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2019年11月10日 聖霊降臨後第22主日の説教 「恵みを分かち合うために」

「恵みを分かち合うために」 ルカによる福音書19章11~27節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日の福音である「ムナ」のたとえ話は、そのまま聞くと、なんとも後味の悪いお話という印象を持つかもしれません。王となった主人から預けられた1ムナを大切に保管して預かっていたのに、利益を上げて増やさなかったために、他の人に取り上げられ、さらに主人が王になることを望まなかった人々を打ち殺せと主人自らが命令して、この譬え話は終わります。王である主人の仕打ちに理不尽さと恐怖感を覚えるかもしれません。
 
 主イエスがこのたとえ話を話された理由は、最初の11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。今日の譬え話の直後に当たる19章28節からは主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入場され、ルカ福音書の物語では、弟子たちが声高らかに賛美している背景があります。メシア、救い主と人々から期待されていた主イエスがエルサレムに向けてもうすぐそこまで来ている。神の国が主イエスによってもたらされ、自分たちに神様の救いが与えられることを期待していた人々の姿と熱狂があったことでしょう。
 
 この人々の期待の只中で、すぐ前の箇所には、有名な徴税人ザアカイの物語があります。人々がこの物語を聞いている時に、今日のムナの話しを主イエスはされました。人々から罪人として嫌われていたザアカイが主イエスと出会い、主イエスがザアカイの家に泊まりたい、すなわちあなたの心の奥底に私は訪ね求めるという主イエスの言葉と思いを聞いて、ザアカイは喜び、今度は人々に施して生きていくという新しい人生を歩み始めたザアカイの物語。そして今日の物語に直前に当たる10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエスは言われました。人の子は救い主、主イエス御自身です。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。神の国は失われたものを捜して救うために来てくださった主イエスによってもたらされる神の愛なのです。
 
 この話に続いて、主イエスは今日のムナの譬え話をされました。ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。
 
 国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡ってしまいます。
 
 3人目の僕は預かったムナを無駄遣いしたわけでもなく、横領したわけでもないのです。ちゃんと大切に保管して、そのままの姿で王様に返しているのです。損して無くしたわけでもありませんでした。ただ、1人目と2人目との違いは、彼は何も動くことがなく、主人を恐れていました。1人目と2人目は自分たちも嫌われているであろう人々の只中に入っていき、ムナを使い、ムナを増やしました。ムナを預かって、この世の中でそれを用いていきました。それは、弟子たちがこの世に宣教に赴くかの如く、神様から与えられたムナをという賜物を用いて、神の国という神の愛に全ての人が招かれていることを伝えに出かけていきました。
 
 3人目の僕はそれをしなかったという批判的な見方をされてしまうかもしれません。しかし、この僕が主人を恐れたようのと同じように、人々の憎しみの目もこの僕は恐れていたでしょう。主人の思いよりも、恐ろしさから来る自分の弱さの前に、何もできずにいた姿がありました。
 
 そして、王様は最後に「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と言います。王様を憎んでいた人たちに対する報いとして、国民を裁こうする姿があります。自分たちの王様になってほしくないという理由から、王様に対する憎しみや期待外れな姿に憤りを覚えていたかもしれません。
 
 この後に続くエルサレムの入場のお話で、王様としての主イエスの姿があります。人々から期待され、歓呼の声をもって迎えられますが、一週間後には、十字架につけろという人々の大合唱の中で、十字架につけられて殺されてしまいます。主イエスも人々から失望され、憎まれ、最後は人々ではなく、ご自身が打ち殺されてしまうのです。
 
 たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。
 
 弟子たちは皆人々の目を恐れて、逃げてしまい、家に閉じこもってしまいます。主イエスに従い、人々のもとに行くことはできませんでした。3人目の僕の姿はこの弟子たちの姿でもあり、また弱さを持っている私たちの姿でもないでしょうか。
 
 王様は僕たちにムナという賜物を与えました。このムナは最初に言いましたが、もともとは10人の僕全員に、そのままに与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのです。王様はこの群れ全体、一人一人を必要として、ムナという賜物、恵みを与えて、それを用いて分かち合い、生きていくことを呼びかけられているのです。主イエスが失われたものを捜し求めて救われる方であるように、弟子たち、教会はそのキリストを伝えていくものの群れです。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会というムナを神様が用いてくだることに信頼を委ねて、歩んでいくのです。
 
 神の愛は王である主イエスご自身が受けられた十字架と、その十字架を通して示された復活によって明らかとなりました。弱さと虚しさのままに終わったのではなく、復活を通して弟子たちを立ち上げ、教会が与えられました。教会というムナが与えられました。このムナという与えられた教会を布でくるんでしまうのではなく、布から出ていき、恵みを分かち合って、失われたものを捜し求めて救われる方と共に、その方によって生かされている喜びと希望をもって歩んでいくのが教会です。この真の王様である主イエスに喜びを抱き、信頼をもって、心を開いて迎え入れ、この世を歩んでいきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月3日 全聖徒主日の説教 「神の愛にとどまりなさい」

「神の愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆さん、本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝にようこそおいでくださいました。私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、1年に一回、このように皆で集まって、礼拝の時を持っております。そして、私たちは先に召された故人を供養し、故人の平安を求め祈るためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今この礼拝に招かれています。それはまた、生前のこの地上でのご生涯もまた、キリストと共にあって、神様の恵みの内に歩まれたことを思い起こす時であるからです。
 
 そこで今日の聖書の言葉では、このキリストに繋がっていなさいと、有名なぶどうの木のたとえ話を通して、私たちに教えています。5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、わたしたちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結び、生きることができる。木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。主イエスはこのたとえを通して、命のありかを私たちに示しておられます。ただ漠然と死と命の話をされているのではないのです。この私につながることにおける命のありかについて話されているのです。人の生死を握っているには、枝自身ではなく、木の幹であります。自分自身の死も命も、自分自身でコントロールすることはできませんから、この自分の命もまた、自分で得ることができるものではなく、与えられ、必要な養分を頂いて、命を生かしていくことができるのです。
 
 このたとえ話を含むヨハネ福音書の13章から16章までは主イエスの告別の説教だと言われています。弟子たちに語られた遺言です。冒頭の13章1節にはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」父のもとへ移るというのが、十字架にかかって死ぬことを示していますが、弟子たちを愛し抜いた、弟子たちへの愛を貫いたと言います。今日の福音書でも9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と主イエスは言われます。留まるというのも、繋がるということです。主イエスを愛して信じなさいと言われる前に、まずあなたがたを愛しているこの私の愛に留まりなさい、つながっていなさいと言われるのです。でも、この後弟子たちは、主イエスが捕まり、十字架にかけられてしまう時に、怖くなって、逃げ出してしまいます。裏切ってしまう弟子もいました。弟子たちの弱さという面も伺えますが、死を前にして、死が恐ろしくなった姿をそのままに表しているのだと思います。
 
 主イエスは死における私たちの弱さ、もろさを十分に知っています。わたしにつながっていれば大丈夫なのに、なぜあなたがたは離れていこうとするのか。なぜわからないのか。ダメな人たちだと思われていたのではないのです。むしろわかりきっていたことなのです。だから、弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。死の不安、死の出来事からは避けて通りたいというのが私たちの本音であるということを。しかし、主イエスの命を与える愛の約束の中には、十字架の死が含まれているのです。だから、私たちがいずれ迎える死の事実を明らかにしているのです。主イエスは死の事実を無視して、復活の命に目を向けなさいとは言われません。死の事実を通して、自分の死を覚えて、今の自分の命の歩みに目を向けなさいと示されるのです。この死と命の狭間に生きる私たちに主イエスは「わたしの愛に留まりなさい」と言われました。
 
 パウロはローマの信徒への手紙8章35節から39節でこういうことも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35~39)神の愛から引き離せないものの中に、死と命があります。生きている者も、先に召された者も、この神様の愛の下にある、愛のご支配の中にあるのです。強いて言えば、この愛の中に、先に召されたものも生きているということです。主の身許である天に生きているのです。
 
 それは神様の愛であるキリストご自身が、十字架に死に十字架の死から復活したからです。それはこのキリストも私たちと同じように死なれる方であるということ、そのご生涯を歩まれたということです。私たちと同じように、悲しみ、苦しみ、痛みを経験された方なのです。死の世界とは無縁の、理想郷に生き、そこから、復活の命を私たちに示しているのではないのです。先に召された召天者の方が生きて証ししてくださったように、このイエスキリストはそのように、私たちの人生の只中に来てくださり、私たちと共におられる方なのです。
 
 愛は決して、その人を忘れません。そして、神様の愛、それを顕しているイエスキリストは、召天者の生き様を、その愛をもってして、片時も離すことがなく、召天者の方と私たちと共におられる。それはこの地上での生涯を終えた後も続いているのです。
 
 このイエスキリストは十字架に死に、そして復活された方です。死を避けて、命を全うしたのではなく、死を受けて、死を突き破って、命を現したのです。誰よりも、死の悲しみを、死を前にした人間の弱さを知っておられる方です。だからこそ、命の喜びを知っておられる。私たちの命、人生を良いものとして、尊ばれている。その生き様を見つめておられるのです。この生き様は残る。主イエスが死で終わりではなく、命における新しさをもたらしてくださったからこそ、召天者の方々と私たちはこの神様の愛の中に生き続けるのです。
 
 死ですら、キリストの愛の支配下にあって、キリストの及ばないところはないからです。ひとりひとりの召天者がこのキリストの内に留まっていると信じて、この命を与えてくださるキリストに委ね、今を生きているわたしたちひとりひとりもまた、このキリストが与えてくださっている命に信頼して、生きてまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2019年10月20日 聖霊降臨後第19主日の説教 「叫びに応じる神のご計画」

「叫びに応じる神のご計画」 ルカによる福音書18章1~8節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書の冒頭で主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えています。気を落とさずと聞けば、気を落とすなよ、こういうこともあるさ、気を落とさず、次からは頑張ろうという思いに捉えるかもしれませんが、ここでの主イエスの「気を落とさずに」という言葉は、口語訳聖書では「失望せず」、原語では「疲れないで」とそれぞれ訳されている言葉です。祈ることに疲れてしまうという現実があります。祈っても、神様は聞いてくださらないのではないか、何も答えてはくださらないのではないのか。そのような諦めや絶望から来る疲れとも言えるでしょう。だから、気を落とさずにといえど、気持ちを切り替えて、次に行こうとは、なかなかいけないものです。
 
 このような私たちの現実の姿がある中で、主イエスはたとえ話をされます。裁判のお話です。と言っても、裁判時の判決を巡っての話ではなく、その裁判が開廷されるかどうかの話です。登場する裁判官は、「神を怖れず、人を人とも思わない」曲者です。イスラエルに最初の裁判制度が出来た時、神様は「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。」(申命記1:17)と言われました。裁判は神に属するものであるということは、裁くのは神様であるということです。しかし、この裁判官は神を畏れない、自分が神様になっているのです。自身の気分次第で、また己の立場を守るためにしか裁判を行わないのです。
 
 この不義な裁判官にひとりのやもめが裁判をしてほしいと懇願します。やもめは社会的にとても弱い立場にある人です。他者の援助がなければとても生きていくことは難しかった人たちがやもめです。背景はわかりませんが、裁判をして自分を守ってほしいと懇願します。不義な裁判官は当然、最初は耳を貸しませんでしたが、うるさくてかなわないやもめに根負けして、とうとう裁判を開くことになります。うるさくてかなわないというやもめの訴えは叫び声となって、その必死しさから裁判が開廷することになったわけですが、それは裁判官の保身からくるものでした。
 
 形はどうあれ、裁判は開廷し、彼女の叫び声は聞き入れられました。その後、主イエスは「それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(6、7節)と言われます。不正な裁判間の言いぐさを聞いて、その現実を突きつけられて、私たちは気を落とし、失望し、疲れてしまいます。この不正な裁判官の姿に重なるようにして、神様もこのような裁判官と同じように、私の祈りを聞いて下さらないのではないのかと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。神様がこのような不正な裁判官だとは到底思わない、されど、現実的に私の祈りは本当に聞かれているのか、そのような疑問と不安が残ってしまうことがあるのではないでしょうか。
 
 このやもめの訴えは叫び声です。自分の生死がかかっている必死な叫びです。本当に何とかしてください、助けてください。そのような声を出し続けていたのでしょう。この叫び声によって、裁判官が心を入れ替えて、やもめのために裁判をしてあげたのではなく、これは結局自分の保身のためであって、自分のための裁判なのです。人の顔色を窺った自分自身に属する裁判なのです。この現実、人間の限界を踏まえて、いやそこから越えた。もっと言えば、その壁をぶち破るようにして、主イエスは「まして」と踏み込んで、神の領域に私たちを招くのです。これは不正な裁判官そのものにというより、神様を不正な裁判官に重ねてしまう私たちの疑問と不安な思いの中に、主イエスが踏み込まれた言葉です。やもめと同じく、私たちも昼も夜も叫び求めている。余裕はありません。もうだめかもしれないというぎりぎろのところで、叫び求める以外に、何もできない状況にあります。その声を発することしかできない私たちを「選ばれた人たちのために」と言われました。叫び求めている人たち、それが選ばれた人たちであると言います。選ばれたということは、既に神様の御手の中にあるもの、神様の恵みの力の中にあるものであるということです。叫び求め続けて、疲れ果て、もう終わりかもしれないという現実の中で、神様はその終わりだと思える状況で終わりにはしないのです。終わりからの始まりをもたらしていかれるのです。
 
 それは何よりも、主イエスご自身がその神様の恵みを私たちにもたらしてくださったのです。主イエスが私たちの叫び声の只中に来て下さったからです。そして、私たちの叫びを共に担ってくださいました。さらに主イエスご自身も十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と。見捨てられて終わった。誰しもそう思える現実の只中で、この終わりから始まりをもたらす出来事こそが現実になったのです。私たちがこの出来後を予測して、選んだ結末ではなく、これは神様の選びにおける恵みの出来事です。私たちの叫び声が選ばれ、この恵みが現実のものとなったのです。この主イエスの十字架の叫び声、まさにこの叫び声から、失望と終わりにしか見えない現実、そして最終的には、死の世界しか見えないこの叫び声から、命の始まりがもたらされ、新しい歩みがもたらされました。この叫び声を通して、主イエスの復活は起こったのです。見捨てられ、踏みつぶされて終わったのではないのです。私たちの叫び声が選ばれたからです。また、私たちの疑問と不安に対する神様の答えがこの恵みであり、私たちは決して放っておかれてはいないということなのです。
 
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」、それは神様が私たちの祈り、叫び声に常に耳を傾けてくださっているということであり、主イエスは私たちの叫び声の只中におられます。私たちの叫びを聞いて下さり、そこからの新しい道を主は備えてくださいます。私たちの声は主イエスを通して、神様に聞かれ、そして選ばれております。この約束を信じて、私たちは祈り、叫ぶことができるのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年10月13日 聖霊降臨後第18主日の説教 「癒された人」

「癒された人」 ルカによる福音書17章11~19節 小杉 直克 兄

 

 イエス様はエルサレムを目指して、旅を続けていました。エルサレム、それはイスラエルの都、首都です。政治と信仰の中心地でもあります。イエス様にとってエルサレムは神様の御子として、神様の計画を実行する所でもあります。それは、十字架の上での死であり。そうして、復活する事です。
 
 今日の御言は、そのエルサレムに向かわれる途中の出来事です。イエス様がサマリアとガリラヤの間を通られた時の事です。ガリラヤはイエス様の故郷であり幼い時代を過ごされた所でもあり、伝道活動を始められた所でもあります。サマリアはイスラエルの人から見れば異邦人の地であり、交流のない土地柄です。ガリラヤにしてもサマリアにしても、イエス様を神の御子として受け入れなかった土地なのです。当時のイスラエルの人が旅をする時は、人々はこの地方は避けて遠回りをしていたようです。しかし、イエス様は、ご自分を受け入れようともしない多くの人々のいる間を父なる神が導かれるままに進まれて行ったのです。
 
 そうして、ある村に入られた時、十人の重い皮膚病を患った男達が、遠くの方からイエス様に「イエスさま、先生、どうか,私たちを憐れんでください」と、大きな声で叫んだのです。この皮膚病に付いては、旧約の時代からあったようで、旧約聖書のレビ記の13章1から59に詳細に記載されています、14章には更に清めの儀式に付いても記載されています。ですから、旧約の時代から皮膚病は広く人々の間で流行っていたようです。ですからこの病は、人々から忌み嫌われていた病であり、この病を患えば人として扱ってもらえなかったことが理解できます。新共同訳では「皮膚病」とありますが、口語訳においては「らい病」となっています。
 
 この皮膚病とはどのような病かというと、この皮膚病という意味には「はがす」という意味があり、又、「うろこ」という言葉も「はがす」という言葉から由来しています。ですから、この皮膚病とは、自分の皮膚が鱗の様に剥がれ落ちてしまうほど重い病だということです。ですから、周りの人々からは正しく「排除」され、人としては扱ってもらえませんでした。
 
 そのような、十人の人が「イエス様、先生」と言ってイエス様を待ち受け、向かい入れたのです。
「声を張り上げ」とありますから、彼らにとっては必至の思い、二度とない機会だと思ったでしょう。このことは、サマリアやガリラヤの人々のようにイエス様を受け入れようとはしなかった人々と比較すれば、まったく、対照的な事と言ってよいでしょう。
 
 十人の男たちは、この時点においては、真の主イエスに付いては理解してはいなかったのではないでしょうか。 それは主イエスを「先生」と呼んでいるからです。「先生」とは「指導者」を意味する言葉であり。十人の男達は主イエスに導きを期待し、病が癒されることを期待したのです。
 
 彼らの求めた主イエスはヘブライ書にあるように「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けて苦しまれている人たちを助けることがおできになるのです」(2:17~18)とあるように、主イエスはこの十人の病める人々を憐れんだのです、憐れむとは、相手と同じ立場、即ち相手と同じ土俵に立って、相手のために望む行為をしつつ、同情する、心を寄せる事です。この病める十人の人々の心は主イエスを自分たちの罪の贖い主、救い主とは、悟っていなかったかも知れません。
 
 さらに主イエスは、憐みを求める彼らに「祭司のところに行って、体を見せなさい」と言われます。この時代には、皮膚病であるかないかの判断は医者ではなく、指導的立場にある祭司が行っていました。そうして皮膚病になった時の処置や清めかたを指導していたのです。ですから、皮膚病であるとか、皮膚病が治ったとかの判断も祭司が行っていました。それは、当時の人々は、この皮膚病は、その人の罪と関係付けて考えていたようです。即ち、皮膚病であるという事はその人が律法を犯し神様に背いた罪人と考え、それが皮膚病という形で表れたと考えていたのです。ですからこの病に掛かった人は祭司に診てもらい、病気であるか否か、また病が治ったか否かを判断してもらったのです。ですから彼らは祭司の所に向かったのです、すると、その途中で病が治ったことを知りました。彼らが祭司のところに着いた時にはすでに病は治り、清められていました。
 
 主イエスが彼らを憐れんだのは、重い皮膚病であった彼らが、聖書の言葉通りに、清められ。それが、父なる神様による「清め」である事を悟る事でした。そのことにより、彼らが神様のもとに立ち返る事でした。十人の皮膚病の男達は、祭司に診てもらい、また自分自らも病が治ったことを確認したはずです、
 
 しかし、自分を癒してくださった神様を心からたたえ、感謝して主イエスの元に立ち返ったのは、たった、一人だけでした。この人は、主イエスと父なる神との間に特別な繋がりがある事を悟ったのです。ですから彼は主イエスの元に立ち返ったのです。そうして彼は、主イエスの足元にひれ伏して感謝したのです。「ひれ伏す」とは、自分の顔を相手の足元に伏せる事であり、相手に対して最大の敬意を表す事なのです。そうして彼は主イエスに対して最高の敬意を表したのです。彼は、主イエスは「先生」ではない、この方こそ神様から遣わされた救い主であり神様の御子であることを悟ったのです。そのように彼は導かれ、罪が許されたことを確信したのです。
 
 その彼は、イスラエルの民ではありませんでした、イスラエルの人々とは交流のないサマリア人だったのです。このことは、主の憐みは、イスラエル人とかサマリア人とかという、人種や民族の垣根を乗り越えて人々に及んでおられるという事を示しておられます。
 
 主イエスは言われます、「清くされたのは、十人ではなかったのか。ほかの九人はどこにいるのか。」と、主イエスの憐みによって癒され、祭司によって清いとされたのは十人のはずである、なのに、戻ってきたのはサマリアの人だけです。「どこにいるのか」、主イエスのこの言葉は、厳しく聞こえるかもしれませんが、決してそうではないのです。 「どこに」、九人の人達は、自分の病が癒されたことをどの様に心で悟ったのでしょう。そうして、神様によって癒されたことに気が付かない彼らを、主イエスは案じておられるのです。彼らが戻るところは、彼らを愛しておられる神様のところなのです。更には、戻ってきたサマリアの人を「外国人のほか」と言われているところから、戻ってこなかった九人の人々は、イスラエルの民だと考えられます。「イスラエルの民」それは神様に選ばれた民であり、神様に最も近い民と言ってもよいでしょう。しかし、神様を賛美するために戻って来たのは、異郷の民であるサマリア人であり、神様に仕えるべきイスラエルの民ではなかったのです。
 
 この出来事は、主イエスが故郷でもあるナザレで受け入れられなかった出来事をも思い出させます。その出来事はルカ書の4章16節から始まります。それは故郷であるナザレで神の国ついて語り、御自身が、父ヨセフの子であり、神様から遣わされた、御子であることを、故郷の人々に話した時、人々はその様な主イエスを理解する事無く、むしろ主を町から追い出して山の崖から突き落とそうとしたのです。ここにも又、主イエスが父なる神に遣わされた御子であることを悟らない人々がいるのです。九人の重い皮膚病のイスラエルの人々も又同じく、主イエスが神様から人々を救うために遣わされた救い主、キリスト・イエスであることを悟る事が出来なかったのです。
 
 主は、戻らなかった九人の人々の行方を案じつつ、癒されたサマリアの人に、「立ち上がって、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスの救いの業は、全ての人、その人の国籍や、人種を乗り越えて行われるのです。主の十字架がそれを人々に示しているのです。信仰があなたを救うのです。
 
 「信仰」とは、創世記にあるように、人は神様によって作られ命が与えられました。神様は誠と愛を持って人と契約を結びましたが、人はその契約を破りました、しかし神様はこのような人の神様に背を向ける様な、即ち背信的な行いに対し、神様の御意思により、人々の世にキリスト・イエスを送られました、それは人の神様に対する背信的な行いによる人の罪を救う為、キリスト・イエスを罪の贖いのため十字架に架けられ、そうして復活され神様の御心を示されたのです。この十字架の救いを示された神様の真実な御心、神様の愛を受け入れ、まったき信頼をよせ。キリスト・イエスこそが救い主であることを受け入れ、その事を言い表すことが信仰なのです。
 
 パウロはローマ書の10:17で「信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって、始まる」といい、更に、罪人は「信仰によって、義とされる」と言います。このサマリア人は、主の元に戻りつつ、大きな声で主を賛美したとあります、正に主イエスによって癒され、救われたことを周りの人々に告げたのです、そうして主の足元にひれ伏してキリスト・イエスを信じていることを表したのです。
 
 さらに、主イエスは「ほかの九人はどこにいるのか」と言われます。私達は愛する者が居なくなった時、何処にいるのかが心配になります。主イエスは、「どこにいるのか」と言われます。主は戻らない人に対しても御心を、愛を向けられているのです。