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枝の主日

 レントの最後の一週間を受難週、または聖週間と言います。イエスキリストの生涯における最後の一週間について、エルサレム入場、最後の晩餐、十字架上の死、復活の出来事を4つの福音書が克明に記録している厳粛な期間であります。
 イエスはロバに跨って、おごそかにエルサレムに入場しました。(マタイ21:1~11、マルコ11:1~11、ルカ19:28~38、ヨハネ12:12~19)その姿は旧約の預言者ゼカリヤによって預言された、来るべき救いをもたらす正義と平和の王にイエスを重ねたものでした。けれど、それは権威と力を重ね備えた力強き王の姿ではなく、それらの力を破棄した柔和な王の姿でした。人々はこのイエスを歓呼の声をもってして迎え入れ、歓迎し、その際に自分たちの衣服を道に敷き、また木の枝を切って道に敷いた人もいました。ヨハネによる福音書の記事では(ヨハネ12:13)、なつめやしの木の枝を振って迎えに出たと記されています。このなつめやしの葉が棕櫚の葉ではないかと言われています。
 この聖書の出来事から、受難週を迎える最初の日曜日は「棕櫚の主日(日曜日)」または枝の主日(Palmarum,Palm Sunday)と呼ばれるようになりました。その起源は7世紀のスペイン、ガリア地域に遡ると言われています。この日曜日の礼拝の中で、イエスのエルサレム入場を独自に祝う棕櫚の行進行列を伴う祝祭が行われるようになっていき、棕櫚の枝がない地域では、代わりに常緑樹の枝や花をつけた枝を用いて行われていました。
 棕櫚の葉は、花言葉で「勝利、成功」という意味があり、月桂樹などと共に、勝利のしるしとされています。イエスを迎えた人々は、「ホサナ(ヘブライ語で「今救い給え」という意味)」と叫んで、自分たちを救ってくれる力強い救い主(メシア)としての期待を抱きました。しかし、このホサナの大合唱は、数日後には「十字架につけろ」という大合唱に変わるのです。棕櫚の葉が示す勝利のしるしは、武力において、人々が求めていた苦しみからの解放(当時イスラエルはローマ帝国に支配されており、その圧政からの解放を人々は願っていました。)をもたらす救い主の姿においてではなく、柔和な王の姿に示された無力な救い主の姿における十字架上の死、そしてその死の支配を打ち破った復活における罪と死からの勝利を示しているのです。

2014年8月24日 聖霊降臨後第11主日 「主の豊かな恵み」

マタイによる福音書14章13〜21節
安藤 政泰 牧師

※説教概要です。

有名な五千人への給食の話です
聖書を読むときに、前後の関係を良く考えないで、特にたとえば話を単独に読むとトンチンカンな疑問をもつことになります。

聖書のこの記事の背景にはあの 有名なサロメとヨハネの話があります
洗礼者ヨハネが殺害された。
それは イエスご自身にとっても ショッキング事件だったことは 間違いありません。
そこで イエスは 人里離れたところに一人で行き、父なる神との対話を
試みようとしたのではと、思われます。
しかし 群集はそれを見て イエスの後を追うことになります。

そこで この5,000人への食事提供の話が起こるのです
ここでは イエスと弟子との距離があります
よく読むと イエスは弟子たちを突き放しているようにも思えます

5千人への給食の記事はどの福音書にも見られます。
しかも、ルカをのぞいては「湖の上を歩くイエス」の記事が続いています。

マルコによる福音書では、パンの出来事と結び付けいます。8:14
マタイによる福音書では、ペテロの信仰告白と結び付けています。16:13
ルカによる福音書では  5千人の給食の後に信仰告白が来ています。9:13
ヨハネによる福音書では この記事の少し後に
信仰告白が記されています。 6:9
聖書はこの5000人への食事提供の生地の後に信仰告白が結びついています。
ここで イエスはなぜ この時に弟子たちとの距離を取っているのでしょうか。
それは、イエスは弟子達を意図的突き放しているように感じます。
そこには 目的があり、現代流に言えば「体験学習」をさせているように理解できます。
14章全体を弟子達への教育的な配慮、体験学習と見ると、そのイエスの意図はどこにあるのかと思います

この出来事の前に起こった、洗礼者ヨハネの殺害はイエスに取っては死を予感する出来事であったに違いありません。
いつかは、弟子達を残して去っていくことになる。そのとき、自分が、いつも弟子達と共にいて、弟子達に命の糧を与えるという事を悟らせなければならない。その事のしらすための いわば体験学習であったのではと思わせられます。

さて
私たちの主日礼拝とはどのような順序な内容によって形づけられているのでしょうか。それは 礼拝全体が主の福音を証し、それを体験するように考えられています。「悔い改めで福音を信ずる」という事からはじまります。
そして、説教を聞き、その後で信仰告白をします。そして自分を神に捧げる、奉献、聖餐と続きます。この聖餐を受ける前には信仰告白がどうしても必要です。キリストを神の独り子と信じ、その救いの業の恵みを具体的にこの身体に受ける。自分の中に、具体的にキリストが入って下さる。その体験と、その現実が聖餐毎に起こります。教会の歴史的信仰告白である、信仰告白は二ケア信条・使徒信条が使われていますが、根源的には あの、ペテロの信仰告白です。

私たちは信仰告白をし、神の恩寵、神の恵みの救いに入る実感をあの聖餐で受けることができます。
この与えられた恵みに甘んじることなく、謙虚に受け止め、共に主の食卓に連なるものとなりたい。