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2013年3月10日 四旬節第4主日 「家を出た息子」

ルカによる福音書15章11〜32節
高野 公雄 牧師

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ルカによる福音書15章11~24節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

《ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。》

きょうの福音は、イエスさまのたとえ話の中でも最も親しまれているものの一つ、「放蕩息子のたとえ」です。このたとえ話は、二人の息子を持つ家庭が舞台です。弟の方が、父親に生前の財産分与を求めます。それで、父親は二人の息子に財産を分けてやります。跡取りは他の息子の二倍を受け継いだそうですから、弟は家の財産の3分の1を、兄は3分の2をもらいました。弟はそれをお金に換えて、旅立ちました。青年期に親を離れてひとり立ちしようと思うことは自然なことです。弟はしかし、無駄に財産を使い果たしてしまいます。誰も助けてくれません。ユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をするまでに身を落としました。この青年は親から離れて暮らせるだけの成熟をしていなかったと見ることもできますが、親からの離反だけでなく神からの離反をももくろんでいたとしたら、どうでしょう。このことは、善悪の判断基準を失い、なぜ売春をしてはいけないのか、なぜ人を殺してはいけないのかも分からない倫理崩壊(モラール ハザード morale hazard)を招き、人間性を損なっている有様を表わしているとも見ることができるでしょう。彼は我に返って考えました。父の家の雇人にしてもらえたら、どんなに良いだろうと。そして家に戻ります。

《ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。》

「まだ遠く離れていたのに」というところに父親の気持ちが表われています。父親は弟息子のことを心配して、ずっと帰りを待って、毎日彼が出て行った方を見ていたのです。息子が謝ったから赦すのではありません。父親は無条件で息子を愛し、受け入れているのです。「憐れに思う」とは、息子の失意、衰弱、悔恨を我がこととして心を痛めていることです。息子を責めるなど思いもしません。父親は息子に走り寄ります。家父長は悠然と構えているべきであって、公道を走り出すようなみっともないまねはしないものです。でも、父親は人目も外聞もはばかりません。走り寄って息子の首を抱き、接吻します。息子は「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言いますが、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、帰ってきた息子にいちばん良い服を着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせ、肥えた子牛を屠って、食べて祝います。もしも弟息子がこの後、生き方を変えるならば、それはこの父の大きな愛に包まれているからこそのことです。自分はこの父の愛に応えた生き方をしていないという気づきから、真の罪の自覚、悔い改めが生じるのです。

これがたとえ話の前半です。弟息子がどういう悔い改めの実を結んだかという、道徳生活の改善はさしあたり問題ではありません。要点は、神はたいへんに慈悲深いお方であって、人を分け隔てせずに、心に掛けておられること。神を離れた人間が神の許に戻って来ることを待ちこがれているということです。神の求める回心は、何はともあれ、神の愛を受けとめて、私たちの心を神の方に向け直すことです。

《ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。》

この話は「ある人に息子が二人いた」と始まりました。兄息子の方はどうだったのか、それがたとえの後半に描かれます。「兄の方は畑にいたが」とあります。弟が遺産分けで得た畑や家畜を売り払って出て行ったあと、父と兄は失った分を買い戻すためにどれほど働きづめに働いたことでしょう。その日も朝早くから父と兄は畑で働きました。父が一足先に家に戻り、弟の帰宅を待って遠くを見つめていたときも、兄は畑にとどまって暗くなるまで働きました。弟がまともに暮らしていたら、これほどの苦労はしなくて済んだはずです。家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきました。弟が帰って来たお祝いの宴会が始まっていたのです。

「兄は怒って家に入ろうとはせず」とありますが、この兄の気持は理解できるのではないでしょうか。そもそも、兄と弟では、いったいどちらがほめられるべきでしょうか。兄の方のはずです。でも、実際には、弟はいちばん良い服を着せられて、帰宅を祝われています。兄は一日中働いて疲れ切って仕事から戻ってきて、そのざわめきを聞いています。兄が怒るのは当然でしょう。兄の言い分はこうです。《このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。》何年も父の言いつけを守り、父とともに働いてきたのに、友達と楽しむために子山羊一匹すらくれませんでした。ところが、弟が帰ってくると肥えた子牛を屠ってやる。子山羊と子牛を対照させるこの言い方にも兄の不満が表われています。子牛は子山羊よりもずっと高価なのです。不公平にも程がある。あなたは弟に甘くするから、弟はダメな人間になったのだ。なぜ弟の言いなりになって遺産を与えたのか、等々。兄のお説教はいちいちごもっともなことで、父は恐縮して頭を垂れて聞くほかなかったことでしょう。罪人を愛し赦して迎え入れるということは、この世ではこのように弱い立場に立たされます。兄に

2013年2月24日 四旬節第2主日 「受難の予告」

ルカによる福音書18章31〜43節
高野 公雄 牧師

イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

ルカによる福音書18章31~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

《イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」》

イエスさま一行の旅も終わりに近づき、ユダヤ南部にある死海に近いエリコの町まで来ました。エルサレムまであと少しです。そこでイエスさまは弟子たちに、ご自分の受難を予告します。

予告に表われる「人の子」という言葉は、旧約聖書の言葉でベン・アダーム、つまりアダムの息子であり、一般に「人間」の意味で使われます。しかし、次第にメシアの呼称として使われるようになり、新約聖書ではもっぱらイエスさまのメシアである自分を指す言葉となりました。イエスさまは、まずメシアについての旧約の預言はみな自分において成就すると宣言します。メシアの受難は聖書に預言されていることであり、それが神のみ心なのだ言っているのです。

受難を描く言葉の中で、「乱暴な仕打ちを受け」という言葉ヒュブリゾーは、口語訳聖書では「はずかしめを受け」と訳されましたが、マルコにもマタイにもない、ルカに特有の言葉です。これは「ヒュブリス傲慢、思い上がり」という言葉を動詞化したもので「他者に対して傲慢に振る舞う」ことを意味しています。

このヒュブリスはイソップの「戦争と傲慢」という話に出てきます。ヒュブリス Hybris は外面は華やかな美女ですが、内面は性悪な傲慢の女神です。その夫が戦争の神ポレモス Polemos です。ポレモスはヒュブリスを愛して、彼女が人間界を巡りゆくのを、ポレモスはどこまでも後から付いて歩きます。「ヒュブリス(傲慢の女神)が、民に笑みを振りまきながら、諸国民、諸都市を訪れることのないように。その後から必ずポレモス(戦争の神)がついてくるのだから」(『イソップ寓話集』中務哲郎訳、岩波文庫)。傲慢の後には戦争がやってくるから、傲慢に惑わされないように、という戒めの話です。

古代ギリシアの倫理思想では、ヒュブリスは人間にとって最も避けなければならない悪徳の女神です。彼女に魅入られて自分の力を過信した人間は、他者への思いやりを失い、横暴な振る舞いで周囲を傷つけ、争いを引き起こします。時には正義の女神ディケーに仕える人の心にすらいつの間にか過信やおごりを宿らせ、不正へと導きます。また、みずからの力を過信して,ときには神々に対してさえ思い上がった言動を示します。それがヒュブリスで、こうした人間の分をわきまえぬおごりやたかぶりは、かならずや天罰を招き、人を破滅させると考えられました。

聖書が語るところによっても、人間の罪の本質はこの「傲慢」です。イエスさまは人間のさまざまな罪のほかに傲慢の罪にも苦しめられて死に至ったというのではなく、むしろ人間のさまざまな罪の根源がこの「傲慢」なのです。神によって造られ、生かされている人間が、神に従うのではなく、自分が神の立場に立ち、自分の思い通りに生きようとする、それが罪なのです。その傲慢のゆえに、私たちは神を愛することも、隣人を愛することもできずにいます。私たちは神に対しても、隣人に対しても、もっと謙虚にならなくてはいけないのですが、人間の努力によってはそれはできません。私たちが傲慢の支配から救い出されて義とされることは、神の子であるイエスさまが、人間の傲慢の罪の犠牲となって苦しみを受け、死んでくださることによるのであり、神ご自身の御業によってのみ実現するのです。

予告の最後に、「人の子は三日目に復活する」とあります。私たちの傲慢はイエスさまを殺しまが、神はイエスさまを復活させてくださいました。人間の傲慢がもたらした死を、神の恵みが打ち破り、命への道を切り開きます。私たちは、この新しい命の道を通って神の救いにあずかることができるのです。神の救いは、イエスさまの死と復活によって実現します。イエスさまはいま、この神のみ心を成し遂げるためにエルサレムに上って行こうとしておられます。私たちはいま、イエスさまの十字架の死と復活への歩みを覚える四旬節の季節を歩んでいるのです。

《十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。》

この弟子たちの無理解は、この後、イエスさまを十字架に見捨てるまでに至ります。自分の世界から踏み出すことができず、十字架の主を信仰の目で見ることができないからです。それが私たちの罪の姿です。その罪の私たちをイエスさまは愛して、十字架の道を歩んでくださいます。それゆえに、私たちは、いま十字架を仰ぎ見、そこに私たちの救いをはっきり見るのです。

この福音を聞いても、そこで示された救いがどのようなものであるか、分からないと思います。神の恵みにより頼むこともまた、人間の理解力や努力によってはできません。復活したイエスさまの霊、聖霊の働きによって、私たちの心が開かれることによるのです。聖書の解き明かしを受け、聖餐にあずかるときに、聖霊の導きによって初めて分かることなのです。今は分からなくとも、イエスさまと共に歩む中でいつか分かってくると信じます。

《 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。》

エリコの町の門の外で物乞いをしている人がいました。マルコ10章には、この人はバルティマイと名が出ています。ルカ福音が「ある盲人」と記すのは、彼が「見えなくなっている人間」の象徴だからでしょう。イエスさまが十字架と復活の予告をした時、弟子たちはそれを理解することが出来なかったと記されていました。目の不自由なバルティマイは、その意味で、イエスさまを理解できない弟子たち、そして私たちの象徴でもあるのです。

ナザレのイエスが通っていると聞いて、彼は「ダビデの子よ」と呼びかけています。ダビデの子孫からイスラエルの繫栄を回復させてくれる王が生まれるという預言があります。人々はそれに期待して待っていました。彼はイエスさまこそ、約束されたメシアだ、世の救い主だという信仰を言い表していることになります。彼は人伝てにイエスさまの神の国の福音や病気の癒しなどを聞いて信じたのでしょう。そう信じた彼は、イエスさまとの出会いを求めて叫び続けます。「わたしを憐れんでください」。彼は苦悩と悲惨を自分ではどうすることもできません。イエスさまは立ち止まり、盲人をご自分のもとへお招きになります。その招きに応えてみ前に出ることが救いへの第一歩です。

《彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。》

イエスさまは彼に「何をしてほしいのか」と尋ねます。この問いかけは、私たちへの根本的な問いです。なぜなら、私たちは、自分を見失い、自分が本当に何を求めているかが分からなくなっているからです。「あなたは、本当に何を求めているのか。」それは、私たちへの根本的な深い問いかけなのです。

盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えます。そして、癒されます。それと同時に、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言います。イエスさまはご自分に対する信頼を彼の信仰と認め、彼の目を開いてくださったのです。ただし、私たちはこの言葉を、彼の立派な信仰の力によって神のみわざを引き出すことができたかのように考えてはなりません。この癒しは神の子イエスさまの力と憐れみによることです。

そして、彼は目が開いたことよりもイエスさまと出会ったことがもっと大切なことだと分かり、イエスさまに従います。それによって、本当の意味で目が見えるようになったのです。

私たちの罪のために十字架の苦しみと死への道を歩んでおられる救い主イエスさまの姿をはっきりと見えるように、また、イエスさまに従っていく歩みを導いてくださるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2013年2月17日 四旬節第1主日 「イエスの試練」

ルカによる福音書4章1〜13節
高野 公雄 牧師

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

ルカによる福音書4章1~13節


先週の「灰の水曜日」から、イエス・キリストのご復活を祝う心の準備をする「四旬節」が始まりました。きょうはその最初の日曜日で、毎年、荒れ野におけるイエスさまの四十日間試練の物語を読んで、この期節を過ごす心構えを学びます。私たちがいま迎えている「四旬節」の原型が、このイエスさまの試練の四十日間です。さっそくきょうの福音を見てみましょう。

 

《さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。》

ヨルダン川でイエスさまに何が起こったか、覚えていらっしゃると思います。《民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった》(ルカ3章21~23)。このように、イエスさまは三十歳のころ、ユダの荒れ野に出ていって、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、聖霊を受けると共に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞きます。これは、神がイエスさまを「神の子」、メシア、「世の救い主」に任命されたことを表わしています。それと同時に、その使命をまっとうできるように、聖霊が注がれます。しかし、洗礼を受けるとすぐに宣教活動を始めたのではありません。宣教を始める前に、その聖霊がイエスさまを荒れ野における四十日間の試練へと導きました。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあるように、この試練も、これからのイエスさまの歩み全体も、神の導きに包まれているのです。

ところで、荒れ野、四十というキーワードで思い出されるのは、前13世紀のことですが、イスラエル民族が出エジプトから約束の地に入るまでの荒れ野における四十年間の旅です。彼らはエジプトにおける奴隷の苦しみから解放されたのは良いのですが、水と穀物の豊かなエジプトを出たら、そこは荒れ野です。たちまち飲み水にも食べ物にもこと欠き始めます。人々は神に不平を言い、不信仰をつのらせて罪を重ねますが、その一方で、ぎりぎりの生活の中で苦難を忍び、助け合うことも学びます。また岩から水を出したり、天からマナを降らせたりと、神が民を養い守ってくださる厚い配慮をも経験しました。彼らはこうした経験を経て、約束の地に入ることができたのです。

このように、何かある困難に遭うと、人が神の愛を体験するための教育訓練と受けとめてそれを耐え忍ぶか、その困難に負けて悪魔の誘惑にからみ取られるか、岐路に立たされます。聖書では、誘惑と試練は同じ一つの言葉です。イエスさまは悪魔の誘惑を試練、教育訓練に変えて、より一層神と深く交わる機会としました。誘惑を試練に変える力は、み言葉に聞くこと、祈りにおける神との対話にあります。

《そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。》

悪魔は悪霊どもの頭を指す普通名詞であり、彼の名前、固有名詞がサタンです。サタンも、元々は「悪に誘う者」を意味する普通名詞でした。

悪魔は第一の誘惑と第三の誘惑で、イエスさまに「お前が神の子なら・・」と言っていますが、それによって、イエスさまの荒れ野における試練が、「イエスはどういう神の子なのか」、「救い主としてこれからどういう道を歩むのか」をテーマにしていることが分かります。結論を先に言えば、そもそもイエスさまがメシア、救い主として召された洗礼が、悔い改める人々の仲間となって受けたものでした。イエスさまが神の子であるとは、罪人と同じところに立って、その苦難を一身に負う「苦難の僕」としてのメシアであることを示唆するものでした。神の子が地上で歩む道は、十字架に至る道と定められていたのです。

イエスさまが四十日間、断食して空腹になられたとき、悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と誘います。神の子はその力を自分のために使うが良い、というのです。これは、十字架上のイエスさまに投げつけられた言葉、《民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」》(ルカ23章35~37)と同じです。

イエスさまはこの窮状においても、自分の力に頼るのでなく、ますます神のみ言葉に堅く留まります。そして、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と、神の言葉をもってお答えになります。これは申命記から取られていますが、この言葉が出てくる個所は、神の与える試練、教育訓練の意味を良く解き明かしていますので、読んでみましょう。

《あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい》(申命記8章2~5)。

神はいたずらに人を苦しめるのではありません。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる喜びを実地教育しておられるのです。私たちは荒れ野に住んでいるわけではありませんが、さまざまの恐れや不安に囲まれて試練に遭っているという意味では、私たちの生活も「荒れ野」だと言ってよいでしょう。つねに不足を訴え、神に信頼し切れず、世の誘惑に負けそうになります。でも、実は、神は昔と変わらず、忍耐強く、愛と寛容をもって私たちの生活を見守り、恵みを与えていてくださいます。神は私たちが「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を望んでおられるのです。

マタイ4章10によると、イエスさまは悪魔の誘惑を聖書の言葉を引用するとともに、「退け、サタン」と言って退けました。この言葉はイエスさまの受難予告のあとにも出てきます。《このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」》(マタイ16章21~23)。悪魔はペトロの口を通してでも、イエスさまを十字架の道、人の苦難を身代わりになって負うメシアの道から引き離そうとするのです。イエスさまの全生涯は聖霊の導きの下にありましたが、同時に誘惑もまた絶えずともないました。

この荒れ野の試練は、私たちイエスさまに従う者たちにとっても、信仰の戦いのモデルとして、毎年繰り返し読まれます。私たちもまた、み言葉に堅く立って誘惑と戦いましょう。とは言っても、私たちは信仰とともに弱さをも持ちあわせています。そのためにも、誘惑に遭われたイエスさまを仰ぎましょう。《さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか》(ヘブライ4章14~16)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2013年2月10日 変容主日 「変身するイエス」

ルカによる福音書9章28〜36節
高野 公雄 牧師

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ルカによる福音書9章28~36節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

教会の暦に関心の薄いプロテスタントであっても、先週8日金曜日からカーニバルが始まったというニュースを聞いて、四旬節が近いことに気づかれたのではないでしょうか。きょうは顕現節の最終主日であり、今週水曜日は「灰の水曜日」で、四旬節が始まります。きょうの福音、主の変容の出来事は、イエスさまが世の救い主であること、そして十字架上の死こそが救い主としてのわざであることを明らかにしています。顕現節から四旬節へと橋渡しするにふさわしい内容となっています。

《この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。》

八日とは一週間後の同じ曜日になりますが、一週間前の「この話」とは何であったのか、それは前の頁の9章18節以下に書かれています。イエスさまが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねると、ペトロが弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えます。イエスさまが神から遣わされたメシア、つまり世の救い主であるという答えは正しいのですが、では、どのようなメシア、どのような救い主と理解しているのかは問題です。この問答に続く21節以下で、イエスさまは弟子たちに明かします。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。弟子たちは、メシアであるイエスさまが受難するとは思ってもみなかったことだったのでしょう。ルカ福音には書かれていませんが、マタイ福音とマルコ福音の平行個所によれば、ペトロはイエスさまをわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」としかります。それに対してイエスさまは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロをいさめます。そして、聞いているすべての人々に言います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と。

きょうの福音は、このようなことがあった一週間後の出来事です。受難の予告に動揺した弟子をともなって、イエスさまは祈るために山に登られました。

《祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。》

イエスさまが輝く姿に変身し、モーセとエリヤが現われたこの情景は、この世の出来事ではありません。イエスさまの神の子としての顕現です。三人の弟子たち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブは、誰もが経験できることではない、非日常的な神秘を経験したのです。前の段落の最後に、イエスさまは「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」(27節)と語っておられましたが、まさに三人の弟子たちは神の国の現われを垣間見たのです。

また、この出来事は、イエスさまが私たちにもたらしてくださることを示しています。つまり、師の受難の予告を聞いて恐れを抱く弟子たちをつれて、イエスさまは祈られました。そして、その祈りに答えるように、これらすべてのことは起こりました。同様に、私たちが苦しみ、恐れ、不安の中にいるとき、イエスさまは私たちと共に祈ってくださり、神の導きがあることをこのようにして示してくださるのです。神のみ心が分からず途方に暮れているとき、イエスさまの祈りが私たちを導き、支え、なお私たちはこのイエスさまに従っていくことができる道が開かれるのです。

ところで、イエスさまは何を祈っていたのでしょう。主の祈りにあるように、み名があがめられ、み国が来て、み心が地上でも行われるように、と祈られたことでしょう。そして、この願いが実現するために、自分の果たすべき役割は何かと神に問いかけておられたことでしょう。その答えは、聖書に記された神のみ言葉によって示されるはずです。栄光に包まれて現れた二人、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物であって、彼らが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」について話していたとは、人々を無償で救うためにイエスさまの十字架と復活によって人々の罪を贖うことこそが神のみ心であり、み国の実現であり、み名の栄光であることをイエスさまが再確認した出来事であり、同時にまた、弟子たちがイエスさまのメシアとしての栄光を十字架と復活の前に一時的に垣間見た出来事であったということです。前段で引用した21節以下は「言葉による受難予告」でしたが、この変容の出来事は「出来事による受難予告」であったと言えるでしょう。

イエスさまは大事な場面でよく祈られました。神は祈りに答えて、イエスさまを真っ白に変身させて、メシアとして遣わされたことを確証します。その反面、弟子たちが祈ったという記事は福音書には出てきません。むしろ、イエスさまが祈っている間、弟子たちは睡魔にとらえられてさえいました。しかし、使徒言行録になって、弟子たちが使徒として宣教の現場に立って困難に直面したとき、弟子たちは祈り始めるのです(ルカ24章53、使徒言行録1章14など)。弟子たちを、ほんとうの意味でイエスさまに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言ってもよいのではないでしょうか。私たちの場合も、目覚めて祈る生活が生まれるときに、私たち一人ひとりが証し人として召された課題に真摯に向き合うことができるのです。

《ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。》

二人がイエスさまから離れようとしている、束の間の栄光の開示が終わろうとしていることを惜しんだのでしょう。ペトロは三人のために小屋を建てましょうと申し出ます。栄光の場面を少しでも長引かせたいと願ったのでしょう。しかし、この栄光はエルサレムにおけるイエスさまの十字架と復活をとおしてのみ実現することであって、今はまだその先取りとして一時的なものにとどまります。イエスさまの十字架への道は、むしろここから始まるのです。

《ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。》

雲は神を隠すものであるとともに、神の臨在を表わすものでもあります。雲は、目に見えない神がそこにいてくださるというしるしであり、雲の中からの声は、神のみ心を示しています。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。この声は、モーセとエリヤに代表される旧約聖書の預言はイエスさまにおいて実現することを意味しています。イエスさまが現われた以上、これからは神を信じるとは具体的にはイエスさまに聞き従うことであることが示されています。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言われていたことと対応しています。

この言葉は、ヨルダン川でイエスさまが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3章22)によく似ています。洗礼のときから「神の子」としての歩みを始めたイエスさまはここから受難への道を歩み始めますが、その時に再び同じような声が聞こえます。つまり、神の子としての道は受難の道であることが示されるのです。きょうの福音は、イエスさまが旧約聖書に預言されたメシアであること、しかも苦難を受けることを通して救いを実現するメシアであることを、イエスさまご自身が再確認し、弟子たちもそのことを驚くべき仕方で示された、そういう出来事でありました。

イエスさまは、私たちを救うこと、十字架の贖いを、みずから選び取ってくださいました。私たちはこのお方を喜び、感謝したいと思います。そして、神が雲の中からおっしゃったように、イエスさまが弟子たちに親しく教えられたように、この救い主に聞き従うものとなりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン