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2011年1月16日 顕現節第3主日 「多くの子を産んだ貧しい羊」

マタイによる福音書4章12〜17節
説教: 安藤 政泰 牧師

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書4章12〜17節


イザヤ書9章の予言に「ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」と言う言葉に続いて暗闇の中に住む人達に光が照らされる、と言う約束が語られている。主イエス・キリストはヨハネが捕らわれたと聞き、ガリラヤに退かれた。旧約聖書を見ると、神は常にイスラエルの民にのみ働いておられるように受け取れる。私達はいつも旧約聖書を新約聖書の光の中で読む事をしなければ、真実を見る事は出来ない。それはイエス・キリストによる新しい約束、新約聖書の時代に今私達は生きているからである。

さて、新約聖書に於いて、イエス・キリストの初めの働きは、異邦人の町から始められている。み子の誕生は、貧しいベツレヘムの馬小屋で、働きは、辺境の地カファルナウムからである。この事は異邦人とは、関係ないようにみられるが、 当時異邦人と言う表現は、貧しい人、神から離れている人の意味があった。

主イエスはこの町をこのカファルナウム地方を自分の町、自分の土地として愛され、この町で過ごされた。この地から、兄弟であるシモン・ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ達が育った。そして、彼らが主の福音を全世界に伝えるのである。

当時の世界の中心は勿論ローマであった。その時の世界観からすれば、ユダヤ自体が、辺境の国であり、その中でも最も辺境な地であるカファルナウム地方が、神から選ばれた地方になったのである。なぜ、この地方が旧約聖書の予言に現れ、神に選ばれたのか。しばしば外敵からの侵略を受け、人々の心も生活も荒廃して居るような地方。この地方に住む人々は、いつしか、純粋のユダヤ人ではなくなり、多くは異邦人の血の交ざっている混血の人々が多くなったと言われている。国の中央に生活する人々はこの地方の人々を軽蔑し「異邦人のガリラヤ」と呼んでいたようである。その言葉の背後の意味は「神から見捨てられた地方」ということである。主イエスは、神は、あえてこの地方を選ばれたのである。この神の選択に私達は新約聖書のメッセージを読み取る事ができる。私達を選び、ご自分の民とされた、ご自分の子とされる神の深い愛を見ることが出来る。

私達も又、イエス・キリストのあの弟子、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ヤコブたちと同じように神に用いられる器とされるのである。イエス・キリストは弟子を整えて、その宣教のわざに遣わされた。

人々が軽蔑した「異邦人のガリラヤ」出身の学歴も財産も無い弟子たちが、働き、子を生み出したのである。貧しい羊が多くの羊の子を産んだのである。主が私達羊に何を望んでおられるかを知り、その働き人の教会に成りたい。

2011年1月9日 主の洗礼日(顕現節第2主日) 「イエスの洗礼と私・・・洗礼とは」

マタイによる福音書3章13〜17節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆イエス、洗礼を受ける

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章13〜17節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

さて、今日は「主の洗礼日」という教会の暦の日です。福音書も洗礼について語り、最後に、イエスの洗礼でと閉じています。3章には洗礼者ヨハネの洗礼についてありました。彼はヨルダン川で「悔い改めの洗礼」をしていましたが、多くの人々が受けていました。彼は自分の洗礼を「水で洗礼をする」といい、もう一つの洗礼について語っていました。「聖霊と火による洗礼」です。後者はイエスの、キリスト教会の洗礼を言います。今日はイエスの洗礼・・イエスが教会に命じられている洗礼とその意味について、考えていきます。

ただ、一つ蛇足ですが、誤解があるので、「聖霊と火による洗礼」に触れます。現在でも、洗礼は二つあって、二つめの洗礼を経験しないと、本当の信者でない。生まれ変わっていないと言います。二つめの洗礼とは「聖霊の洗礼」です。私が横浜教会にいたときに、そう言う方がいました。その方は自分が「聖霊の洗礼」を受けたことを、嬉々としてかたり、私のことを見て、生ぬるいと思ったんでしょうか、「先生のために祈っています」と言いました。私はからかうつもりはないのですが、正直言って、少しはからかう気で「何を祈るのですか」と聞きました。その人は「聖霊の洗礼・バプテスマを受けるようにです」と。私はお礼を言い、でも「そんなことで神さまを煩わすことないですよ。主はめぐみ深い方ですから、既に私に聖霊をくださっていますから」。すると、疑うように言いました。「本当ですか、どのようにして、いつですか」といいました。私は高校生時代に、横浜教会で、イゴルフ宣教師から洗礼を受けました。父と子と聖霊の名によってです。イゴルフ先生は、「あなたは聖霊を受けましたよ。それを用いなさい」といってくれましたし、私は牧師就任式の按手で、「さあ、あなたは聖霊を受けていますよ、行って福音を語りなさい」と告げられ。牧師として仕えています」。聖霊が、私に、お前は聖霊の賜物を用いていないねとか、聖霊で生きていないようだねとか言わない以上、私は聖霊を受けていることを否定できませんよ」といいましたが、その方は「おお!主よ」と言いました。失望したのでしょうか。変な牧師と思ったのかも。

キリスト教が衰退したり、生ぬるい様子を示しますと、聖霊運動が発生します。今もあります。ルーテル教会の行き方に失望して、その運動に参加する人がでます。私も、そんな方を経験しています。でも、よく見ると続かないで終わることが多いと思います。その人は自分の信仰は大学院クラスの信者だが、先生は高校生クラス以下と言いたいようでした。悪意はないのでしょうが、このような人は、信仰の裁判官のように振る舞いますし、自分の信仰を誇るのですね。聖霊がもたらす実の“愛、平和、優しさ、親切、柔和、誠実、節制”が見えないのは不思議でした。いい点が沢山あるのですが、なぜ、こんな間違いが起こるかですが、それは洗礼は神の業であるということをしっかりと理解しないことから起こるのです。神の業であるから、神の業を補完するような、確かにするような、別の“わざ”を待つことは要らないのです。たとえば、イエスの十字架は私たちの救いにとって十分だから、人間が何か補充する必要はないのと同じです。(反対を言うのが神人協力説があります・synergism)。私は、すべての誤りや誤解は、それが神の業であることを理解しない、見ない、知らないで、人間が何かしなければ考えることから来ていると思っています。

今日はイエスの洗礼を見ますが、普通は、イエスが洗礼を受けるとは考えられないことです。というのは、洗礼はペトロが次のように言っているからです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38・ペンテコステの説教)。また、イエスは罪のない方だからです。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。

「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。)(ヘブル4:15)。

では、なぜ罪のないイエスが洗礼を受けられたかですが、・・ヨハネは自分こそ、イエスから受けるにふさわしいというのは正しいのです・・マタイはイエスが「止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。「正しい」とは、学者は解釈しますが、「正しい」(ツェダカー)はヘブル語では救いを意味します。救いとは神の行為であり、死ぬべき人に命を与える神ご自身の業になります。私は、イエスはご自分の救い主としての働きを始めるあたり、その第一歩として受けられたと思います。私たちと連帯するためです。ですから、イエスは洗礼を尊重し、受けられたのです。ですから、イエスご自身も教会に洗礼を命じられたのです。ですから、洗礼を軽視したり、無視することは間違いなのです。

現在、洗礼はどう受け止められているでしょうか。先の聖霊の洗礼は別にしてですが。普通は、洗礼は人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。残念ことは、洗礼を受けると、そこで止まってしまう信徒があることです。俗に「卒業信者」です。これは意外に多いのです。信仰のABCで、それ以上行かない人です。卒業式ですが、日本語の感覚では、終わり、終点のように思いますが、英語では・・ラテン語ですが、コメンスメント・commencementですが、意味は始まり、開始です。ヘブライ人への手紙で、著者(パウロ?)は書いています。心して聞きたいと思います。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(新改訳)。

洗礼は実に豊かなもので、人を導き、聖別し、祝福し、神の国へと迎え入れる、栄光に満ちたもの・神の業です。

生ぬるい生き方の信仰者への批判として、前に触れた聖霊派の動きがありますが、中には、もう一回洗礼を受けたい、・やり直しを希望する方がいました。驚きました。気持は分かりかすが、洗礼の意味を間違えています。ある意味では、洗礼について正しく理解していないから、信仰生活が、生ぬるいし、信仰の確信がつかめないと言えます。洗礼の仕方は二つあります。額か頭に水を注ぐと全身を水に入れる、です。ルーテル教会は前者です。

次の質問にどう答えますか。ルターがあるとき、したものです。「あなたはどうしたら自分がキリスト者(クリスチャン)であると、自分で知ることができるでしょうか」。また、私からの質問ですが。「自分の信仰が、揺るいだとき、悩みに落ちたとき、悪魔が信仰から引き離そうとしたとき、どこに、立ちますか」です。多くの方にとって答えにくいと聞きました。でも、ルターの質問も、答えは簡単なのですが、私たちは自分の信仰に、固い自信がないからです。たいていの方は自分の信仰は貧しいものといいますし、感じます。後者の私の質問も、うろうろしている自分を思い出します。私たちの周りには、多くの仲間が信仰から、脱落したりするのを見ます。答難いのというのは、教会が正しく教えていないと言うことも原因です。信徒も、今さらそんなことを聞けないとか、恥ずかしいと思います。で、答えを見いださないで、教会から去っていく場合もあります。

ルターは、最初の質問に答えています。「あなたはご自分が洗礼を受けていることを知っているでしょう。それならば、ほかに知らなければならないことなどありません」と、はっきり言っています。また、彼自身も、ある時、サタンが現れた時に、インク瓶を投げつけて、「私は洗礼を受けているんだ」と答えて、悪魔を追い払っています。その傷跡が部屋に今もあるそうです。私の質問への答えですが、私もルターと同じように、「洗礼こそ、私たちの帰る原点だ」と答えたいと思います。“Back to the Baptism”・・Your My Baptismです。私は自分の洗礼を自分の出発点としながら、現代の社会で、キリスト者として生きる力と意味を、今年は見直ししたいと思っています。旧約聖書で預言者イザヤは、勧めています。(46:9)「思い起こせ、初め(昔)のことを」。これは面白いですが、日本は「忘れる」ですが、ヘブル人は「忘れるな・覚えていよ」が特徴です。

洗礼とは何でしょうか、どんな意味が私にあるのでしょうか。私も復習の意味で考えて見ました。凄い内容でした。自分でも忘れていたことや、洗礼準備コースで教えたつもりですが、どれだけ皆さんが覚えているかです。共に学んでいきましょう。

1.神との永遠の契約です。私たちが神の子として、神のものだという“しるし”(十字架の)です。神に属するものとして“刻印・焼き印”額に(目には見えませんが)持つものです。大きな印鑑で押しているのです。洗礼において神はわたしたちをご自分のとものとされたのです。私たちは神に選ばれたのです。洗礼は神との永遠の契約ですから、それは永遠に有効なのです。再洗礼は不要です。ルターはこう言っています。「洗礼は、神が私たちを所有されていることを示すしるしである。神は私たちのために代価を払い、私たちに刻印・焼き印を押し、私たちを買い取られました。それ故、私たちはもはや恐れることはなく、静かな確信を持って生きることができる」と。そう思います。ルターは面白いことを言っています。「神は“嫉妬・jealousy”の神だから、ご自分の民に他の神々がちょっかいの手を出そうとするのを、決して赦しません」と。私たちは神の中にあるのです。私は確信を持っています「神は、この私を知っていてくださる」と。確かなことです。パウロは迷っていて、信仰から落ちようとしたガラテヤの教会に書いていました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から(神に)知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ4:9)。

2.洗礼はキリストと一つになること・・よく、日本では神と一つになるというと“エクスタシー・ecstasy”つまり、忘我、有頂天、恍惚、法悦にとります。えも言われぬ・何とも言い表せない感情です。私は先日、コロサイ人への手紙の注解書を翻訳しました。その中で、パウロは洗礼について書いていました。以下です。

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。・・・罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」。(コロサイ2:12-13)。

パウロはさらに、「神は・・・わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。(テトス3:5)とも書いています。

洗礼は古い自分がキリスト共に死んで、私たちを新しく生まれた者、新しく創られた者にするのです。素晴らしいことではないでしょうか。この罪の中にいた者が、その罪が洗われて、新しい人として変えられ、生まれるのです。自分は変わる必要がないと思う人は、変わりようがありません。手がきれいな人は洗う必要がないからです。丈夫な、健康な人には、医者は要りません。

そして、新しくされた人は、それは神がなされた業ですから、その神は必ず、最後まで導かれるのです。パウロはこう言いました。フィリピ1:6です。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。私はそう確信しています。

黒人霊歌に「アメージング・グレース」というのが、よく歌われます。本田美奈子さんや森山良子さんが歌います。数年前の関東地区サマーキャンプで、小坂忠先生のは、信仰がこもった歌い方でした。それは「驚くべき恵み!」と訳されます。私は今、神に見いだされたことを歌ったものです。救われた瞬間を思い起こしているのです。しかし、多くの人は、後半の言葉を忘れています。それはこうです。「これからも神の恵みが私たちを、ふるさとへ導いてくれる」と。故郷とは神の国・私たちに用意されている天です。パウロが「わたしたちの本国は天にあります」と言うとおりです。私の時は神のみ手の中にあると信じて生きたいと思う。

3.洗礼は、普通、人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。教会から離れた、独身の信仰者はいないと言うことです。ぽつんと離れた、無教会的な信徒は存在しないのです。日本には無教会というのがありますが、でも仲間・グループをなしています。

教会の洗礼式で、私たちはショウ・見せ物を見ているのではないのです。私たちは新しく洗礼を受ける人の、教会の仲間・会員として集まっているのです。そこでこう言います。「今や、あなたは私たちに属する方です。そして、私たちはあなたに属する者です」。洗礼は私たちを、教会に、人々の共同体に、つまり、キリストの体に結びつけるのである。私たちはその(キリスト)の体のメンバー(部分)になるのである。だから、私たちは皆、家族です。“Christian family”です。よく“家庭的な教会”と言います。何かいい感じを思いますが、これがくせ者です。マーマー主義になります。信仰生活でお互いに見ぬふりをする、注意しない。そして、居心地のいいグループになる。それが暖かい教会と思います。それは違います。「ブロークン・ウィンドー理論・Broken window theory」と呼ばれている言葉があります。こわれ窓が放置されている学校は規律が甘いので、少々のいたずらを見過ごすだろうと思われてしまう。いたずらを見過ごすなら、少々の悪事も見過ごすと思われてしまう。やがて地域の荒廃、衰亡に至ります。教会も同じです。自分の教会を見直してみたい。会員はお互いに「切磋琢磨」したい。

私たちの交わりは、本当は“み霊による生活”です。それは相互責任の共同生活、相互に分かち合う共同生活です。パウロはこう言っています。どうですか。

「私たちは従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ローマ7:6)。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(同12:11)。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。(フィリピ2:11ー12)。

1965年のミス・アメリカの美人コンテストで、ボンダ・ケイ・バン・ダイクは、最終審査に上がる前に祈りました。自分が最善を尽くせるように、またできれば、キリストの証人となることができるようにと。彼女はチャンスを手にしました。司会者は「あなたが、幸運をもたらすお守りのように、いつも聖書を身に付けているのを、私は知っています。あなたの宗教について一言どうぞ」と求めました。すると彼女は「私はお守りとして聖書を持っているのではありません。聖書は私にとって大切な本です。神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。私は、神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされるように祈っています」と。

私は彼女の言葉の「神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされる」ことを、共にする所が教会だと思っています。宗教と信仰の違いをしっかりと見極めなくてはならない。私たちは案外、宗教的な生き方をしています。ぞれが信仰と誤解しています。

私たちは家族との生活を通して、家族とはなにかを学んだはずです。家族の中で共に生き、責任を持ち、それを果たし、相互に教え合い、共に食卓を囲み、互いに愛し、愛されることを通して学びをしたはずです。それと同じく、教会・神の家族においても、参加し、経験しながら成長していくのです。パウロは次のように勧めています。コロサイ3:12以下です。この教会の結婚式でよく読まれます。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

ルターは洗礼について、こう言っていました。「神は水の中に(洗礼に)祝福という真珠をおくのである。信仰は無代価の賜物として、これらの祝福・真珠を受ける手である」。

その洗礼を思い起こし、その原点に立って、救われた者として、日々生きたいと思います。

アーメン

2011年1月2日 顕現主日 「希望があれば待てます」

マタイによる福音書2章1〜12節
説教: 安藤 政泰 牧師

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

マタイによる福音書2章1〜12節


今日は私達の主イエス・キリストの顕現を記念する日です。顕現とは現れると言う意味です。

 

第一日課のイザヤ書は紀元前538年頃に記されたとされています。ペルシャの王クロスは、ユダヤ人捕囚の帰国を許可しました。そして人々は自分の国、ユダ、イスラエルに帰りはじめました。この帰国後のエルサレムで活躍したのが、予言者イザヤです。バビロニヤから帰国してみれば、祖国は、貧困、流血、荒廃のきわみでありました。またすべての人が帰国して来ていない状態ではまだまだ、過疎の状態でした。

多分、国家を指導するような人材の帰国は政治的理由から後回しにされたりした可能性もあります。この我が祖国の暗たんとした状況下で、人々は不安と焦りの毎日を送っていました。そのとき、予言者は、人々に救いの約束を告げています。それは、明るい未来への宣言であり、来るべき神の国への宣言でありました。神が与えられる恵みの知らせであり、力強い希望の言葉であります。エルサレムを地にくずおれて嘆き悲しむ女に例えて、彼女のもとに、主が来ることを告げています。 それは栄光の主であり、栄えの主です。その輝きで彼女も又、輝き恵まれる、と言う良き知らせであります。

この予言の成就として、「神の与えられる恵みの良き知らせ」が本日の福音書の日課マタイ2章の記事であります。特にこの博士の物語りは、歴史的な事実や追憶ではなく、どちらかと言えば、神学的な表現であると言われています。先に述べたように、 顕現とは現れるという意味です。顕現主日の主題は、幼児イエスが私達のまえに現わされたことを覚えるということです。 東の国の博士達が幼児イエスの誕生を星により知り、訪ねてくる記事が今日の福音書の日課にありますが、この幼児の誕生を一番初めに祝い、訪ねたのは異邦人であったのです。東の国の博士達は、「星を見て」と記されています。しかし、これは正確には星の昇るのを見て、と言う意味です。新しい星の昇るのをみて、東の国の博士達ははるばる訪ねて来たのです。

この世に新しい星が現れた。それは希望の星であり、平和を導く星であります。

この星の元に生まれた幼児が初めに直面した問題は何であったのでしょうか。

虚偽と陰謀、暴力と殺りくの現実です。外国人から王の誕生を知らされた当時の王、ヘロデは、自分の身分の崩壊と追放、身体の危険を早々と予測してしまいます。そして、その王の誕生を確かめた後、その幼児を殺すことを考えるのです。しかし、私達は神がこの世の現実を支配しておられることを知っています。人間のどんなたくらみも神のご計画には逆らうことはできません。幼児イエスの顕現は私達には神の恵みの計画の顕現です。ヘロデ王の虚偽と幼児殺りく、虐殺、と言う状況の下でさえ、イエスについて喜びの表現を記しています。同じように、予言者イザヤも打ち砕かれた町で苦しんでいる民に夜明けの喜びを宣言しています。

教会はこのキリスト・イエスの力を心から喜びをもってむかえます。それは人間を脅かすあらゆる悪の息の根を停めてしまう力をそこに見るからです。

キリストに現れた神の恵みの計画をそこに見るからです。

2010年12月26日 降誕後主日 「かつて語った神は今語る」

マタイによる福音書2章13〜23節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆エジプトに避難する

2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

◆ヘロデ、子供を皆殺しにする

2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。2:17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。2:18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

◆エジプトから帰国する

2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書2章13〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように アーメン

 

クリスマスを思います時、私たちは喜びやうれしさを思いますが、反面大きな悲劇があったことを知ります。それは今日の福音書・・先ほど読みました・・に書かれていました「幼児虐殺」です。カトリック教会の暦では「幼子(児)殉教者」の日として定められています。12月28日になります。幼児虐殺は幼児イエスがエジプトへの逃避に続く出来事です。発端は東方からの博士たちの来訪でした。マタイはこの前に書いています。マタイですが、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

で、ヘロデ王は怒って、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のです。5-6世紀の美術画ではその様子が書かれています。画は兵士たちが母親から子どもを引き離し、背中に負ぶってヘロデ王の前に連れてくるのと、兵士たちが泣き叫ぶ母親から子どもをもぎ取り、地面に投げつけたり、槍に串刺しにする殺戮(さつりく)の場面があります。この子ども達は殉教聖人として讃えられています。エレサレムの聖誕教会には四世紀から彼らのための礼拝堂があります。

問題はこの出来事がヘロデ王の個人的欲望や残酷な性格、猜疑心から起きたことではなく、預言されていた出来事だと言うので問題です。「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。同じような言葉がここにあります。エジプトへは「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあり、イエスがベツレヘムでなく、ナザレに住むことは「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。ですから、全体は神が預言したことの実現であると見ているのです。預言とは旧約聖書のことです。

聖書は二冊・旧約聖書と新約聖書からなっています。旧約は旧教・カトリックの聖書で、新約は新教の本ではありません。いろんな読み方がありますが、よく見ると、旧約も新約もイエス・キリストを指していることが分かります。それを一番よくあたわしているのがヘブライ人への手紙の11:1-2節前半です。こうあります。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子・(イエス・キリスト)によってわたしたちに語られました」。ここに三つのことが言われています。第一は時代の違いです。旧約は「かつて」と言う時代です。「かつて」とは「過去のある時に、「以前」です。紀元前14-5世紀です。新約は「終わり日・時」と言う時代です。イエスの時代です。紀元1世紀です。第二は語りかけた相手です。旧約は「先祖たち」です。新約は「私たち」です。第三は神の言葉を仲介・両方の間にたつ者の違いです。旧約は預言者です。神は預言者を通して語られたとは「旧約聖書」です。新約はイエス・キリストをとおして語りかけられました。新約聖書は神がイエス・キリストを通して語られました。「終わりの日」ですが、神の啓示・神の心を表し、示すこと・・がイエス・キリストによって完全に示されたと言うことです。ですから、私たちはイエス・キリストを通して神のみ心を知ります。

ちょっと難しくなりましたが、旧約と新約の関係を示しました。ある先生はイエスの全ては旧約聖書に予言されているといいましたが、米国のヘンリー・ベッテンソンという学者は「聖書ハンドブック」という本で、「旧約の3000以上の予言が新約で成就していると実例をあげていました。私が大学生の頃ですから、今から50年前です。今でもあるかもです。その本は考古学的なことも、しっかりと検証して、ノアの箱船のアララット山での発見をかいていたと思います。聖書の全ては間違いないということを主張していました。

それを「聖書無謬説」と言います。聖書は誤りがないということです。私もこの立場におります。

ところで、今朝の悲しい出来事が予言(600年前の)であり、それが成就したと言いますと、内心穏やかでないものがあります。イエスを裏切ったユダについても、似たような意見がありあした。幼子たちが、殉教者として崇められていたとしてもです。どう考えるべきでしょうか。旧約聖書の創世記35:16-20に歴史的出来事があります。

マタイは、エレミヤの言葉を引用して、この出来事もまた、預言の成就だと言っているのです。一般の方やユダヤ人でない方には理解が出来ないかも知れませんが、ユダヤ人には大事なのです。歴史的出来事を説明します。こう書いてあります。エレミヤ31:15-16にあります。創世記を知らないと難しいですが。それは牧師の役割ですから説明します。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る」

アブラハムの孫ヤコブの妻ラケルは、ベツレヘム付近のラマで子どもを産みました。難産で死に、ラケルは葬られました。その出来事をエレミヤはバビロニアに滅ぼされ、「バビロニア捕囚」になります。強制的にユダヤの国から、バビロニアに連れていかれ、異国で暮らしました。その時のユダヤ人の悲しみの声を表現するために、昔のラマでのヤコブの悲しみの出来事に関連させて語ったのです。子どもを殺された母親の悲しみを指すものとして引用されています。難しいですが、昔の悲しみ(予言)が、今また目の前に起きていると考えるのです。考えると頭が痛くなります。歴史は繰り返すですか。

では、この三つのこと・・幼児イエスのエジプト逃避、子どもの殺害、イエスが「ナザレの人」という・・が予言とその成就といわれることの意味を考えましょう。何を聖書は私たちに語っているかです。

全体的に見て、私は神の救いの計画とそれを妨げるものの力との対立を見ます。最終的には神の勝利を伝えていることです。これをしっかりと持ちたいと思います。

イエスは公に伝道の業をする前に、荒野で誘惑に合いました。イエスの使命・・救い主としての・・を妨げる、悪魔との戦いでした。(マタイ4:1-11)。イエスの生涯は誕生から十字架まで、悪魔というか敵対する力との戦いだとも言えます。イエスの十字架は、あるものにとっては、ユダヤ人や、敵対する力には、イエスの敗北と見られます。しかし、私たちにとっては、イエスの勝利でした。イエスの復活がそれを証明しました。復活祭の讃美歌は勝利を歌います。「キリスト勝ちて、仇みな滅びぬ」(98)とか「戦い終わりて、主は勝ちたもう」(89)。勝利の朝、日です。」

私は次の二つのイエスの言葉がすきです。一つは「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。(ヨハネ14:19)。もう一つは「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。(ヨハネ16:20)。イエスが十字架に就く前、直前に弟子たちに・・不安で、悲嘆に暮れるであろう、弟子たちにいわれた言葉です。イエスの十字架の死は弟子たちにはイエスを見なくなることでした。それはこの世の人々には喜びでした。最大の敵を始末したからです。自分たちは安心だと思いましたからです。一方、弟子たちにとっては、悲しみでした。最愛の主が死んだから、もう目には見ることが出来なくなる。たとえ三日とはいえ悲しみの日でした。しかし、復活の朝、悲しみは喜びに変わりました。「その悲しみは喜びに変わる」。約束の通りになりました。この言葉はいつの場合にもそうだと思います。日々の信仰生活で様々なことが起こります。いいことも、またそうでないこともです。思いがけないこともあります。悲しみや悩みに入ることもあります。そんなとき、「その悲しみは喜びに変わる」。「喜びに変わるのだ」ということを覚えていたい。

イエスの誕生の時に、悲しい出来事が起きたと言えますが、私はイエスの救いの働きの陰に大きな犠牲があったとおもいます。子ども達は聖人としてありますが、その大きな犠牲があったからこそ、私たちの救いがあるのだと思わざるをえません。その神の心を思いますが、神も苦しまれたとも思いますが。どうでしょうか。

一つイエスは「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」という言葉を説明します。イエスは「ナザレ人のイエス」(各福音書)ています。十字架の時、上の方に「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。この呼び方は、軽蔑される名称でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1;46)といわれていました。イエスがメシアとして、崇められるより、軽蔑され、拒絶されることを意味しています。イザヤ書53章など見るとはっきりします。それも預言の通りであるということです。

今年も、最後の礼拝を持ちました。いろんなことがありました。思い浮かびます。共に礼拝し、主を讃美し、感謝をしたことを、うれしく思います。貧しい説教に耳を傾けてくださって感謝をします。少しでもおやくたったらさいわいです。悲しいこと苦しいこと嫌なことがあったでしょう。しかし、それは「しばらく」の事です。しばらくすれば、「喜び、楽しみ」があります。4月には新しい牧師が赴任します。大きな喜びです。それを見ながら、共に進みたいと思います。

神と共に、新年を迎えましょう。よい年を迎えてください。

アーメン