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2010年12月12日 待降節第3主日 「神、われらと共に」

マタイによる福音書1章18〜23節
説教: 江本 真理 牧師

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイによる福音書1章18〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

待降節(アドヴェント)の歩みも3週目に入り、聖壇の上のアドヴェント・リースのロウソクには3本火が灯りました。待降節の第3日曜日は伝統的に「ガウデーテGaudete」と呼ばれます。これは「喜びなさい」という意味のラテン語です。待降節の第3日曜日を、私たちは特に喜びの主日として守るのです。なぜ「喜びなさい」なのか。それは、救い主イエス・キリストをお迎えする時が間近に迫っているからです。フィリピ書の言葉を引用するならば、「主において(常に)喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます」(4:4-5)ということです。主はすぐ近くにおられる。主の約束は既に成し遂げられつつある。だから「ガウデーテ」、「喜びなさい」。これが今朝の礼拝を守りながら、私たちが心に留めるべき主題、テーマであると言えます。

今朝与えられております御言葉は、マタイ福音書が記す「イエス・キリスト誕生」の次第の箇所です。クリスマスの記事はもう何度も読んでいる、そのストーリーもよく覚えているという皆さんが多いと思いますが、皆さんがこのクリスマスの出来事を聞くときに、一番不思議に思うこと、このクリスマスの出来事における神秘とは何でしょうか。

このクリスマスの出来事における最大の神秘、私たちが一番不思議に思うことは、主イエスは聖霊によって宿ったということではないかと思います。私たちは、使徒信条の信仰告白の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白します。今日のマタイの箇所でも、主イエスの誕生のことを、それは「聖霊による」ことなのだと繰り返し語っています(18節、20節)。あるいは、ルカ福音書に記されるマリアへの受胎告知の場面においても、天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたマリアが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながら答えたのに対し、天使はこう言っています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…神にできないことは何一つない」と。つまり、「聖霊」とは「いと高き方の力」「神の力」なのだと。そしてその聖霊によって、神の働きによってクリスマスの出来事は起こったのだということです。

ですから、「主は聖霊によって宿り」ということ、このクリスマスの出来事が聖霊のわざ、いと高き方の力によるものだということは、私たち人間の力によってではないということです。私たちの人間の思いや力をはるかに超える仕方で起こった出来事がクリスマスなのです。私たちの考えや想像をはるかに超えてもたらされたこと、それが「聖霊によって宿り」と言われる、主イエス・キリストの誕生(クリスマスの出来事)なのです。私たち人間がクリスマスを生み出したわけではなく、私たちの側に、最初から、この出来事がもたらされる資格があるとか、クリスマスを受け容れる用意があるとかというわけでもないのです。むしろ、「聖霊によって宿り」とは、私たち人間のどんな現実「にもかかわらず」「宿り」ということなのです。

クリスマスの記事の前にマタイ福音書は、長い系図を書き記しました。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚まで、そしてクリスマスの出来事までです。しかし、なぜこの系図が記されているのでしょうか。この系図から救いがやってきたからでしょうか。そうではありません。この系図からではなく、この系図へと救いがやってきたからです。聖書が記している系図は、人間の能力や優れた血筋を示している系図ではありません。むしろ、人間の嘆きが示されている系図です。そこに名が記されているタマル(3節)は、創世記38章によれば、夫に先立たれ、舅から忘れられた婦人でした。クリスマスの系図は、このタマルのいる系図です。ラハブ(5節)は異民族の遊女であり、ひとり救われイスラエルに加えられた女性でした。そのラハブのいる系図です。ルツ(5節)はやはり異民族の婦人で夫を失った人です。そしてダビデの計略によって敵の手を借りて殺されたウリヤ、その妻(6節)がそこにはいます。そういう婦人たちのいる系図です。そしてそこにはアハズ(9節。イザヤ書「インマヌエル預言」を示された)がいます。列王記下16章によれば、このアハズについて次のように記されています。彼は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。彼は高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」。要するに、この系図は人間の罪とその嘆きの系図、人間の危機の系図です。そして、これこそ人間の現実の歴史ということではないでしょうか。主イエスは、その人間の歴史のただ中に「自分の民をその罪から救う」(21節)ためにやって来られたのです。人間の過酷な現実、苦しみや悲しみ、欺きの絶えない現実にもかかわらず、主は人間を救うために、聖霊によってその中に来られたのです。そのようにして「神は我々と共におられる」ということが現実になったと聖書は告げるのです。私たち人間のどんな現実にもかかわらず、主は聖霊によって宿り、そして「神、我らと共に」なのです。

それでは人間は、どういう仕方でクリスマスにいるのでしょうか。「主は聖霊によって宿り」と告げられている待降節の人間はどのようにそこにいるのでしょうか。それは「おとめマリア」として、あるいは「ヨセフ」としているのです。ヨセフのことを考えてみましょう。ヨセフは「正しい人であった」と記されています。しかし、「主は聖霊によって宿り」に対して、ヨセフの「正しい人」としての決心は、マリアと「ひそかに縁を切ろう」(19節)とすることであったというのです。その理由として、19節には「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」とあります。「彼女を恥にさらすようなことは好まなかった」とも訳せる箇所です。ですから、ヨセフは決して自分のことだけを考えていたわけではなく、マリアのことを考えて「ひそかに縁を切ろう」と決心したのです。このヨセフの決心は、人間としては正しい決心であったかもしれません。しかし、それだけでは人間の罪や悲惨さからの救い(解放)である「神、我らと共に」をもたらすことはできないのです。クリスマスは、このヨセフの正しさを越えて、否、ヨセフのこの正しい決心がもう一度覆されることによって、やって来たというのです。ヨセフはここで、自分の、人間としては一応もっともな決心をなお変更して、神の御旨に従いました。パウロが言うように、人間の正しさをいくら積み重ねてみても、それで救いに到達することはできないのです。むしろ、自分の信じてきた正しさが覆され、塵あくたと見なされるほどに、救いということは、私たちの手には負えないもの、私たちの考えているものよりもはるかに偉大で、厳粛なものなのです。人間は、この救いを、神の助けから謙虚にへりくだって受け容れるほかはありません。ですから、待降節の人間は、自分のそれなりの正しい決心さえも越えて、神に動かされる用意をする必要があります。あのマリアのように、またここでのヨセフのように、自分の思いを越えて神の御旨に従う用意をするのです。

もちろん、私たちには、自分なりの気持ちがあります。自分の決心があり、予定があります。ヨセフのことを考えてみれば、彼はこのときマリアと婚約していました。ごく普通の結婚をし、ごく普通の家庭を築き、人並みの生活をしていく、平凡な日々を送ろうと考えていたのではなかったでしょうか。平凡であることが何よりも幸せなことだと言われたりします。しかし、そんなヨセフの思いとは裏腹なことが起こり出すのです。身ごもったマリアを見て、ヨセフは困惑したことでしょう。思い悩んで眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。20節に「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とあります。「恐れず」と言われていることは、ヨセフが、悩み、自尊心を傷つけられ、あるいは不信と疑惑で苦しむ日々を送ったことをうかがわせます。人間は、いろいろなことで思いめぐらさざるをえなくなる存在です。その中で決意し、しかしなお悩みと混乱の中にあり続けるのが人間です。しかし、待降節の人間は、そうした人生の悩みや混乱の中で、究極的に何に動かされる人間なのか、です。そこでなお神に動かされる用意がある。それがヨセフの姿であり、待降節の人間です。「主は聖霊によって宿り」ということは、私たち自身の決心や予定にもかかわらず、聖霊・神の力によってその判断や決心を変えられて、神に動かされる人間がそこにいるということでもあります。私たちは、何ものにも動かされない「不動の境地」を求めているのではありません。そうではなく、神に深く動かされることです。だからこそそれ以外の何ものにも動かされないことです。自分の欲望にも、また自分の不安や恐怖にも動かされず、自分の考える正しさにでもなく、それ以上のただ神にのみ、神の霊にのみ動かされるのです。それがヨセフの姿であり、待降節の中にある人間なのです。

ですから私たちは今、そのような一人の人間として、ただ神にのみ、神の霊にのみ動かされる者として立たされることを主に願い、主の大いなる御力により頼んで生きていく者でありましょう。これこそが、今日この日曜日に示されている主題、「ガウデーテ」、「喜びなさい」と言われるときの私たちの「喜び」であるのです。

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように(ローマ15:13)。

2010年12月5日 待降節第2主日 「希望の時」

マタイによる福音書3章1〜12節
説教:安藤 政泰 牧師

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

マタイによる福音書3章1〜12節


本日の日課であるマタイによる福音書3章にはバプテスマのヨハネの記事です。

洗礼を考えるときにはいつでも、このバプテスマのヨハネの話が思い起こされます。

イエスの洗礼とバプテスマのヨハネの洗礼との大きな違いは何でしたでしょうか。

それは、水による洗礼と聖霊による洗礼の違いです。バプテスマのヨハネの水による洗礼は悔い改めの洗礼です。今までの罪を悔い改め。水に洗い流し新しい決心と決意をもって生きると言うことです。

イエス・キリストによる水と聖霊による洗礼は、悔い改めを要求いたしますが、その事に加えて、罪の許しが与えられます。

この罪の許しは、洗礼の時に与えられるのでしょうか。

それが、自分のものになる、と言う意味ではたしかにそうです。しかし、キリストは既に、罪の許しを私達に与えておられます。その許しを、この私にも働いている、この私も救われると確信し信じる信仰が受洗となるのです。

自分自身を嫌いな人はいません。同時に、自分自身の何かを嫌って居ない人もめづらしいです。自分の汚い面を自分が一番良く知っています。自分の罪についても多分自分が一番よく感じているはずです。その、拙い自分に神から与えられる希望がキリストの誕生です。

聖書は単に神とイスラエルの人々の過去の歴史を語るものではなく、今日も生きている私達の指針となります。聖書が記す、神と人々の関係の歴史は、今の私達に忍耐と慰め、希望を与え続けてくれます。この事は今もこの私に生ける神の働きがある事を確信させてくれます。

私達は最後のところで、どこに拠り所を求めれば良いかを知っています。

恵みは既に与えられています。この事が私達の信仰の拠り所です。

キリストが誕生し救い主としてこの私のために世に来られたという恵みです。

この神を「望の神」と言います。

アドヴェント、降臨節の色は紫です。しかし、私達に取ってキリストの誕生は「希望」です。希望を表現する色として、近世になりブルーを使っても良い、と考えるようになりました。人はそれぞれに、無いように見えてもあるのが苦しみ、悩みです。自分の事、家族の事、仕事の事など色々の場面で人は苦しみ悩みます。しかし

キリストの誕生は私たちに、希望の光を見せてくれます。

神に希望をおく者になり、謙虚な思いと、期待を持ってクリスマスを迎えましょう。

2010年11月28日 待降節第1主日 「ろばに乗る・・主イエス・・・」

マタイによる福音書 21章1-11節

説教:五十嵐 誠牧師

◆エルサレムに迎えられる

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

ご承知と思いますが、今日から教会の暦が新しくなります。教会はイエスの生涯を巡って生活をしていますから、クリスマス、復活祭・イースター、聖霊降臨祭を中心に暦が作製されています。クリスマスを迎える準備が始まりです。クリスマスの四週間前が新らしい暦になります。

クリスマスはイエスの来臨を・・この地上への降臨・・来ることを三重の意味で考えます。過去、現在、未来の来臨です。Jesus came。 Jesus come。

Jesus shall come。クリスマスにイエスは来られた。イエスは来ている。イエスは来るだろう。この三つです。これは大切な事です。余り気が付かないのですが。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵と平安なあるように  アーメン

教会の暦はクリスマスを迎える準備をする季節に入りました。町中クリスマス的な雰囲気があります。教会のお株を奪ったようです。伝統的な習慣を守るところでは、準備をします。クリスマス‐ツリーをかざります。多くは樅もみの木です。クリスマス‐リース(リースは花輪の意) 蔓などを輪形に編み、ひいらぎの葉や松ぼっくりなどをつけたクリスマスの飾り。ドアや壁などに掛ける家があります。クリスマスクランツは花輪の周りに四本のローソクを立てて、毎週一本ずつ点灯して行きます。四本点灯の後の主日がクリスマスになります。

現在はクリスマスが盛んですが、最初はキリストの十字架と復活が重んじられました。それは教会の暦の最初から覚えられ、祝われて来ました。それに対してクリスマスは、教会はこれを覚えて礼拝をする、教会の暦の中で特別にこれを重んじることはありませんでした。クリスマスが祝われたのは四世紀からです。だから、クリスマスは四世紀にはじめて出来たと言うことではありません。というのは、マタイの福音書、ルカの福音書などは、明らかに紀元一世紀、70年代、80年代には成立していますが、そこにはイエスの誕生にまつわる様々なことがら、東方から来た博士、マリヤへの受胎告知などがあります。それらが福音書に書かれたのが、イエスの死後30年か40年後ですから、いえすの誕生にまつわる言い伝えは、ごく古い教会のから、口から口へと伝えられていたものが、マタイとルカによって書かれたと言えます。

従って、イエスの誕生は教会の歴史の中で、後になって、非常に重んじられ、祝われるようになりましたが、イエスの誕生の意味は、最初の時代においては、余りにも強烈な十字架と復活の光りに覆われていた、それが時代を経るにしたがって、正当な重みを評価されるようになったと言えます。で、クリスマスが盛大になったと言えます。

イエスの誕生の様々な言い伝えを見ると、二つの特徴があるようです。一つはイエスがかってのイスラエルにおいてもっとも偉大であったダビデ王の子孫であると言うことです。イスラエルの歴史においては、ダビデの王国は非常に大きな意味を持っていましたから、ダビデの王国が再び実現することがるとするならば、それはダビデの再来のような王よってであるという期待が強くありました。イエスがダビデの血統・血筋から生まれた方

であると言うことが強調されています。

二つ目の強調点はイエスは父ヨセフ、母マリアから生まれたが、イエスの誕生の背後に決定的に働いているのは、神の意志、配慮、計画、神の力であるという事です。聖書は

「聖霊」によってと言いますが、「聖霊」とは「神の力」です。神の力、非常に不思議な人間を超えた力によって、このイエスという方が誕生せしめられたのだ、それは人間の意志や、人間の可能性、人間の力の限界を超えたものだということです。それをイエスの誕生にまつわる言い伝えは強調していると言えます。

マリアや婚約者ヨセフがイエスの誕生で悩んでいますが、それは彼らのような人間・罪深く、醜い人間を通して・神の力が働くと言うことを受け入れ難かったからです。それを彼らの言葉、祈りが示しているのです。でも、彼らは惑い、恐れ、疑いながらも、最後には神の意志に従っていく、そして神の御心、計画を受け入れていくのです。それを見ることが、クリスマスのポイントでもあります。

今朝は、今述べた二つの特色のはじめの、第一の意味を伝えています。イエスのエルサレム入城です。「入場」(単に会場・式場・競技場などにはいること)ではなく、「入城」(王として、征服者として城に入ること)です。イエスのエルサレム入城として知られているところです。このところは教会暦ではイエスの最後の週の「受難週」のはじめの日曜日に読まれます。やはりイエスがエルサレムに入る場面です。本来はこれが正しいのですが、それが「降臨節第一主日」に読まれるのは、クリスマスに生まれたイエスは王であり、その王を迎える意味で読まれます。それは旧約聖書の預言書ゼカリヤ書に見られます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(9:9)。*「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。

あなたの王がくる・・・それがクリスマスの意味です。喜んで迎えよう!です。ちなみにクリスマスは三重のイエスの意味を考えると言います。1は王としてのイエス。2は預言者としてのイエス。3は祭司としてのイエスです。イエスは洗礼を受けたとき、この三重の務めに任命されたと理解されています。旧約の預言者は神の言葉を語りました。同じく、預言者としてイエスはかみの言葉を語りました。旧約時代の祭司は「生け贄」を備えて、民のために仲介をしましたが、祭司としてのイエスは牡牛や羊ではなく、ご自身を神に対する「生け贄」として捧げられました。1の王としての今日の所です。

当時の民衆は誤てるメシア待望がありました。イエスは神の国を述べ伝えました。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。「その評判が周りの地方一帯に広まった、イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。イエスの神の国運動は民衆に強烈な衝撃と喜びをあたえました。特にそれが眼に見える形で・・癒しの奇跡という活動によって、また権威ある新しい教え(マルコ1:27平行)という言葉によって媒介されたために、イエスが伝えようとした神の国の到来とは異なった意味で理解されました。民衆の素朴な、しかし根強い神の国待望・メシア待望に結びつけられて行くという結果になりました。マルコの福音書の同じにゅうじょうで民衆は「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」(ホサナとは今救い給えですが、万歳!です)(11:10)とありますのは、やはり人々が地上王国を期待していた事を表しています。(ヨハネは書いています。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。イエスが「山に退かれた」とは地上の王としての考えを否定した事です。

イエスが意味した神の国とは何でしょうか。イエスの奇跡や癒しは神の赦し、神のに愛のしるし、神の支配実現の目に見えるしるし似すぎなかったのです。民衆は目に見えるも

のとしてとられ、目に見えるものに重きを置くという人間のから、イエスを奇跡を行う人して、天使の大群を天から率いてきて、ローマ帝国を滅ぼしてくれるのではないか、宗教的な人物が軍事的・政治的のも指導性を発揮して、かってのダビデ王国のような栄華をもたらしてくれるのではないか、そう言う意味でのメシア期待をイエスに当てはめて、押しつけようとしたのです。ですから、その期待が無く、失望した民衆は。また、一旦イエスを受け入れた人たちも、イエスを離れていったし、最後にはイエスを死に追いやったのです。ではイエスのいう「時は充ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とは何か。それは「一方的な罪の赦しの宣言・招きを喜んで受け入れなさい」という事なのです。その招待状を受け入れる人には神の国は開かれており、受け入れない人には閉ざされたままで残るのです。

イエスのエルサレム入城をよく見ると、イエスは民衆が期待した王でないことが分かるのです。預言者ゼカリヤはイスラエルの救いを予言します。エルサレムに神に従う「王が来る」と言うのですが、この王の特徴を「ロバに乗ってくる」と言いました。当時は王は馬に乗って来るのが普通でした。王がロバに乗って来るということでゼカリヤは特別な性格を示しています。「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」です。「柔和な方」と言います。ヘブル語の「高ぶる」をギリシャ語は「柔和」と訳しまし

た。(ヘブル語ynI[‘ ・アニ)、ギリシャ語ではprau?”(プラユス)。意味は「柔和」から受ける感じと違って、本来は腰をかがめた姿勢を表しました。押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、また、進んで自分を低くする(へりくだる)という意味になります。

馬に乗るのが、富や権威の象徴であれば、ロバに乗るのは貧しさとへりくだりの象徴です。

私たちはイエスを「素朴で、柔和で人」という感じを持ちますが、「柔和」は重荷を負って背中が曲がる様子を示すとすると、そこに見えるのは「苦しんでいる人々の苦難のすべてをその背に担え耐える姿、そしてそれによって、すべての人を解放する力を発揮するメシアとしてのイエスの姿なのです。今の私たちは理解できます。そう理解したら、歓呼の声を上げて、イエスを歓迎できるでしょう。その日が今日でもあるのです。

また、ロバは平和のシンボルでした。軍馬と戦車は戦争の乗り物ですが、ロバは平和の乗り物です。

クリスマスになると私はパウロの言葉を思います。それはコリントⅡ・8:9節です。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。クリスマスは正にこのことが起きた日です。

イエスは私たちを豊かにするために貧しくなられたと言います。少し分かりにくいので、同じ事を言っているパウロの言葉を見ます。フィリピ2:6以下です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

キリストは豊かで有るのに・・神の身分であり、等しい者であるのに、貧しく・・人間の姿をとり、宿屋ではなく、馬小屋で生まれ、苦難の生涯をおくり、十字架上で死ぬほどに低くなりました。しかし、それは私たちがを豊かにするためだというのです。豊かとは素晴らしい恵みを受けると言うこと、受けたと言うことです。考えてみましょう。私たちは貧しい者でした。私たちは神の前では罪深く、汚れに充ちた者でした。今、私たちは救われて、神の子として愛を受けています。そして、新しい命、永遠の命と復活の約束を頂いています。それは何ものにもまして、素晴らしい事です。ヤコブは書いています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。

ですから、パウロはクリスマスを「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と言っているのです。(テトス2:11)。

イエスは王ですが、それは人々を支配し、専制的に振るまい、戦争で勝利を得る王ではなく、貧しく、へりくだり、人々に仕え、人々に平和をもたらす王なのです。また、罪と死と悪魔の力から、私たちを解放した王なのです。

この王の元で生きたいと思います。                     アーメン

2010年8月22日 聖霊降臨後13日 「救いの責任・・・神か人か」

説教:五十嵐 誠牧師

ルカ13:22ー52   マタイ7:7:21-23

◆狭い戸口

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同

に言われた。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

我が国のキリスト教信者の数は、カトリックとプロテスタントを加えても100万ちょっと位ですが、聖書の言葉は結構浸透しています。日常見たり聞いたりします。「福音」「目から鱗が落ちる」「目には目を」「右の頬を打たれたら左をだせ」とかです。また今日の「狭い戸口からはいるように」は「狭い門から入れ」と同じように使われます。受験期には見かけます。先日会議がありました。面白い話が出ました。私たちの教団は二つの学校を持っています。埼玉県の飯能に「聖望学園」・最近は高校野球で甲子園に行きました。浦和のは小中高の「浦和ルーテル学院」です。結構人気があります。で、浦和で「狭い門から入れ」(マタイ7:13)という標語がだされました。ミッションスクールですから、さすが宗教教育が盛んだと思いましたら、それは大学受験生のための言葉だったそうで、ビックリしたというのです。クリスチャンにはそう映ります。

何故かと言えば、そこの先生のほとんどはクリスチャンでないのです。ですから、これはいい励ましの言葉だと思ってしたようです。目くじら立てることもないかなと思いましたが、キリスト教の言葉がそれだけ日本の社会に入ってきたのかとも感じました。ですから、ある牧師は日本のキリスト教にも未来があると言いました。どうでしょうか。

さて、今日の福音書の所で、イエスに付いてきた人が、こう質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。これは現代も質問です。日本にキリスト教がきてから、カトリックでは500年、新教・プロテスタントでは150年です。それで100ちょっと位ですから、だれでも「何故、キリスト教はすくないのか」と聞かれます。私もよく分かりません。と言ったら怒られそうですが。いろんな理由が挙げられます。先だって、ICUの先生が「何故日本にキリスト教は広まらないのか」と言う本を出しました。後で触れます。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。と同じ言葉があります。マタイの福音書の山上の垂訓・説教の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。(7:13-14)。です。少し違った観点から、マタイとルカは書いています。笑い話ですが、会うところで、講演会がありました。一方は「天国への道」。も一つは「天国についての講演」でした。多くの人が後者に「天国について」の講演会に入ったそうです。私たちはどうでしょうか。

この出来事は、ガリラヤの伝道の最中、エルサレムに向かっての途上の出来事でした。伝道したが、受け入れられなかったようです。何で救われる者が、少ないのかが関心でした。今の日本の状況と似ています。イエスはある時、「種蒔きの譬え」で、必ず、収穫はあるといいましたが、目の前は希望がなかったのです。(マタイ13:1-9)。イエスは答えは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」でした。その後、神の国の宴会に入る者は少ないと言いました。入る資格があると思って戸口に来たが、締め出しを受けるのです。ただ、一寸解りにくいが、マタイ福音書の方の言葉を見ると理解で来ます。(マタイ7:13以下)。

「狭い門」はルカでは天国の宴会ですが、マタイは「命に通じる門」です。共に神が与える「救い」を意味します。戸口に来て入れない人とはどんな人かですが、ルカは「一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。平行箇所のマタイの福音書では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。(7:21)になっています。ですから、両方から見ると、単にイエスと食事をしたとか、教えを受けたとかで天国の門をはいれないこと、単なるつき合いではだめです。また、単に口先で「主よ、主よ」と言う者です。結局、神の国の門は狭いが、滅びへの道は広いと言うことです。だから、口先だけの信仰ではなく、神の御心をしっかりと行うことで、狭い門を入るようにせよということです。

イエスの時代も付和雷同・一定の主義・主張がなく、他人の意見や行動にすぐ同調する人が多かったようです。大勢イエスの話をききました。5、000人もありました。しかし。ある者は「話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(ヨハネ6:60)と言って去っていきました。

日本では信仰とか宗教は余り生活に関係ないと言えます。外国で入国で書類を書きますが。「しゅうきょう宗教欄は大抵「なし」と書きます。宗教や信仰のことは個人に任されています。自由です。これを政教分離と言います。しかし、国によっては政教一致:神政国家があります。イスラエルやアラブ諸国に多い。彼らにとって宗教とは生活の基盤です。私たちには宗教とか信仰は感覚的なものですが、ユダヤ人にとっては身にしみているのです。全存在に関わるものでした。イスラエルという国ではユダヤ教が国の、民族の宗教ですから、個人の宗教・信仰です。旧約聖書を読むと、ユダヤ人は神に選ばれた民・民族であり、神が共にいつも歩き、守られたという先祖以来の信仰を持っているのです。

そういう観点から、狭い門の言葉を見ると、ユダヤ人がイエスの言葉を聞いて、狭い門を入らないことやイエス・キリストを救い主と信じて狭い戸口からは入り、神の国の宴席に参加しようとしないのがわかります。イエスの招きは持っているものを捨てて、狭い入り口から入りなさいと言う勧めです。私たちも持っているものを壊しても、捨てても、キリストを受け入れることで、私たちは神の救いの上に、より優るものを持つことが出来るのです。本当に私たちを生かしてくれるのは神・イエス・キリストなのです。

キリストの福音・・十字架にかかり、復活したイエスを述べ伝えていますが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問は、今もあります。教会が悪いのか、信じない人が悪いのかと・・。冒頭に触れた本ですが、ICUの古屋安雄先生の「何故日本にキリスト教は広まらないのか」は、原因をあげていました。大きな理由は、教会の社会の状況の変化への対応の遅さでした。この先生は、人は20年くらいの周期で心理的変化をするから、時代の風潮に一喜一憂する必要はないと言いました。面白い意見です。20年くらいで、いい時と悪いときが繰り返すと言います。一理ありました。そんな悠長な事はいっておれませんから、先生いくつかの点を上げていました。

1,青年・学生の出席が少ないが、教会が学生の変化を理解していない。エリート大学か  らマス大学の変化です。青年活動の活性化に気づかない。知識から働きへである。

2,牧師中心と信徒の冷凍化。非民主主義的教会。

3,社会的な問題にコミットしない。キリスト教とナショナリズムを結びつける事。

4,教会の神学的な論争と分裂。日本キリスト教団の激しい論争があります。

5,新しい伝道方向のなさ・大衆化を考慮すること。

他に細かいことが多くありますが、牧師として強く反省をさせられました。

私はもう一つ考えています。それは日本化です。日本は外来宗教を日本的に変えると言います。日本的なものになったとき、その信仰は受け入れられるているというのです。そういえば、仏教はその例です。日本の仏教は、また、神道も本来とは違って、御利益信仰・宗教になっています。新年の初詣を見れば解ります。「家内安全」、「商売繁盛」、「病気平癒」、「満願成就」、「合格祈願」とか一杯です。そして、人々が押しかけます。お祈りする人達もそんなに固く信じている訳ではないと言えます。気安い、気軽な信仰心ともいえますが。変身させるのが、日本の特色です。

キリスト教は変身しなかったと思います。中には変身したキリスト教があります。日本の伝統的思想・考え方を取り入れたものです。キリスト教は変身しなかったのは何故かです。御利益宗教・信仰に変身しないキリスト教が正しいのか、それが伝道の妨げなのか、難しいことです。皆さんはどうでしょうか。意見を聞きたいと思います。

今は座して論議している時間かという意見がありますが、しかしながら、教会は福音を述べ伝えて行くのですが、人々が、ユダヤ人のように先祖伝来の信仰に固着していくならば、それは神にとって残念なことです。信仰なんて考えたことがないと人もいると思います。それならば、その人はイエスの所に来るチャンスです。イエスの所にきて、イエスの声を聞き、イエスと共に歩く喜び、安心を、生活の基盤にしてほしいと思います。イエスと共に歩く道は「冒険の旅」です。わくわくした道です。みんなと共に冒険の旅をして欲しい。

イエス・キリストは救い主であるということは、揺るがない事実であり、このイエスを避けては救いはないのです。聖書はいいます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス)のほか、人間には与えられていないのです」。(使徒4:12)。イエスも言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。(ヨハネ14:6)。

私たちは現在、信仰や宗教が、信じるか、信じないかで、生死を分けることのない世界に住んでいますから、昔のユダヤ人のように「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュヤ24:15)とは迫られませんが、選ぶことは強制されませんが、選ぶ必要ないこととして、拒否してしまうな事にならないようにと、神は望んでいるのです。それを覚えて下さい。

イエス・キリストを信じて、揺るがない神の救いを土台としてもたれるように祈ります。 アーメン