2010年8月22日 聖霊降臨後13日 「救いの責任・・・神か人か」

説教:五十嵐 誠牧師

ルカ13:22ー52   マタイ7:7:21-23

◆狭い戸口

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同

に言われた。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

我が国のキリスト教信者の数は、カトリックとプロテスタントを加えても100万ちょっと位ですが、聖書の言葉は結構浸透しています。日常見たり聞いたりします。「福音」「目から鱗が落ちる」「目には目を」「右の頬を打たれたら左をだせ」とかです。また今日の「狭い戸口からはいるように」は「狭い門から入れ」と同じように使われます。受験期には見かけます。先日会議がありました。面白い話が出ました。私たちの教団は二つの学校を持っています。埼玉県の飯能に「聖望学園」・最近は高校野球で甲子園に行きました。浦和のは小中高の「浦和ルーテル学院」です。結構人気があります。で、浦和で「狭い門から入れ」(マタイ7:13)という標語がだされました。ミッションスクールですから、さすが宗教教育が盛んだと思いましたら、それは大学受験生のための言葉だったそうで、ビックリしたというのです。クリスチャンにはそう映ります。

何故かと言えば、そこの先生のほとんどはクリスチャンでないのです。ですから、これはいい励ましの言葉だと思ってしたようです。目くじら立てることもないかなと思いましたが、キリスト教の言葉がそれだけ日本の社会に入ってきたのかとも感じました。ですから、ある牧師は日本のキリスト教にも未来があると言いました。どうでしょうか。

さて、今日の福音書の所で、イエスに付いてきた人が、こう質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。これは現代も質問です。日本にキリスト教がきてから、カトリックでは500年、新教・プロテスタントでは150年です。それで100ちょっと位ですから、だれでも「何故、キリスト教はすくないのか」と聞かれます。私もよく分かりません。と言ったら怒られそうですが。いろんな理由が挙げられます。先だって、ICUの先生が「何故日本にキリスト教は広まらないのか」と言う本を出しました。後で触れます。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。と同じ言葉があります。マタイの福音書の山上の垂訓・説教の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。(7:13-14)。です。少し違った観点から、マタイとルカは書いています。笑い話ですが、会うところで、講演会がありました。一方は「天国への道」。も一つは「天国についての講演」でした。多くの人が後者に「天国について」の講演会に入ったそうです。私たちはどうでしょうか。

この出来事は、ガリラヤの伝道の最中、エルサレムに向かっての途上の出来事でした。伝道したが、受け入れられなかったようです。何で救われる者が、少ないのかが関心でした。今の日本の状況と似ています。イエスはある時、「種蒔きの譬え」で、必ず、収穫はあるといいましたが、目の前は希望がなかったのです。(マタイ13:1-9)。イエスは答えは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」でした。その後、神の国の宴会に入る者は少ないと言いました。入る資格があると思って戸口に来たが、締め出しを受けるのです。ただ、一寸解りにくいが、マタイ福音書の方の言葉を見ると理解で来ます。(マタイ7:13以下)。

「狭い門」はルカでは天国の宴会ですが、マタイは「命に通じる門」です。共に神が与える「救い」を意味します。戸口に来て入れない人とはどんな人かですが、ルカは「一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。平行箇所のマタイの福音書では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。(7:21)になっています。ですから、両方から見ると、単にイエスと食事をしたとか、教えを受けたとかで天国の門をはいれないこと、単なるつき合いではだめです。また、単に口先で「主よ、主よ」と言う者です。結局、神の国の門は狭いが、滅びへの道は広いと言うことです。だから、口先だけの信仰ではなく、神の御心をしっかりと行うことで、狭い門を入るようにせよということです。

イエスの時代も付和雷同・一定の主義・主張がなく、他人の意見や行動にすぐ同調する人が多かったようです。大勢イエスの話をききました。5、000人もありました。しかし。ある者は「話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(ヨハネ6:60)と言って去っていきました。

日本では信仰とか宗教は余り生活に関係ないと言えます。外国で入国で書類を書きますが。「しゅうきょう宗教欄は大抵「なし」と書きます。宗教や信仰のことは個人に任されています。自由です。これを政教分離と言います。しかし、国によっては政教一致:神政国家があります。イスラエルやアラブ諸国に多い。彼らにとって宗教とは生活の基盤です。私たちには宗教とか信仰は感覚的なものですが、ユダヤ人にとっては身にしみているのです。全存在に関わるものでした。イスラエルという国ではユダヤ教が国の、民族の宗教ですから、個人の宗教・信仰です。旧約聖書を読むと、ユダヤ人は神に選ばれた民・民族であり、神が共にいつも歩き、守られたという先祖以来の信仰を持っているのです。

そういう観点から、狭い門の言葉を見ると、ユダヤ人がイエスの言葉を聞いて、狭い門を入らないことやイエス・キリストを救い主と信じて狭い戸口からは入り、神の国の宴席に参加しようとしないのがわかります。イエスの招きは持っているものを捨てて、狭い入り口から入りなさいと言う勧めです。私たちも持っているものを壊しても、捨てても、キリストを受け入れることで、私たちは神の救いの上に、より優るものを持つことが出来るのです。本当に私たちを生かしてくれるのは神・イエス・キリストなのです。

キリストの福音・・十字架にかかり、復活したイエスを述べ伝えていますが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問は、今もあります。教会が悪いのか、信じない人が悪いのかと・・。冒頭に触れた本ですが、ICUの古屋安雄先生の「何故日本にキリスト教は広まらないのか」は、原因をあげていました。大きな理由は、教会の社会の状況の変化への対応の遅さでした。この先生は、人は20年くらいの周期で心理的変化をするから、時代の風潮に一喜一憂する必要はないと言いました。面白い意見です。20年くらいで、いい時と悪いときが繰り返すと言います。一理ありました。そんな悠長な事はいっておれませんから、先生いくつかの点を上げていました。

1,青年・学生の出席が少ないが、教会が学生の変化を理解していない。エリート大学か  らマス大学の変化です。青年活動の活性化に気づかない。知識から働きへである。

2,牧師中心と信徒の冷凍化。非民主主義的教会。

3,社会的な問題にコミットしない。キリスト教とナショナリズムを結びつける事。

4,教会の神学的な論争と分裂。日本キリスト教団の激しい論争があります。

5,新しい伝道方向のなさ・大衆化を考慮すること。

他に細かいことが多くありますが、牧師として強く反省をさせられました。

私はもう一つ考えています。それは日本化です。日本は外来宗教を日本的に変えると言います。日本的なものになったとき、その信仰は受け入れられるているというのです。そういえば、仏教はその例です。日本の仏教は、また、神道も本来とは違って、御利益信仰・宗教になっています。新年の初詣を見れば解ります。「家内安全」、「商売繁盛」、「病気平癒」、「満願成就」、「合格祈願」とか一杯です。そして、人々が押しかけます。お祈りする人達もそんなに固く信じている訳ではないと言えます。気安い、気軽な信仰心ともいえますが。変身させるのが、日本の特色です。

キリスト教は変身しなかったと思います。中には変身したキリスト教があります。日本の伝統的思想・考え方を取り入れたものです。キリスト教は変身しなかったのは何故かです。御利益宗教・信仰に変身しないキリスト教が正しいのか、それが伝道の妨げなのか、難しいことです。皆さんはどうでしょうか。意見を聞きたいと思います。

今は座して論議している時間かという意見がありますが、しかしながら、教会は福音を述べ伝えて行くのですが、人々が、ユダヤ人のように先祖伝来の信仰に固着していくならば、それは神にとって残念なことです。信仰なんて考えたことがないと人もいると思います。それならば、その人はイエスの所に来るチャンスです。イエスの所にきて、イエスの声を聞き、イエスと共に歩く喜び、安心を、生活の基盤にしてほしいと思います。イエスと共に歩く道は「冒険の旅」です。わくわくした道です。みんなと共に冒険の旅をして欲しい。

イエス・キリストは救い主であるということは、揺るがない事実であり、このイエスを避けては救いはないのです。聖書はいいます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス)のほか、人間には与えられていないのです」。(使徒4:12)。イエスも言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。(ヨハネ14:6)。

私たちは現在、信仰や宗教が、信じるか、信じないかで、生死を分けることのない世界に住んでいますから、昔のユダヤ人のように「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュヤ24:15)とは迫られませんが、選ぶことは強制されませんが、選ぶ必要ないこととして、拒否してしまうな事にならないようにと、神は望んでいるのです。それを覚えて下さい。

イエス・キリストを信じて、揺るがない神の救いを土台としてもたれるように祈ります。 アーメン