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2019年4月21日 復活祭の説教「射し込む命の光」

「射し込む命の光」ルカによる福音書24章1~12節 藤木智広牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

イースターおめでとうございます。復活の喜びを喜びとして受け止めるようにと、私たちは四旬節、受難週を過ごしてまいりました。死の闇を受け止めて、復活の光を知るのです。光が闇の中で輝くように、主の十字架と復活は決して別々のものではなく、切っても切り離せないものなのです。死の闇の中で、命の終着点と思われるところで、キリストの復活を通して、新しい命のありかとなりました。私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書11:25)。死者の復活のために、キリストが神様によって復活させられたということです。そして、パウロの言葉を借りれば、このキリストは「復活の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」方であり、(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:20)私たちもこのキリストに結ばれることによって、復活の命に与るということが約束されているのです。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)とも言いました。だから、このイースター、復活祭はキリスト教教会の最も重要な祝祭で、一番古い祝祭なのです。このイースター、復活祭を中心に、クリスマスやペンテコステなど祝祭と教会の暦が作られていきました。

さて、今年はルカによる福音書から、復活の物語を読みました。ルカ福音書には、多くの婦人が描かれています。10節には「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」とあります。名前の記されている3人の婦人たちは、前の8章1節から3節に登場しています。そこにはこう記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:1~3)この女性たちも主イエスと出会い、主イエスと共に、神の国を宣べ伝える途上にありました。自分の持ち物を出し合って、主イエスと弟子たちを助けていたのです。しかし、主イエスが捕らえられ、十字架上で死なれたことによって、神の国を宣べ伝える宣教も頓挫してしまったかのように思われました。

また彼女たちは、逃げてしまった弟子たちとは違い、主イエスが十字架上で死なれたその一部始終を見届けていました。すぐ前の23章にこう記されています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(235556)」愛する主の無残な死を見つめ、さらに翌日が安息日ということで、ちゃんとした埋葬もできないまま、墓に葬られてしまいました。そのことがより一層彼女たちの悲しみを大きなものにしていたでしょう。

ですから、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」もうだいぶ日が経ってしまったけれど、やっと香料を塗ってあげられる、愛する主が死に、その死に報いるように、埋葬してあげられるという思いが顕されているのです。

しかし、墓に着いた彼女たちは、衝撃的な光景を目の当たりにします。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(2423他の福音書とは少し描き方が違いますが、彼女たちはその時途方に暮れていました。主のご遺体はどこにいったのか。そしてルカ福音書が描く状況から察すると、墓が荒らされ、誰かにご遺体が持ち去られたのではないのか。そのように彼女たちが考えてもおかしくはないでしょう。香料を塗ってあげられるどころか、ご遺体すらない、主の面影そのものが全くなくなってしまったのです。もうどうしていいのかわからなくなっていたでしょう。

彼女たちが途方に暮れ、絶望する中で、神様の御言葉が聞こえくるのです。ふたりの神様の御使いが現れて、神様の言葉を告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(2556)。ここというのはお墓ですが、ご遺体があるところ、人生の終着点、命の終着点と言われるこの墓にはいないというのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」、それは見当違いの場所を探しているということを意味します。あなたたちはなぜそこを探しているのかというこの御使い、主の言葉の問いかけは、もうだめだ、もうここにしか行き着くところがない、もうこの手段しか思い浮かばないという私たちの歩みに、私たちの目を真に開かれるきっかけとなります。神様、もうこれしかないではないですか、ここにしか自分たちのたどり着くところはないではないですか、その私たちの問いに、神様は、180度違う視点、見える世界の限界を超えて、見えない世界に触れさせようとするのです。今あなたが描いている全く真逆のところに答えは示されている。それがあなたを生かす道となり、糧となる。そのように主は私たちを導かれ、私たちの目を見開かれるのです。

御使いはこうも言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」。(2467ガリラヤ、それは先ほどお読みした8章の場面で、彼女たちが主イエスと出会った場所です。神の国の宣教を共にしていた時です。そのガリラヤで既にお話になっていたこと、それは「十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということでした。十字架と復活のことが既に予告されていました。神の国という福音、その本質は実は、主イエスの十字架と復活であるということ。十字架の死によって、神の国の宣教が頓挫したのではないのです。十字架の死を通って、復活の命が明らかとなったのです。

神の国は神の愛に満ちているところです。この神の愛は十字架と復活を通して完成しました。神の愛は死んだのでなく、今も生きているのです。またそれは、婦人たちに、そして私たちにも「思い出しなさい。」とみ使いは言います。それはただ過去の出来事をなつかしむのではなく、主が絶えずあなたがたと共にいるということをくり返し思い起こしなさいということを伝えているのです。既に神の愛の只中にあったこと、そして今もその中にあるということを受け止めることです。それは主イエスが今も生きているからに他なりません。生きていて、彼女たちのことを忘れてはいないのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・・その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(ルカ1474854とマリアの賛歌は歌います。身分の低い、取るに足らないこの私にも目を留めて慈しんでくださる神の愛は、決して忘れ去られるものではない。この時も、今も神様の愛と共に、自分は生きている。生かされている。罪のとりこに苛まれ、立ち直れなくなってしまうものたちに、主の復活はそのものたちを、再び神の愛の希望の内に立ち上げてくれることを意味するのです。

聖書は旧約聖書、新約聖書と言います。約というのは、約束の言葉です。神様の約束の言葉が記されているのが、聖書であり、神様の御言葉です。ただ、道徳の本や、歴史の書、教訓の書という類のものではないのです。一見理不尽に感じることも書いてあります。しかし、これらはすべて神様の愛の約束が記されており、それはひとりひとりを慈しみ、忘れることのない神様のご計画が表されているのです。だから、打ちひしがれ、傷つき、倒されてしまっても、それで終わりではないということなのです。今私たちは、その神様の愛の約束を「思い出したい」。主が今も生きて私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは絶えず、主の愛を思い出し、繰り返し繰り返し、主の愛に立ち返ることができるのです。主の復活は、神様の愛を明らかにした神様の私たちへの答えです。だから、この神様の愛は決して死ぬことはないのです。私たちは忘れ去られてしまうことはなく、主の愛の中にあります。主は生きて、私たちと今も共にいてくださるからです。神の国の宣教は続いています。神の愛は死なず、今も生きているからです。私たちの宣教も、主の復活と共に、再び始まったばかりなのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年4月14日 受難主日の説教「立ち直るために」

「立ち直るために」ルカによる福音書22章31~34節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。あ

受難主日を迎え、本日から聖週間を過ごしてまいります。長い受難主日の福音書の日課から、今日はルカによる福音書22章31~34節のみ言葉を中心に受難物語を聞いてまいります。

今日の福音書の32節で主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われます。わたしはあなたのために祈った。この主イエスの祈り、この恵みが私たちの信仰、私たちの歩みの土台になっていることを改めて覚え、受け止めてまいりたいと思うのです。祈ったといいますから、既に祈られているのです。既に主イエスの祈りのうちに私たちは主に生かされ、支えられているのです。しかも、信仰が無くならないように、と言われています。信仰とは信頼とも言えます。それは信じる対象がいるわけですから、一方的なものではなく、互いの関係性によるものです。自分と他者がいるように、神様と自分との関係を指します。だから、信仰が無くならないようにと言われる主イエスのほうから、その相手との関係を大切になさってくださっている。無くならないようにというのは、相手との関係、関りを断ち切るということを決して望んではおられないということであります。ですから、主イエスの祈りの内にあるということは、主イエスが絶えず私たちと共におられ、関わられ、共に生きていてくださるということを私たちに告げておられるのです。

この主イエスの言葉は、最後の晩餐の席上で言われました。晩餐ですから、食卓の恵みです。この食卓の恵みを弟子たちは繰り返し主イエスと共に与ってきました。そして今その最後の時を迎えているということです。この恵みを共にしながら、主イエスはこれから起こることを言われます。少し前の22章21節、22節にこう記されています。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。主イエスは既に裏切るものがいると言われ、弟子たちはその言葉に動揺します。次の24節では「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。とあります。主イエスを裏切ることなく、最後まで主イエスと共にいて、主イエスの弟子にふさわしい人物は誰か。弟子たちはそのような議論をしていたのかもしれません。しかし、主イエスはその弟子たちを咎めてはいません。むしろ、28節で主イエスは「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。22:29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。とまで弟子たちに言われたのです。主イエスはそのように弟子たちに約束をされました。あなたがたもまた給仕するものたちとして、神の国をのべつたえていくものとなる。その大きな役割を弟子たちに約束され、その使命を与えているのです。

ところが、その後に、弟子たちのリーダー格であるシモンに主イエスは言われるのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」あなたがた弟子たちがと言われるので、サタンにふるいにかけられるのは弟子全員ですが、ここでは明らかにシモンを中心に主イエスはそのように言われています。シモンはペトロのことです。ペトロとは主イエスから与えられた名です。マタイによる福音書で主イエスはペトロに言います。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)と言われました。その言葉の通り、教会の礎をペトロは築いていく中心人物となります。そのペトロたち弟子が今サタンからふるいをかけられると言い、しかもそれは神に願い出たものでした。ふるいをかけるとは、多くの中から良いもの、基準にかなったものを選び出すという意味があります。サタンは誘惑するものであり、ペトロたちの信仰をふるいにかけ、揺さぶってくると主イエスは言われるのです。選び出すという意味合いから、そのことによって真の信仰が明らかになるとも言えますが、続く主イエスの信仰が無くならないようにという言葉から、そのサタンのふるいの前に、弟子たちの本当の姿が明らかにされ、選び出すどころか、何も残らなくなるという意味合いのほうが近いようです。今まで見えなかったものが、ふるいにかけられることによって、見えてくる。砂をふるいにかけて揺さぶると、小さな砂利がそこに残って、それが見えてくるように、見えなかったもの明らかになってくるのです。

けれど、信仰が無くならないようにという主イエスの言葉から、そこで真の信仰が残るどころか、何もなくなってしまうかもしれないというということが言われています。今までよく一緒に耐えて従ってきたけれど、サタンのふるいの前に、あなたがたの信仰が揺さぶられてしまう。それは、あなたがた自身の力で耐えることはできず、ふるいにかけられ、あなたがたの本当の弱さ、無力さが明らかになってくると主イエスは言われるのです。ふるいにかけられ、見えてくる砂利は、彼らの信仰の粗さであり、もろくも崩れやすいものです。

ペトロは非常に驚いたかと思います。そして自分はそのふるいにかけられても、最後まで主イエスへの信仰を貫きとおす決心と強さがあり、他の人とは違うという気持ちがあったでしょう。主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言いました。主イエスと共に名誉の死を遂げる覚悟であったかと思います。自分は踏み絵をふまない。主イエスとならどこまでもついていく。ついていける。そんな思いであったでしょう。

主イエスはペトロに言います。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この後すぐ主イエスは捕まり、裁判にかけられていきます。ユダヤの宗教指導者や群衆たちのほとんどが、主イエスをひとりの罪人として裁きのまなざしを向け、誰も主イエスのもとにかけよるものはいなくなります。弟子たちの足並みもそろわなくなります。そして、ペトロは主イエスが捕まっている大祭司の邸宅の中庭で、ひとりの女性から、あなたは主イエスの弟子ではなかったかという質問に対し、いや自分は違うと、ペトロは答えてしまうのです。サタンのふるいにおける結果がそのペトロの答えであったとも言えます。ペトロの信仰が、その姿が明らかになりました。

しかし、この時、ペトロは主イエスの姿を見ています。先の22章61節、62節にこうあります。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。主イエスのまなざしを見て、主の言葉を思い出し、そして激しく泣いた。ペトロの涙は自責の念からくるものにも思えます。自分は主イエスを裏切ってしまった。自分に誇れる信仰なんて何もない。ここにきてそれが目に見える形で明らかになってしまった。そんな思いもあったかと思います。けれど、同時に主イエスが自分のほうを振り向いて、まなざしを向けた主イエスの姿を生涯目に焼き付けたはずです。恨みに満ちたまなざしではなく、それが本当のあなたの姿。そのあなたを私は愛しているという赦しのまなざしをペトロはこの後も生涯忘れなかったでしょう。

なぜ、そう思えるか。それは既に、ペトロがまだふるいにかけられる前に、主イエスの約束と恵みの祈りが彼を支えたからです。あなたの信仰が強くなるようにとか、立派な信仰者になるようにとか、そういうことではない。信仰が無くならないようにと言われた。自分の信仰を、自分自身で守り、耐え抜いていくことではなく、主イエスの祈りが自分の信仰の最後の砦、むしろそれが全てであると言わんばかりに、主イエスは共にいてくださる。その真実が明らかにされていくのです。

主イエスは続けてこう言われました。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直るというのは、」もとの状態に戻るという意味です。ようするに立ち返るということです。帰えるべきところに帰っていくのです。ペトロが帰るところは主イエスの愛と赦しの眼差しによって生かされている本来の自分自身です。主イエスと共にある本当の自分の姿です。立ち直るとは、もう二度とあんな罪を犯さないと反省することではありません。常に罪をおかし、信仰が揺さぶられてしまうそんな自分とどこまでも共に生きて歩んでくださるかたと共に歩んでいく新しい出発への旅路を指します。立ち直るとは、自分はひとりではないということ、主のまなざしの中にある自分を見つめ、自分の人生が主によって再び整えられ、備えられていることを受けとめていくことなのです。

それは主イエスが今も祈り続けてくださっているかに他なりません。信仰が無くならないようにと祈ってくださっているからです。自分たちの思いや気持ち、環境の変化などで、信仰の強さ、弱さがはかれるものではないのです。それよりも、あなたの信仰が無くならないようにと祈り続ける主イエスがひとりひとりと共におられることを私たちは喜びとしたいのです。

マタイの福音書18章13、14節で主イエスは言われます。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」この神様の心こそが私たちの信仰の土台なのです。立ち直れず、滅びてしまうことを主は望まれません。立ち直れるようにと、主が私たちを探し出してくださり、共にいてくださるからです。そして、岩の上に建てられた教会は、その神様の心を表す器です。ペトロの立ち直りは教会に表され、私たちもまた立ち直ることができるのです。

イースターまでの聖週間を、十字架への道のりを覚えつつ、信仰が無くならないように祈り続けてくださる主イエスの祈りの中で、共に歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。