「恵みを分かち合うために」 ルカによる福音書19章11~27節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日の福音である「ムナ」のたとえ話は、そのまま聞くと、なんとも後味の悪いお話という印象を持つかもしれません。王となった主人から預けられた1ムナを大切に保管して預かっていたのに、利益を上げて増やさなかったために、他の人に取り上げられ、さらに主人が王になることを望まなかった人々を打ち殺せと主人自らが命令して、この譬え話は終わります。王である主人の仕打ちに理不尽さと恐怖感を覚えるかもしれません。
主イエスがこのたとえ話を話された理由は、最初の11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。今日の譬え話の直後に当たる19章28節からは主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入場され、ルカ福音書の物語では、弟子たちが声高らかに賛美している背景があります。メシア、救い主と人々から期待されていた主イエスがエルサレムに向けてもうすぐそこまで来ている。神の国が主イエスによってもたらされ、自分たちに神様の救いが与えられることを期待していた人々の姿と熱狂があったことでしょう。
この人々の期待の只中で、すぐ前の箇所には、有名な徴税人ザアカイの物語があります。人々がこの物語を聞いている時に、今日のムナの話しを主イエスはされました。人々から罪人として嫌われていたザアカイが主イエスと出会い、主イエスがザアカイの家に泊まりたい、すなわちあなたの心の奥底に私は訪ね求めるという主イエスの言葉と思いを聞いて、ザアカイは喜び、今度は人々に施して生きていくという新しい人生を歩み始めたザアカイの物語。そして今日の物語に直前に当たる10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエスは言われました。人の子は救い主、主イエス御自身です。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。神の国は失われたものを捜して救うために来てくださった主イエスによってもたらされる神の愛なのです。
この話に続いて、主イエスは今日のムナの譬え話をされました。ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。
国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡ってしまいます。
3人目の僕は預かったムナを無駄遣いしたわけでもなく、横領したわけでもないのです。ちゃんと大切に保管して、そのままの姿で王様に返しているのです。損して無くしたわけでもありませんでした。ただ、1人目と2人目との違いは、彼は何も動くことがなく、主人を恐れていました。1人目と2人目は自分たちも嫌われているであろう人々の只中に入っていき、ムナを使い、ムナを増やしました。ムナを預かって、この世の中でそれを用いていきました。それは、弟子たちがこの世に宣教に赴くかの如く、神様から与えられたムナをという賜物を用いて、神の国という神の愛に全ての人が招かれていることを伝えに出かけていきました。
3人目の僕はそれをしなかったという批判的な見方をされてしまうかもしれません。しかし、この僕が主人を恐れたようのと同じように、人々の憎しみの目もこの僕は恐れていたでしょう。主人の思いよりも、恐ろしさから来る自分の弱さの前に、何もできずにいた姿がありました。
そして、王様は最後に「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と言います。王様を憎んでいた人たちに対する報いとして、国民を裁こうする姿があります。自分たちの王様になってほしくないという理由から、王様に対する憎しみや期待外れな姿に憤りを覚えていたかもしれません。
この後に続くエルサレムの入場のお話で、王様としての主イエスの姿があります。人々から期待され、歓呼の声をもって迎えられますが、一週間後には、十字架につけろという人々の大合唱の中で、十字架につけられて殺されてしまいます。主イエスも人々から失望され、憎まれ、最後は人々ではなく、ご自身が打ち殺されてしまうのです。
たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。
弟子たちは皆人々の目を恐れて、逃げてしまい、家に閉じこもってしまいます。主イエスに従い、人々のもとに行くことはできませんでした。3人目の僕の姿はこの弟子たちの姿でもあり、また弱さを持っている私たちの姿でもないでしょうか。
王様は僕たちにムナという賜物を与えました。このムナは最初に言いましたが、もともとは10人の僕全員に、そのままに与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのです。王様はこの群れ全体、一人一人を必要として、ムナという賜物、恵みを与えて、それを用いて分かち合い、生きていくことを呼びかけられているのです。主イエスが失われたものを捜し求めて救われる方であるように、弟子たち、教会はそのキリストを伝えていくものの群れです。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会というムナを神様が用いてくだることに信頼を委ねて、歩んでいくのです。
神の愛は王である主イエスご自身が受けられた十字架と、その十字架を通して示された復活によって明らかとなりました。弱さと虚しさのままに終わったのではなく、復活を通して弟子たちを立ち上げ、教会が与えられました。教会というムナが与えられました。このムナという与えられた教会を布でくるんでしまうのではなく、布から出ていき、恵みを分かち合って、失われたものを捜し求めて救われる方と共に、その方によって生かされている喜びと希望をもって歩んでいくのが教会です。この真の王様である主イエスに喜びを抱き、信頼をもって、心を開いて迎え入れ、この世を歩んでいきたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。