「憐れみを忘れぬ為に」 ルカによる福音書6章27~36節 藤木智広牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音書の中で、主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と言われます。それを35節でも繰り返して言われます。敵を愛しなさいと。これは非常にむずかしい主イエスの教えであると受け止めるかと思います。キリスト者であっても、主イエスのこの教えを理解しているようで、しかし、心の奥底から敵を赦し、敵を愛しているのか、そのように自分自身に問いかけると、自信がなくなるのではないでしょうか。先週の説教の中でお話ししましたが、亡くなられたシスターの渡辺和子さんの父親は二・二六事件で殺された当時の教育総監の渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)です。二・二六事件が起こった時、まだ幼い和子さんの目の前で父親は銃殺されました。ある時、渡辺さんは二・二六事件の特集をテレビでやるために、事件の生き証人として出演してほしいと依頼され、その番組に出演されました。その時、出演者の中に自分の父親を殺した犯人がいたそうです。事前に何の断りもなく、その犯人が出演し、自分と同じテーブルに座っていたので、ご本人は相当焦られ、目の前にあったコーヒーを飲もうにも、喉にコーヒーが通らなかったそうです。本当に辛いという気持ちと、「自分は、本当は心から許していないのかもしれない、頭で許しても体がついていかないことがある」ということを味わいましたと語っておられます。そして、せめて、その犯人の今後の人生の幸せを願うことが、私にとっての敵を愛することの精一杯の主イエスの御言葉を守ることだと思いますとも語っておられます。「頭で許しても体がついていかないことがある」。コーヒーが喉を通らないという拒絶反応は正直な自分の気持ちであり、思いであるかと思います。敵を愛しなさい、この主イエスの言葉は私たちに単に拒絶反応を引き起こすことを目的としているのでしょうか。そこまでして敵を愛するということの大切さ、その本質はいったい何なのでしょうか。
「敵を愛する」というまずこの「敵」という言葉ですが、この言葉を辞書で調べてみますと、「あるものにとって,共存しえない存在。滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの」とあります。共存しえない、それは憎しみがあるから、共に生きることができない存在であり、その存在を滅ぼさないと、自分の命が脅かされるということでしょう。
次に愛するという言葉ですが、これは好意を寄せる、好きになるという情愛からくる意味ではありません。この言葉は「アガペー」という言葉で、無条件の愛とか、神の愛という意味の言葉です。ですから、主イエスはここで単純に敵を好きになりなさいと言っているわけではありませんが、敵を憎むのではなく、 敵と共存し、敵を愛するという生き方を私たちに示しておられるのです。しかし、主イエスの言葉も、やはり敵を好きにならない限り不可能ではないかという印象を与えます。悪口を言うものに、祝福を祈れるでしょうか。悪口を言うものには、呪われてほしいと思ってしまいます。侮辱する者のために祈りなさいと言いますが、本当に真心を込めて祈ることができるのでしょうか。それこそ拒絶反応が起こるのではないかと思います。それは相手の悪事をなすがままに全て受け入れ、相手のいいなりになって、何も抵抗してはいけないということを主イエスは言っておられるのでしょうか。そういうことではありません。主イエスは敵を憎むのではなく、愛しなさいと私たちに教えているのです。愛するということをするのです。何もしないわけではないのです。
先ほど、辞書の意味から、敵とは共存しえない存在であると言いました。その敵を愛するということは、敵と共存して共に歩みなさいということになるでしょう。そうなると、共存するということ自体が、もはや敵ではなくなるということかもしれませんが、主イエスは敵を作るな、敵を好きになれと言っているわけでもないのです。現実的に敵がいるからこそ、敵を作ってしまうからこそ、このみ言葉を私たちに言っているのです。共存しえない存在である敵を愛し、共存していく。一見矛盾しているように思えますが、敵と共存していくということは、その敵を憎しみにおいてだけ知るのではなく、憎しみを含めて、全体を見つめ、知っていくということではないでしょうか。または向き合っていくということではないでしょうか。祝福を祈り、また相手に与えるということはそのことを示しているように思えます。具体的には、愛するということは、相手を赦すということです。憎しみをもたらす悪事をなかったことにするのではなく、その悪事がその人のすべてはないということを知り、受け止めることです。憎しみに対して、憎しみに返し、更なる憎しみを生み続けるのではなく、赦すことによって、憎しみに捕らわれ、苦しみ続けている自分が解放され、愛し、赦すことによって、敵の憎しみに本当の意味で勝利するということです。憎しみに対して、愛するということをもってして、制し、敵としての他者から隣人としての他者を受け止めるのです。
隣人というのは、必ずしも味方や善人という意味ではありません。そこには敵も悪人も含まれるのです。先週の木曜日の夕礼拝では、有名な善きサマリア人のたとえ話(ルカ10:25~37)から御言葉を聞きました。このお話の中で主イエスに質問した律法の専門家は、「私の隣人とは誰ですか」と言いました。ユダヤ人における隣人とは、同じユダヤ民族の同胞しか当てはまらなかったのです。それ以外の異邦人と言われる人々は、罪人であり、敵とされていました。つまり、隣人とは見なされなかったので、愛する対象にはなかったわけです。彼の質問に対して、主イエスはたとえ話の最後に、追いはぎに襲われて倒れている人を助けたのは、同じユダヤ人ではなく、ユダヤ人と敵対するサマリア人であると話したうえで、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と律法の専門家に言いました。この違いは明白ですが、隣人かではなく、隣人になったのかということです。倒れている人はサマリア人から見て憎きユダヤ人であったのかもしれません。けれど、そのサマリア人は、倒れている人の姿を見て、助けが必要だと思い、行動に出たのでした。その行動が、その人を愛するということになったのです。味方だから、敵だから、善人だから、悪人だから、隣人か愛するかということではないのです。何であろうとその人の隣人になるのかどうか、愛するか憎むかということなのです。
敵を愛しなさい、それは憎しみをもってして接するのではなく、愛をもってして憎しみと向き合い、その人が本当に必要としていること、望んでいることを見つめ、その人の隣人になるということです。敵として映り、敵に対して憎しみで返していくところには何も生み出さないのです。その人のために祈り、その人のために必要なものが備えられ、なすべきことが示されることを祈り願うのです。自分に対して、また相手に対する憎しみの中に希望はないからです。
しかし、私たちの現実は憎しみのただ中にあります。敵を愛するということからはほど遠い現実の中にあります。敵を作り、敵の死をもって、自分の生をなんとか確保しようとしている私たちの姿があります。憎しみという壁を隔てて、生と死が区別されてしまっているのです。だから、共存しえない存在としての自分と敵の存在が生まれてしまうのです。
されど、主イエスは35節でこのように言われます。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」敵を愛しなさい、それはいと高き方の子となるためだからです。主イエスははっきりとその目的を言われるのです。いと高き方の子、すなわち、あなたがたが神の子となるためであると言われるのです。ローマの信徒への手紙でパウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(5:8~10)神の敵であった私たちが、主イエスの十字架によって、神と和解し、その関係が愛にある関係となって回復したというのです。さらにパウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマ8:14~17)と言います。私たちは神の子として招かれているのであって、神様に敵対するものではないのです。そして、敵を愛する、その生き方、歩みを通して私たちは神の子としての姿が現実のものとなるのです。
私たちの現実には、味方も敵も善人も悪人もいます。それらの人は皆隣人なのです。私たちが隣人となれるように、愛するようにと主は導かれます。それ以前に主は私たちが敵であろうと、罪人であろうと、何であろうと、隣人として、そして神の子として愛してくださっているのです。敵を愛せず、憎しみに縛られてしまう私たちに対して、キリストが死んでくださり、復活して神の子となる道を示してくださいました。このキリストに結ばれることによって、もはや私たちは憎しみに縛られることはないのです。キリストに祈り求め、敵を憎むむなしさから、敵を愛する喜びの内に生きる道が与えられました。憎しみではなく、愛の中から、生まれる命、希望を私たちに示されているのです。
主イエスは最後にこう言われます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」憐れみとは、他者の痛みを自分のものにするという意味です。父なる神様が敵を愛するために思い悩み、拒絶反応すら起こすこの私たちの痛みを共に担ってくださっている。「頭で許しても体がついていかないことがある」けれど、相手の幸せを願うことの精一杯な私たちの気持ちを受け止めてくださる父なる神様の愛がここにあります。憎しみではなく、愛の中で共に共存することを主は望まれるのです。この主の憎しみの壁をもぶちこわす深い憐れみを新たに受け止めて、この憐れみを忘れぬ為に、敵を愛することの幸いに望みをもって生きてまいりたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。