルカ7章 11-17節

 
説教  「もう泣かなくても」  大和 淳 師
11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 短い小さな物語を今日ご一緒に読みます。イエスがナインという町の門に、弟子たちや大勢の群衆と一緒に近づかいていかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死に、棺が町の門から担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。そういう情景が語られています。
  母親は泣いていました。涙が止まらなかった。彼女は既に夫を亡くし、そして今また一人息子を亡くしたと言うのです。それは彼女にとって天涯孤独の身になったというだけでなく、彼女を養ってくれる扶養者をも失ったということを更に

物語っています。だから、その棺に付き添っていたという大勢の町の人々も一層悲しんでいる、それは人々の大きな泣き声に包まれた一団であったでしょう。

  その死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から郊外の墓地へと向かっていこうとしたそのとき、正反対の方向から、主イエスが、彼の弟子たちと大群衆と共に歩き進んできました。そのイエスの一団と葬儀の一団が、町の門、そこで出会ったのです。物語はそこから始まります。
  聖書はこの出来事をまことに見事なそのコントラストをもって描き出します。一方から、棺、死者を中心とした死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、その反対方向からイエス、命の群が町の門の中へとやってくる、その出会い、死と命、滅びと救い、絶望と希望がまるで衝突するかのように ― この鮮やかなコントラストは、しかし、この直前の百人隊長のしもべの癒しの物語から引き継がれているのです。

  このすぐ前の物語、それは、ヘロデの傭兵であった百人隊長、彼の従卒従卒が病気で死にかけていたというところから物語は始まっていました。その百人隊長は、しかしイエスのことを聞いて、町の長老に頼んで、その僕を癒してもらおうと彼らをイエスのもとに遣わした。そうしてイエスはその彼のもとへと向かったのですが、その一方で死は刻一刻と近づいていたのです。一方で、死が、しかし、他方から今やイエス、命が接近してくる ― そういう中で、この人、百人隊長は、主イエスに直接お出で下さらなくてもいい、主に直接その手で触れてもらわなくてもいい、ただ主イエスの御言葉、それだけで十分なのだという大胆な信仰に立つことが出来た、イエスが感心するほどのその信仰に立つことが出来た、そういう物語でした。

  つまり、こういうことです。死は最早この命である方、主イエスに勝たなかった。それどころか、いや何と言っても、この命、イエスが近づいてこられるとき、死は、この隊長、その心、彼自身を屈服させることもできなかった。その時、もうどうにもならないのだ、どうしようもないではないか、死はそう彼に語りかけていた。おまえは、いくら会堂をイスラエルの民のため、神のために捧げようとも、つまり、どれほど良い、立派な行いをしようとも、それは最早無駄だ、この死の前で何になろうか、と。しかし、この隊長は、イエスが近づいてこられる、その接近の中で、その無力、ちっぽけな、取るに足らない者であるがままに、死へと屈服するのではなく、イエス・キリスト、その権威に従った、すなわち真の自由を得た、そういう物語であったのです。

  そしてまた再びこのナインという町で同じように、死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、イエス、命をを中心とした群が町の門へと向かってくる、福音とはこの出会い。そのような人生の時に出会うこと。福音書は繰り返しそう語るのです。つまり、こういうことです。この葬儀の行進に、イエスと彼の一団、それはいわば結婚式のような喜び、生の喜びに溢れ、輝いているその行進、命が訪れるのだ、と。

  町の門、それは単なる町の出入り口ではないのです。古来、町の門、それは町の中心であり、会堂があり、またそこで勿論市も立つし、裁判も行われる、このように葬儀の舞台ともなれば、花嫁、花婿が晴れやかな姿を見せる。深い悲しみに暮れるようなときには、そこに座って、そこに伏して人々は嘆き悲しみ、祝いの時のは、そこで歌い踊る。それは人が泣いたり笑ったりする、会堂と共に人間の生活の中心、生活そのものであったのです。

  それ故、ここで福音書が語るのはこういうことです。町の門、広場、そこでこの死と命は、そのまますれ違って行くのではなかった。この死の群と命の群、その中心にイエスがいまし給う。イエスがその中心におられる、この二つの群の、この町の門、すなわちわたしどもの生活、生の中心となられた、と。つまり、ここでこの主がおられなかったなら、その中心、そこで力をもち、わたしたちを支配するのは、まったく死の力、その現実です。死 ― 命の何もかも飲み込む死、町の広場を真に支配するのは、そこでわたしたちが実感するのは、この葬儀、泣いている喪主、この母親、その死の生のリアリティーであると言っていいでしょう。

  聖書はそのことを、あの百人隊長の物語でも、ここでも、そのようなわたしたちであることを、その現実をありありと描きます。だが今や、悲しみが支配しているその中、その中心に主イエスがいまし給う。今わたしたちの町の門、生においても、イエスが、中心であり給う。すなわち、この死の群に対しても!

  問題はその主イエスが中心となられた、それは、どのようにこの方はわたしたちの生、その中心となられたもうか、です。つまり、主イエスがわたしどもの中心となられたとき、一体、どういうことがわたしたちにもたらされているのか?

  単刀直入に聖書はこう記します。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節) ― 他の誰でも、何にでもない、その母親、彼女に、悲しみ、苦しみの中心に真っ直ぐに目を向けてい給う、と。そこで悲しんでいる人間に。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。主イエスは深く憐れんだ、共に悲しんだ、そのようにして、イエスは、この死の群に対しても中心となり給うたのだ、と。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。つまり、この物語、その一切の中心は主が憐れんだ、「彼女を深く憐れまれ」た、そのことにあります。あのヨハネ福音書の復活物語において、天使たちが、そして更にこの復活したイエスご自身が、イエスを失った悲しみに泣いていたマリヤに繰り返し「なぜ泣いているのか」(ヨハネ20章13、15節)と語りかけたように、ここでも母親に「もう泣かなくともよい」と言われ給うのです。

  「もう泣かなくともよい」、神の憐れみが一直線に、この一人の人の悲しみの底、苦しみのどん底にある一人の人に向かって、もうすべてを失ってしまったと思っていたこの人に向かっていくのです。泣きながら、死んだ者によりすがるようによろめきながら歩く、死の行進を続けている人間、その悲しみをイエスがすくい取られるのです。その死の行進、誰も止められない、また止められるはずもなかった死の行進を、この方が、この方こそが止め給うのです。

  そして、なるほど、聖書はここでまるで信じがたいことを記します。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めたので、彼は彼をその母に与えた。」(13-14節)

  「すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めた」、しかし、それはここで起きていることの全く外側のことに過ぎません。それは事柄の周辺的なこと、ものごとの影のようなことなのです。ここで、聖書が心をこめてここで語り伝えていること、それは「彼は彼をその母に与えた」、この一言なのです。主イエスは、彼女の唯一人の息子を彼女に与えた、彼女は自分の人生を、新たにもう一度与えられた、聖書は、さりげなく、しかし心をこめてそのことを語るのです。いわば神の真心、神の命のぬくもりを伝えているのです。
  みなさんは旅行などに行って、たとえばガイドさんが「今日は雨で見えせんが、晴れていればここからきれいな湖が見えるんですよ」と説明されたとき、そんなありもしない湖なんか信じるもんか、そう思うでしょうか?そうか残念だな、そう思って、心の中で、その見えない湖のこと、あるいは見えない山を思い浮かべるのではないでしょうか?第一、そんな湖はあるもんか、そう思っているとしたら、その旅は決して楽しいものでも意味あるものにもならないに違いありません。人生というこの旅もまったく同じです。

  言ってみれば、聖書は私どもに、ちょうど、そのガイドのように伝えているのだ、と言っていいかも知れません。つまり、長い人間の歴史の中で、まさに本当に快晴の日々があった、そのとき、本当に一点の曇りなく、神様のみ業が現れ、そのとき、聖書の人々はそれを目の当たりにしたのです。しかし、残念ながら、わたしどものこの時代は、その日のように晴れているのではなく、ちょうど今梅雨の季節ですが、そのように日々雲がかかり、時には全く一寸先も見えない霧に包まれたりする。しかし、たとえ、今眼に見えなくとも、この主イエスの憐れみは、わたしたち一人ひとりに、神の愛はわたしたち一人ひとりに注がれるのだ、と。だから、天候の如何にとらわれず、その目に見えない愛を信じて、旅を続けるのだ、と。

  そして、これが事実であるとしたら、つまり、このように、イエスは、わたしたちの死への行進の中に、踏み込んでこられ、私の悲しみに真っ直ぐに目を向けておられる、そしてそれをご自分のものにされている、そして、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」 ― すなわち、立ち上がれ、このわたしと共に、あなたよ、起き上がれ、そのように言われ、その力をもって臨まれている、そのことが、このわたしの生、人生、この生活において事実であるとしたら!

  16節、こういうことが最後に記されています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」
  「大預言者が我々の間に現れた」、偉大なる預言者、わたしたちが思いがけない力をもった方があらわれた。これは文字通り直訳すれば、「偉大なる預言者が我らのもとによみがえった」、復活した、イエスは、わたしたちのもとに、わたしたちの中に復活した。そして、「神はその民を心にかけてくださった」、これも文字通り直訳すれば、「神はその民を訪れた」。神はわたしたちを訪れてくださった。

  神はわたしたちを訪れて下さった、なるほど、死が訪れる。だが、その死の群の中にいるわたしたちに、神は訪れて下さる。棺、死者、死がその中心であったこのわたしたちの生、その傍らで、さめざめと泣き悲しんでいる母親がいる、そのように、この生の中心に、そのような悲しみ、不安をどっかりともっている、そこから波紋のように、この悲しみが、不安が群全体を被っていくように、そしてその行く先は、まったくもって墓場、死である!生の終わり、この命の崩壊、それが迫っているこの群、この生活。このわたしの見えるところのこの事実!

  だが、思いもかけず、神はわたしたちを訪れて下さっていた。十字架の主が、わたしたちの真ん中となられていた。この方の憐れみ、いつくしみが、それにも関わらず包んでいる。本当に信じられないことに、思いがけないことに、そして恐れずにはおれないほどに、それがわたしたち、このわたし自身であると言うこと。
  だから、わたしたちも起きあがる、あなたも立ち上がることができる。イエスは息子をその母親にお返しになったように、あなたは、あなたにとってかけがえのないもの、あなた自身を取り戻す。だから最早泣き続ける必要はない、「泣かなくてもよい」、そのような人間としてここにいる。なるほど、わたしたちは確かに泣き崩れる人間。人知れず涙を流して生きている。そしてこれからも人には言えない悲しみを、苦しみを抱いて、この町の門、人生の広場を歩むかも知れません。だが、たとえそうだとしても、その悲しみの向こう、その涙の向こう、遠く彼方にイエスはおられるのではない。だから、わたしたちは、今やあたかもその悲しみの向こうにイエスを見るのではなく、あなたのその悲しみ、その苦しみの真ん中に、キリストの十字架、この方のよみがえりがある。希望!このわたしの中にではなく、わたしの傍ら、わたしの希望はこの主イエスにあるということ。

  だから、「もう泣かなくてもよい」。涙を拭いて、立ち上がることの出来る人間として、この方と共に涙のしみの付いた顔で、神はわたしたちを訪れて下さった、と笑うことができる。イエス、この方が近づいてこられる。だから、あなたは、そしてこんなわたしでも「もう泣かなくてもよい」、主は言われる、「もう泣かなくてもよい」、だが、きっとそのあなたをみつめてい給う主の眼は、真っ赤な眼をして、涙で溢れているのです。そしてそのあふれる涙の中で叫び給うのです、「もう泣かなくてもよい!」みなさん、みなさんも分かるでしょう、この「もう泣かなくてもよい!」は、また涙を知っている、その悲しみを自ら負っている人、涙を流す神だけが語りかけることのできる言葉であることを。

  梅雨、うっとうしい天気 ― でも、わたしたちは、この梅雨がやがて明けることを知っています。今は晴れていなくても、その空が見えなくても、再び空は、青空を、太陽を取り戻すことを知っています。しかし、聖書は告げるのです。それ以上に、あなたの人生に明けない梅雨、曇り空、雨はない、止まない嵐はないのだ、と。あなたはもう一人ではない!あなたはあなたであれ!

2004年6月13日 聖霊降臨後第2主日 「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」

ルカ7章 1-10節

 
説教  「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」  大和 淳 師
 先週、わたしたちは詩編からみ言葉を聴きました。今日、再びルカ福音書に戻り、わたしどもは福音書の「百人隊長」の物語を通してみ言葉を聴くのですが、その書き出しは「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」(7章1節)、そのように始まります。以前に申したと思うのですが、福音書、とりわけルカは、大変注意深く、一つひとつの出来事、物語を伝えるのに言葉を使っておりました。とりわけ、こうして新しく物語るときは、こういう書き出しは大変大切にしているわけです。ですから、この「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えて・・・」ということ、そこにはルカ福音書にとって大きな意味がこめられているのです。そのことを念頭に置きながら、もう少し前置きみたいなことを述べたいのですが、それで、この物語の舞台となっているカファルナウムは国境の町で、関税を徴収する当時その地方の領主であったヘロデ・アンティパス王の取税所があり、そのヘロデ王の軍隊が常駐していました。つまり、この百人隊長は、ローマ兵ではなく、そのヘロデの傭兵で、歴史家によれば、ガリラヤ人以外に世界中からシリヤ人、トルコ人、ゲルマン人などがこのヘロデの傭兵となっていたそうで、この百人隊長も、何人であるか分からないけれど、そのような異邦人であったろうと言われます。聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではないという意味ではなく、言うなれば、神を信じない、あるいは神無き民、すなわち野蛮人というニュアンスを含んだ言葉です。

  さて、この無名の百人隊長のひとりの部下が重い病気、死にかかっていたと聖書は伝えます。彼はその部下を重んじていた、そう訳されていますが、単に部下として重んじていたというより、この百人隊長にとって、その部下はかけがえの無い者のひとり、いわば家族同然の者、我が子のような存在であった、そういう意味が込められた言葉が使われています。

  そして、主イエスが、その彼の住むカファルナウムにやって来たのは、この前の章、6章20節からのみ言葉、マタイ福音書では「山上の説教」として知られているみ言葉を、すっかり語り終えてからであった、とこの7章1節で言われています。「すべて話し終えてから」という描写には、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6章30節)、そう語り始め、そして、その神の国にわたしたちが今や生きている、み言葉となって、わたしたちのもとにある、その一切をことごとく、語るべきことをすべてお語りになった、そうしてカファルナウムの町に入られたのだ、ということです。今や、み言葉がすべて放たれた。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来たのです

  そうして、カファルナウムの町に入られた、やって来られた。既に夕暮れであったでしょう。日は傾き、やがて夜の帳が訪れるのです。そこに、その町に愛する者が死にかかっている、その死の床で、その夜の暗闇を迎えようとしているひとりの男がいた。異国の町で、愛する者が刻一刻と死に向かっていく、その傍らで、この人はどれほど孤独を感じていたことでしょう。その瀕死の彼の部下もまた、この百人隊長と同様、遠い異国からやって来たのでしょう。深い孤独が彼らを包んでいます。長い夜がやって来る、夜が近づいているのです。

  だが、そのとき、彼はイエスのことを聞いた。闇の中でただ一つ希望の光が差し込んできたのです。彼は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(3節)。イエスのもとに使い、使者を出す、なるほどそれは、「百人隊長」という地位にある人ならではの発想と言えるかも知れません。使いを出して癒してもらう、少なくとも福音書の中にはそのようなことは他に例はありません。しかも、その使いは「ユダヤ人の長老たち」でした。言うまでもなく「ユダヤ人の長老たち」は、彼の部下ではありません。この人がもっている権限、地位とは関わりなく、今やこの人は、ただ助けを必要としているひとりの人間、無力な人間なのです。ここに、わたしのもとに、愛する者のためにイエスに来ていただく、彼はこの異国の地でなし得る精一杯のことを考え、実行するのです。恐らく、その「ユダヤ人の長老たち」に、彼は丁寧に事情を話し、丁重にことを頼んだのでしょう。その長老たちがイエスに語ることから、そのことが伺えます。彼らは言います、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。もしも、この隊長が自らの地位と権限を嵩にして、彼らを呼びつけ、命じたのなら、あるいは「自ら会堂を建て」たことを恩に着せてのことなら、彼らは、たとえ「会堂を建ててくれた」人であったとしても、こうは言わないでしょう。しかし、彼らは、自分の言葉で、自分たちの思いを、つまり、まさしくそれはまた彼ら自身の心からの望み、意志であることを伝えるのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と。

  福音書において、この異邦人とユダヤ人との関係がどのようにあったかを思うとき、この彼らの言葉は心を打つものがあります。真に心が通い合っているのです。考えられないようなことがそこで起きているのです。主イエスがその日、すべて語られたことが、既にその夕暮れに起きているのです。そうです、この方が語られたこと、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい・・・・・」(6章27節以下)。そのように今や異邦人とユダヤ人、その垣根を越えて、彼らは一つなのです。ただ一つのことに心を合わせている、合わせることができたのです。もちろん、彼らは、いわばこの主の言葉を行おうとして、そうしたのではありません。そして、これらのことは、この隊長の人格、人柄、つまり恐らくは常日頃、この人は、本当に優しい眼の持ち主だった、それが他人を理解し、受け入れる力となっていったと言うことももちろんできるでしょう。
  しかし、わたしどもは、ここで忘れてならないのです。今や、その彼らの中心に、いわば、たった一人の死の床で苦しむひとりの人間のために、そのように心を一つにしているその人間の中心に、この方、主イエスがおられるのです。この方は既にすべての言葉を語られたのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」、ヨハネ福音書がそう語る、その言であるお方が来ておられるのです。

  そもそも愛とは、わたしは愛そう、愛さなければならない、あるいは、わたしは愛の行為をする、している、そうして行い得るものでしょうか?敵をも愛する愛とは、むしろ、この彼らのように、そうしているとは思わずして行っている、行わずにはいられないことなのではないでしょうか?彼らは、彼らがなし得ることを忠実に、心をこめて行ったに過ぎない、いや、せずにはいられなかったのです。愛の行為とは、わたしどもは知らずにそれをするのだ、させてもらうのだ、そう言ってもいいでしょう。大事なことは、わたしどもは知らなくてもいいのです。もし知れば、あるいはわたしが意識すればするほど、わたしどもは傲慢になります。自己満足に陥るでしょう。何より、知らず内にそこに、その彼らに、今や主イエスがおられるのです。あの「ユダヤ人の長老たち」を通して、主イエスが既に働かれているのです。

  さて、主イエスは、そのユダヤ人たちに伴われて、夕暮れの道を、彼の家へと辿ります。しかし、出来事は思いもよらぬ展開を迎えます。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき」(6節)、聖書はそう告げます。つまり、もうすぐそこまで主イエスは来ておられたのです。ところが、まことに不可思議なことに、この百人隊長は、再び使者を出して、この主イエスを制止したというのです。待っていれば、直ぐにもこの方は来られるのに、もう直ぐそこまで来ておられるというのに。わざわざ友人を遣わして引き止めたのです。一体何が起きているのでしょうか?

  わたしたちは、この友人の言葉に耳を傾けなくてはなりません。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6b、7節)。まず、友だちはそう伝えます。ここで気づくことがあります。先のユダヤ人の長老たちは、いわば自分たちの言葉でとりなすようにイエスに話しました。それはそのまま、彼ら自身の思い、真心でした。しかし、この友だちは、自分たちの言葉というより、この隊長の言葉をそのまま、自分たちの思い、考え、感情をはさまず伝えているのです。それが故に友人なのです。ここにも自らのなすべきを知り、忠実に果たす人々がいます。まさにそれ故に友だちなのです。ここで、彼らが隊長の、この人の代わりをつとめてしまってはならないのです。彼のためにできること、それは、彼の言葉をそのまま伝えることなのです。恐らく、友であれば、彼のために、できることなら、自分の知っている彼のことを伝え、どんなに彼がよい人なのか、どれほど大切な友なのか、伝えたかったでしょう。だが、自分のしたいことではなく、自らのなすべきことを果たす、できるだけ正確に友の言葉を、この主イエスに伝えようとする、ここにも、そのようにして一つ心を通い合わせている人間がいます。聖書は、まさに活きた人間のドラマを伝えているのです。これら一人ひとりが生きているのです。つまり、み言葉は生きて働いているのです。

  さて、先ほどの問いの戻りましょう、一体この人に何が起きのか?聖書は直接にそれについて語りません。ただ、わたしたちはこの百人隊長がその友人を通して語ること、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」そして、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」、そのように言っていることから考える以外にないでしょう。

  この人、この百人隊長は、その彼の愛する部下の枕もとで、恐らくは、彼は今か、今かと、まだ来ないのかとじりじりするような思いで主イエスを待っていたのかも知れません。尚、深い孤独の中に、彼もまたいたことでしょう。しかし、そのような推測以上に全く確かなことがあります。それはこの出来事は、一切、この主イエスが来られた、そうして、この百人隊長に迫って来られていた、その中での出来事だということです。

  それは、彼の部下が刻一刻と死に向かっていく、いや、むしろ真実は、死が彼らに刻一刻と近づいてくる、まさにその死の力に対して、何という無力、ちっぽけな取るに足らない者であるか、現実的にこの人はそれを味わい、心底そうであることを実感せざる得なかった、その中で、であります。彼は揺り動かされます。しかし、その死の力に抗して彼に迫るものが今や彼にある!それはこの方、このイエス!このイエス・キリストは大胆にその死の力の中へ、そして、このちっぽけな、取るに足らない、まさに何ものにも「ふさわしくない」わたしたちのもとへ今、あのわたしたちを脅かし、恐れさせる死の力、その力を押し返すように、近づいてこられる、この隊長、この人は、まさに死の中にありつつ、しかし、このイエスの近づき、イエスの迫り来る中に、生命の力の中にいたのです。主が一歩一歩、ひとりの人間の生の中に来られる! それが「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えた」ということなのです。聖書、みなさんが今聴いているみ言葉、そのみ言葉が引き起こす出来事なのです。パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1コリント1章18節)である、というみ言葉の力、神の力なのです!

  それ故この物語では、「ただ一言言ってください」という願いにもかかわらず、その一言が語られることはなく、ただ使者たちが帰ってみると、彼の部下は癒されていた、そのようにして終わるのです。今や、み言葉がすべて放たれているからです。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来ているからです。

  聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではない民族というだけではなく、神を信じない、あるいは神無き民のことである、最初にそう申しましたが、その神無き人、神から最も遠いその場所に今や真っ先に救いが訪れたのです。もう一度、この百人隊長が言うことに心を留めましょう。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。・・・」

  ともかう「ふさわしくない」、彼が徹底して言っていることはこのことです。キリスト、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間、「ふさわしくない」場所にこそ向かうのです。このルカ15章で語られるあのわたしたちがよく知っている主イエスの譬え ― 九十九匹を残して、迷子になった一匹、つまり「ふさわしくない」たった一人を捜し求める羊飼いのように、あるいは、父の財産を放蕩に使い果たし、挙げ句の果てに家畜同然となった、つまり父に「ふさわしくない」弟息子を、その父親は待ち続け、帰ってくると走り寄って迎えるように、キリストは、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間にこそ与えられのです。

  今、その「ふさわしくない」人間であることにどんなに苦しんでいる、苦しめられている人がいることでしょう。会社や仕事、学校で、いやそれどころか家庭、家族の中で「ふさわしくない」人間であることに・・・。そして、教会は、どうして、それらの人を素通りできるでしょうか。わたしたちは、それらの人びとに何を語り、何をしてあげることが出来るのか、隣人として、友人として。

  それ故、わたくしは、何よりみなさんにこう語らなければなりません。ここにいるみなさん一人ひとり、みなさん、あなたがたもまた何よりことごとくこの「ふさわしくない」人間なのだ、ということを。あなた方自身何より、全く頭の先からかかとまで、ことごとく神に、このキリストに、したがって、この場所に「ふさわしくない」、それがありのままのあなたであり、わたしなのです。しかし、そうであればあるほど、ふさわしくなければないほど、神は、主イエスは、み言葉を通してそのあなたに、わたしに近づいてくる。あの羊飼いのようにどこまでも捜し求めくださったのです。あの父親のように、あなたを抱きしめて接吻してやまないのです。それがこの神、イエス・キリストなのです。だからこそ、「ひと言おっしゃってください」、すなわち、み言葉をください、み言葉を信じる、いやみ言葉だけを信じる、それが教会なのです。だから、大胆にみ言葉を求め、信じていいのです。今や肝心なこと、そのみ言葉に突き動かされて、わたしども一人ひとり、知らずうちに隣人となり、友人となっていくのです。キリストは、わたしたちの知らぬ前に、知らずうちに既に働かれるからです。

  この主イエス・キリスト、すなわち、「十字架の言葉は」、いや「十字架の言葉」だけが「わたしたち救われる者には神の力」なのですから。