「叫びに応じる神のご計画」 ルカによる福音書18章1~8節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音書の冒頭で主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えています。気を落とさずと聞けば、気を落とすなよ、こういうこともあるさ、気を落とさず、次からは頑張ろうという思いに捉えるかもしれませんが、ここでの主イエスの「気を落とさずに」という言葉は、口語訳聖書では「失望せず」、原語では「疲れないで」とそれぞれ訳されている言葉です。祈ることに疲れてしまうという現実があります。祈っても、神様は聞いてくださらないのではないか、何も答えてはくださらないのではないのか。そのような諦めや絶望から来る疲れとも言えるでしょう。だから、気を落とさずにといえど、気持ちを切り替えて、次に行こうとは、なかなかいけないものです。
このような私たちの現実の姿がある中で、主イエスはたとえ話をされます。裁判のお話です。と言っても、裁判時の判決を巡っての話ではなく、その裁判が開廷されるかどうかの話です。登場する裁判官は、「神を怖れず、人を人とも思わない」曲者です。イスラエルに最初の裁判制度が出来た時、神様は「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。」(申命記1:17)と言われました。裁判は神に属するものであるということは、裁くのは神様であるということです。しかし、この裁判官は神を畏れない、自分が神様になっているのです。自身の気分次第で、また己の立場を守るためにしか裁判を行わないのです。
この不義な裁判官にひとりのやもめが裁判をしてほしいと懇願します。やもめは社会的にとても弱い立場にある人です。他者の援助がなければとても生きていくことは難しかった人たちがやもめです。背景はわかりませんが、裁判をして自分を守ってほしいと懇願します。不義な裁判官は当然、最初は耳を貸しませんでしたが、うるさくてかなわないやもめに根負けして、とうとう裁判を開くことになります。うるさくてかなわないというやもめの訴えは叫び声となって、その必死しさから裁判が開廷することになったわけですが、それは裁判官の保身からくるものでした。
形はどうあれ、裁判は開廷し、彼女の叫び声は聞き入れられました。その後、主イエスは「それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(6、7節)と言われます。不正な裁判間の言いぐさを聞いて、その現実を突きつけられて、私たちは気を落とし、失望し、疲れてしまいます。この不正な裁判官の姿に重なるようにして、神様もこのような裁判官と同じように、私の祈りを聞いて下さらないのではないのかと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。神様がこのような不正な裁判官だとは到底思わない、されど、現実的に私の祈りは本当に聞かれているのか、そのような疑問と不安が残ってしまうことがあるのではないでしょうか。
このやもめの訴えは叫び声です。自分の生死がかかっている必死な叫びです。本当に何とかしてください、助けてください。そのような声を出し続けていたのでしょう。この叫び声によって、裁判官が心を入れ替えて、やもめのために裁判をしてあげたのではなく、これは結局自分の保身のためであって、自分のための裁判なのです。人の顔色を窺った自分自身に属する裁判なのです。この現実、人間の限界を踏まえて、いやそこから越えた。もっと言えば、その壁をぶち破るようにして、主イエスは「まして」と踏み込んで、神の領域に私たちを招くのです。これは不正な裁判官そのものにというより、神様を不正な裁判官に重ねてしまう私たちの疑問と不安な思いの中に、主イエスが踏み込まれた言葉です。やもめと同じく、私たちも昼も夜も叫び求めている。余裕はありません。もうだめかもしれないというぎりぎろのところで、叫び求める以外に、何もできない状況にあります。その声を発することしかできない私たちを「選ばれた人たちのために」と言われました。叫び求めている人たち、それが選ばれた人たちであると言います。選ばれたということは、既に神様の御手の中にあるもの、神様の恵みの力の中にあるものであるということです。叫び求め続けて、疲れ果て、もう終わりかもしれないという現実の中で、神様はその終わりだと思える状況で終わりにはしないのです。終わりからの始まりをもたらしていかれるのです。
それは何よりも、主イエスご自身がその神様の恵みを私たちにもたらしてくださったのです。主イエスが私たちの叫び声の只中に来て下さったからです。そして、私たちの叫びを共に担ってくださいました。さらに主イエスご自身も十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と。見捨てられて終わった。誰しもそう思える現実の只中で、この終わりから始まりをもたらす出来事こそが現実になったのです。私たちがこの出来後を予測して、選んだ結末ではなく、これは神様の選びにおける恵みの出来事です。私たちの叫び声が選ばれ、この恵みが現実のものとなったのです。この主イエスの十字架の叫び声、まさにこの叫び声から、失望と終わりにしか見えない現実、そして最終的には、死の世界しか見えないこの叫び声から、命の始まりがもたらされ、新しい歩みがもたらされました。この叫び声を通して、主イエスの復活は起こったのです。見捨てられ、踏みつぶされて終わったのではないのです。私たちの叫び声が選ばれたからです。また、私たちの疑問と不安に対する神様の答えがこの恵みであり、私たちは決して放っておかれてはいないということなのです。
「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」、それは神様が私たちの祈り、叫び声に常に耳を傾けてくださっているということであり、主イエスは私たちの叫び声の只中におられます。私たちの叫びを聞いて下さり、そこからの新しい道を主は備えてくださいます。私たちの声は主イエスを通して、神様に聞かれ、そして選ばれております。この約束を信じて、私たちは祈り、叫ぶことができるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。