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使徒フィリポとヤコブの日

フィリポは同じ使徒のペトロとアンデレ兄弟と同じベトサイダの出身で、イエスの召命を受けて12使徒の一人になりました。彼はヨハネによる福音書に多く登場し、ナタナエルをイエスの弟子として導きました(ヨハネ1:43~51)。最後の晩餐では、イエスが父なる神について証しをしていた時、彼がイエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と言うと、イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:8~9)とイエスから諭されますが、彼の質問によって父なる神とイエスがひとつであるということが明らかにされました。使徒言行録に登場する執事のフィリポは別の人物です(使徒6:5)。彼は最後フリギアで宣教して、殉教したと言われています。

ヤコブはアルファイの子ヤコブのことで、漁師でヨハネの兄弟であるヤコブとは別人です。両者を区別するため、また一方が年長者であったため、漁師のヤコブは大ヤコブ、アルファイの子のヤコブは小ヤコブと言われています。またこのヤコブは、後にエルサレム教会のリーダー的存在として、教会を導いたイエスの弟である主の兄弟ヤコブ(マタイ13:55、使徒15:13~21)と同一人物であると言われ、新約聖書ヤコブの手紙の著者はこの主の兄弟ヤコブであると言われていますが、定かではありません。彼と兄弟のヨセの母マリアは、マグダラのマリアとサロメと共に、イエスの十字架の死を遠くから見守っていました(マルコ15:40)。主の兄弟ヤコブと同一人物であれば、彼はエルサレムで62年頃に殉教したと言われています。

二人の記念日は、元は5月1日でしたが、労働者ヨセフの祝日が後から5月1日に定められると、彼らの記念日は5月3日に移されました。

使徒マティアの日

イエスキリストの昇天後、使徒と人々の間で、イエスを裏切り自殺したイスカリオテのユダに代わって、12人目の使徒が選出されました。使徒となる条件は「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、いつも一緒にいた者」(使徒1:21~22)であり、人々はユストともいうヨセフと、マティアの二人を候補者として立てました。選出の方法はくじ引きであり、その結果マティアが12人目の使徒として選出されました(使徒1:23~26)。

くじは、偶然や運などのイメージがありますが、旧約聖書箴言の16章33節によると、「くじは膝の上に投げるがふさわしい定めはすべて主から与えられる」とあるように、神がその結果を導いて、み心を示されるという信念に基づいています。神がもっともふさわしい最善の結果を与えてくれると見なされていたのがくじによる選出方法でした。初代イスラエル王サウルは、くじによって選ばれた王であり(サムエル上10:20)、また、ユダヤ教の礼拝を司る、重要な役職にあった祭司の職分の配置も、このくじによる選出方法によって取り決められたのです。

使徒となったマティアの詳細は不明です。伝承によると、彼はエチオピアで活動し、ローマで殉教したか、またはエルサレムでユダヤ人たちによって石打ちの刑にあい、斧で斬首されたとも言われています。また、彼はひとつの福音書を書きましたが、それは初代教会の時代に失われたとも言われています。

使徒マティアの祝日が定められたのは10世紀以後で、ローマの暦では5月14日です。ドイツの暦に従うルーテル教会では2月24日に定められています。

使徒アンデレの日

シモン・ペトロの兄弟であるアンデレは、ベトサイダの出身で、ペトロと共にゲネサレト湖で漁師として暮らしていました。ペトロと同じように、ゲネサレト湖で漁をしているときに、通りかかったイエスから召しを受けて、ペトロと共に最初のイエスの弟子となりました(マタイ4:18、マルコ1:16)。ヨハネによる福音書では、最初彼は洗礼者ヨハネの弟子でした。ヨハネはイエスのことを「見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1:36)と言い、それを聞いたアンデレはイエスに従い、そして兄弟のペトロをイエスに紹介しました(ヨハネ1:40、44)。

アンデレは地味に気を配り、注意もよく行き届くといった性格の人物だと言われています。ペトロをイエスに紹介し、5千人に食べ物を与える話しの中で、群衆の食事のために配慮し、(ヨハネ6:8)、十字架の前に、ギリシア人の求めに応じて、フィリポと共にイエスにその旨を伝えました(ヨハネ12:22)。

イエスの十字架の後、12使徒の一人として、彼らと行動と共にし、教会を支えました。伝承によれば、彼は黒海の南の地方に行って宣教し、またギリシア本土でも宣教して、パトラスという地でX型の十字架に磔になって、殉教の死を遂げたと言われています。

祝祭日はこの殉教した日である11月30日(60年頃)で、後年彼の遺骨はコンスタンティノポリスに移され、そこに埋葬されました。1204年(または1208年)十字軍によって彼の聖遺物はアマルフィに移されますが、1964年にパトラスの教会に返されました。ローマでは彼のために5世紀頃に教会を献堂したと言います。また彼はコンスタンティノポリスおよびスコットランドの守護聖人に選ばれ、人々から崇敬されています。

使徒シモンとユダの日

 12使徒の一人であるシモンは熱心党のシモンと呼ばれています(マタイ10:4、マルコ3:18、ルカ6:15)。この熱心党はギリシア語を音写して「ゼロテ党」とも呼ばれています。熱心党は紀元6年、ローテ帝国の総督クレニオの住民登録に反逆して暴動を起こしたガリラヤのユダによって創設された国粋的団体です(使徒5:37)。イスラエルを支配する外国の権威を否定排除し、イスラエルの独立を目指して熱心に活動し、その熱心さは暴力行為にさえ訴えることを辞さない過激な集団でした。また、ローマ帝国に癒着していたユダヤ内部の権力者層に対しても、戦い続けた団体でした。この団体はガリラヤを拠点に活動し、イエスと出会う前の弟子のシモンはこの熱心等の党員として活動していました。紀元66年にユダヤがローマに対して反乱を起こし、70年に鎮圧されたのと同時に、この熱心党も消滅したと言われています。シモンは聖書の中に名前のみが記されているだけで、具体的な活動は記されていません。伝承では、ユダ(タダイ)と共に、エジプトとペルシアで宣教し、ペルシアで殉教したと言われています。殉教の際に、彼は十字架につけられて死んだという説と、のこぎで体を真っ二つにされて死んだという説があります。そのため、彼の標章にはのこぎりが描かれています。

 同じく12使徒の一人であるユダはマタイとマルコによる福音書ではタダイと呼ばれ(マタイ10:3、マルコ3:18)、ヨハネによる福音書ではイスカリオテでない方のユダと呼ばれています(ヨハネ14:22)。また、イエスの兄弟であるユダとも別人であると言われています。ユダもシモンと同じく、名前以外のことは詳しく描かれていませんが、シモンと行動を共にし、ペルシアで殉教したと言われています。後代、彼は絶望のうちにある人々のための力強い執り成し手として、人々から守護聖人として崇められたと言われています。

 シモンとユダの祝祭日は10月28日で、わりと後世になってから、崇敬されたと言われています。また二人は同地で同じ日に殉教したと言われています。